第76話 王冠の価値
「今度も何も……前も勝ったのそっちじゃん……」
彼女と男を奪い合った覚えはないので、勝ったとか負けたとかいう言葉は使いたくないのだが、結果だけ見ればそういうことになるはずだ。
思わず呟いた私に、マリコは眦を吊り上げただけだった。
『マリコと付き合うことになっちまった……』
「なってしまった」の意味が分からなかったが……いや分かってるけど……私にそう言ったのはレイの方だ。
あれで、私の最初で最後の恋は終わった。振られたのは私の方だ。
けど……それももう、どうでもいいか。
溜息をつき、私はその過去を切り捨てた。
その感傷を引きずる意味は、今はもうない気がした。
せっかく後の歴史を知る『メアリー・スチュアート』に出会えたのに、安易に敵対関係に立つのはもったいない。
何とかして、彼女と友好的な関係を築けないだろうか。
感情的に嫌われているのは仕方がないにしても、彼女にとっても、私が味方である方が何かと都合が良いはずだ。
濡れた前髪を掻き上げ、私は努めて冷静に切り出した。
「分かってるなら話が早いわ」
「何?」
「ならば協力しましょう」
それまでの挑発を受け流し、交渉に持ち込んだ私に、マリコは拍子抜けしたように目を瞬かせた。
「あなたは歴史を知っているんでしょう。エリザベスは結婚しない。あなたが手を下さなくても、世継ぎがないエリザベスの後、チューダー朝は断絶し、スチュアート朝が起こる。メアリー・スチュアートが死ぬ必要なんてない」
エリザベス1世の後を継ぐのは、メアリーの息子のジェームズ1世だ。
長きに渡るスコットランドとイングランドのいがみ合いは、それで終止符を打つ。
「エリザベスの半世紀に近い治世を譲るわけにはいかないけど、あなたを殺さなくても、未来が大きく変わることはないと私は思うの。私は、あなたが処刑されないように守る。あなたは、私を暗殺する陰謀を企てない。そうすれば、大きく歴史を変えずに、あなたの命を救うことが……」
「都合のいいこと」
順序立てて説得しようとした私の言葉を、マリコが遮る。
「アナタが死ぬのを待てば、アタシもおばあさんじゃない。それまでアナタの日陰にいろっていうの?」
「日陰?」
彼女の目的は、処刑の運命を回避することではないのか?
「イングランドがスチュアートのものになるなら、イングランド女王メアリー・スチュアートがいてもいいんじゃない?」
「……!」
その言葉に息を飲む。
彼女は、本気でイングランド女王になりたいのだろうか。
宗教対立や国家間のパワーゲームの意味合いが強いこのイングランドの継承問題で、彼女自身がイングランド女王の座を求める理由が分からなかった。
「それは……歴史が……」
「エリザベスが死んで、アナタがエリザベスになり変っている時点で、とっくに歴史なんて変わってるじゃない。アナタは、自分がエリザベス女王になれると思ってるの?」
「……なるわよ。それが仕事だから」
キャットも言っていた。
私とエリザベスは、『似ているところもあるけど、違うところもたくさんある』と。
私は完全にエリザベス1世になることは出来ないし、エリザベス1世の全てを知っているわけではない。
ならば、どれだけ歴史に忠実であろうとしても、必ず齟齬は生まれてくるはずだ。
その齟齬を埋められるのは、私自身の力でしかない。
エリザベス1世が、何もないところから道を切り開いていったように、私自身が考えて、考えて、正しい道を選ぶ他はないのだ。
だが、幸運なことに、私には彼女が置いていった道しるべがある。
その道しるべを頼りに、私は私なりに、黄金時代を築いていく。
次の時代に繋がる時代を。
私を助けてくれる人たちと一緒に。
「エリザベスは生涯、国家のために正しい道を選ぼうとした。その結果が、私たちが知るエリザベス1世なのよ。だから私も、イングランドの王として正しい道を選ぶ。そうすれば、絶対にエリザベス1世に近づける」
苦手意識が勝って1歩引いていた女性に対して、これまでにない強さで宣言すると、マリコは口を開けたまま背もたれに倒れ込んだ。
呆れているのか、驚いているのか。
「たいした自信家。もっと大人しい子だと思ってたけど、レイの前では猫かぶってたのねぇ」
「…………」
嫌われたくなくて自分を抑えていたのは事実なので、黙って受け止める。
「いいわよぉ。アナタがアタシを後継者に指名するっていうなら、大人しくしておいてあげる。アタシはね」
その言葉には、彼女自身が手を下さなくとも、メアリーを後継者に指名した時点で、メアリーを女王に担ごうとする一派が、確実に私の命を狙ってくることを、理解している響きがあった。
だからこそ私が――エリザベス1世が、誰も後継者を指名しなかったのだということを、彼女は理解しているのだろうか。
自分の身の安全に対しては脳天気だとウォルシンガムに言われる私でも、さすがにそのことに気付かないほど愚かではない。
「どうして、そんなにイングランド女王になりたいの。周りに言われたから?」
スコットランド女王でありながら、イングランド女王にもなりたいという感覚がいまいち分からない。
こっちは、1つの国を治めることを考えるだけでも精一杯なのに。
彼女が、争い合っている同じ島の2つの国を1つにしたい、といったような大義に興味があるようにも思えなかった。
「それもあるけど、だって元々アタシのものになるべきだったんでしょう? だったら取り返さないと。どうせなら、王冠の数が多い方がいいじゃない。この前1個減ったし」
「王冠はアクセサリーじゃないのよ? その分の重責が……」
「だからぁ、それはアナタがやらなくても、誰かがやってくれるわよ」
「…………」
話が平行線をたどる。
根本的な部分で、王冠に対する価値観が違う。
そう悟り、私は、この場でそれ以上の説得をすることは諦めた。
「……あと2日あるわ。よく考えて、メアリー。あなたの人生がかかっているのよ」
溜息の後、言い含めるようにそう言って部屋を出ようとした私の背に、おどけたような声がかかった。
「コワー。それって脅しよね?」
「…………」
彼女の立場からすればそういう意味合いになるのだと気付き、どこまでも相反するこの関係に、私は途方に暮れた。
部屋を出て、ひとりフラフラと廊下を渡りながら、一気に脱力する。
張っていた緊張の糸が緩み、鼻の奥がツンと痛んだ。
私、あの子にそんなに嫌われてたのか…
いや、違うな。多分、レイと付き合えてた時は、私なんか眼中になかったはず。
絶対振り方が悪かったんだ。
レイの馬鹿ヤロー。何で今更私の名前出すんだよ。
しかも振ってないし。
私が一時帰国してる間に、マリコとくっついてたの向こうだし。
もう何年も会ってない男を逆恨みしながら、ぼんやりとこれからのことを思う。
メアリーがマリコだった。
私と同じ、21世紀から来た女王。
大学時代の知り合い。
正直、苦手だったし、良い思い出はないけど……でも……
どうして、21世紀を生きた人間を断頭台に送れるだろう。
考えただけでも血の気が引き、一瞬足がもつれて、私は壁にもたれかかった。
大きく深呼吸をする。落ち着け。
さっきはあれが精一杯だったが、ちゃんと冷静な対応が出来ていