第89話 本音と建て前
足を怪我したハットンに肩を貸して、女王の私室に戻りながら、私は内心、オックスフォード伯爵に怒りを爆発させていた。
あいつめ……!
これ以上調子に乗らさないよう、なんらかの形で鼻をへし折ってやらねばなるまい。
憤然としながらも、今の宮廷のバランスを考えると、なかなか手を出しにくい相手であるのも事実だ。
オックスフォード伯は、性格に大いに問題ありだが、華やかな才能に恵まれ、去年伯爵位を継いで以降、宮廷内での存在感を増し、着々と支持者を集めている。
庶民派官僚に敵意を抱く彼を不当に――実際に不当ではなくとも――冷たく扱えば、同じくセシルら庶民出身の廷臣の台頭を快く思わない貴族階級の不満が一気に高まり、内紛にも発展しかねない。
宮廷の勢力図を頭に描きながら、私はハットンを私室のソファに座らせた。
「……っ……」
「痛い?」
「いえ、大丈夫です……」
脂汗を浮かべるハットンの顔色を確認しながら、侍女が用意した清潔な布と水で傷口を洗う。布はすぐに赤く染まったが、流血の割に、傷自体はそれほど深くはなさそうだった。
傷口を押さえ、焦らず侍医が到着するのを待つことにする。
「髪が濡れてるわ。水をかけられたのね」
ハットンのふわふわの髪の毛が、湿ってぺしゃりとなっている。
その頭を撫でて軽く乾かすと、肩を落としたハットンがまた謝ってきた。
「陛下、申し訳ございません。御前でこのような見苦しい失態を……」
「いいの」
私の理不尽な采配にも、不平1つこぼさない健気な少年の頭を抱きよせる。
「へ、陛下っ?」
「ごめんね、ハットン」
謝らなければいけないのは私の方だ。
あの場で、誰よりも私に辱めを受けたのは彼だ。
私だって、ハットンが悪くないことは分かっている。
「あの場では、ああするしかなかったの」
例えばセシルのような、誰もが納得する実績のある重臣ならばともかく、ハットンはまだ宮廷に来て日も浅い。
女王が貴族を軽んじて、身分の低い寵臣の肩を持つような調停をすれば、当事者だけの問題でなく、宮廷の貴族階級全員の矜持を傷つけることになる。
「本心では出自よりも個人の資質を大切にしたいとは思っているけど、これが今の社会を成り立たせている秩序である以上、例え王であっても理には従わねばなりません」
どの時代にも、本音と建て前というのはある。
使い分けねばならないこと、妥協しなければいけないことは、世の中には往々にしてあった。
でも、理不尽に屈する悔しさというのは、分かっていても胸に巣くう。
「あなたが悪くなかったことは分かっています」
せめて個人的には、彼の受けた傷を癒したくてそう告白すると、ハットンは遠慮がちに私の腕を解き、真っ直ぐに見上げてきた。
「大丈夫です。己の身の程は知っているつもりです」
はっきりと答えた声は落ち着いていて、聡明な碧の瞳が大人びて見えた。
「むしろ女王陛下ともあろうお方に、これほど情けをかけていただけることが……」
そこまで言って、ハットンは迷うように言葉を飲み込んだ。
「ハットン……?」
「……不思議で……」
視線を落とし、呟いた言葉にドキリとする。
『違和感』を、覚えられた。そのことに胸がざわめく。
嫌な予感を覚え、息をひそめて相手を見返す私に、ハットンは意を決したように顔を上げた。
「陛下、あなたは……」
「――陛下、侍医が参りました」
その時、侍女の声が届き、ハットンが打たれたように言葉を飲み込んだ。
「入れて」
私はすぐに立ち上がり、彼の隣りを侍医に譲った。
手際の良い手当はすぐに終わり、老いた医師が息をつく。
「……終わりました。お若いですし、傷自体は治りも早いでしょう」
「ありがとうございました」
「ありがとう、ドクター」
ハットンと一緒に、私からも礼を言うと、侍医が一礼をして退室する。
侍医を送り出すため開けた扉を、侍女がゆっくりと閉めかけた時――
「失礼」
「きゃっ……」
閉じかけた扉に半身を滑り込ませて押さえた男に、驚いた侍女が小さく悲鳴を上げた。
「どうしたの? ウォルシンガム」
駆け込み乗車じゃあるまいし、突然、女王の私室に滑り込んできた男に驚く。
常に落ち着いているウォルシンガムにしては珍しい行動だ。
先ほど、決闘の現場に居合わせた彼と目が合った時は、いつも通りのように見えたのだが。
「陛下、今しがた情報が入りました」
そう言った彼の手には、開封された手紙があった。本当に、ついさっき受け取ったばかりなのだろう。
「スペイン本国にベラクルス港から連絡がありました。先月の下旬、サン・ホアン・デ・ウルア港にイングランドの私掠艦隊が不法に侵入し、これに居合わせたスペイン本国の船団が応戦、激しい戦闘の末に、イングランドの艦隊を殲滅したと」
「イングランドの私掠艦隊……?」
その報告の意味が分からなかったわけではない。
艦隊と呼べるほどの私掠船団は、私の把握する限り、イングランドには1つしかない。
それでも、わずかな希望に縋って聞き返すが、ウォルシンガムの回答は容赦なかった。
「……イングランド艦隊の船長はジョン・ホーキンズ。交戦したスペインの重武装船団には、フィリペ王が新たに任命したメキシコ副王、ドン・マルティン・エンリケが乗船していました」
淡々と答えるウォルシンガムの表情も、心なしか硬い。
疑いようもなく、それは半年前、私たちが送り出した、ドレイク達が乗る船団だった。
「……本当に、無事な船はないの!?」
「スペイン当局への報告では全滅となっております。ただし、捕虜及び陸上、船上での戦死者にジョン・ホーキンズの首はなかったようです」
「……スペイン当局からの情報……?」
場に居合わせたハットンが不思議そうな声で呟くが、気にする余裕もなく私は食い下がった。
「ドレイクは!?」
「一船員である男の消息までは分かりません」
「そんな……」
己の、血の気が引く音が聞こえた気がした。
「陛下、顔色が……」
膝の力が抜けそうになった私を、心配そうに近寄ってきたハットンが、足の怪我も顧みずに支えてくれた。
そのままソファへと誘導された私は、彼の肩を掴んだまま、その報告が意味することを考えた。
「私、何か間違えた……?」
「陛下……?」
目の前が暗くなるような不安に駆られ、傍にあったハットンの頭をかき抱く。
怖い。
ドレイクが……もしドレイクが死んだら、この国の未来はどうなるのだろう。
「私……今、ちゃんと未来に進めてる……?」
マリコに対してはああ啖呵を切ったものの、こんな時、未来の見えなさに、ひどく不安になる。
誰かに、答え合わせをして欲しくなる。
不安にしぼむ気持ちを奮い立たせ、私は何とか声を整えて命じた。
「――引き続き、事件の経過を追って。1隻でも生き延びて戻って来れた船があれば、すぐに保護するように、全港に哨戒命令を出して」
2日後、私の祈りを聞き届けたように、1隻の難破寸前の船が、イングランドの南海岸沖で哨戒船に保護された。
「ジュディス号が戻ってきた……!?」
その報告が届いた時、謁見の間にいた私は、外国大使達の目も気にせず、玉座から立ち上がって声を上げた。
「船員は無事なの!?」
「船を指揮していたフランシス・ドレイクを始め、乗員65名。怪我と栄養不足で衰弱していますが、命に別状はないようです」
「良かった……!」
伝令の回答に、膝から力が抜け、その場に座り込む。
だが、気が緩んだのも束の間、続く報告に、すぐに私は表情を引き締めた。
「そのフランシス・ドレイクからの伝言で、彼自身も怪我を負っていましたが、治療よりも何よりも先に、女王陛下に御目通りを願いたいと――どうなされますか?」
「…………」
立ち上がり、私はドレスの裾を払って答えた。
「ドレイクが到着したら、すぐに謁見の間に通して。事情は私が直接聞きます」
ドレイク達の船が牽引されたプリマス港からロンドンまでは、馬でぶっとおしで走っても、6時間以上はかかるだろう。
怪我の身であること考えると、出来れば数日かけてでも休息を取りながら来て欲しかったが、伝言の内容と彼の性格を考えると、必ず今日中にここに現れるだろう、という妙な確信があった。
それまでに、今日の仕事を全て終わらせようと、私は予定された謁見を巻きで終わらせ、執務室に引きこもり倍速で事務仕事を片付けた。




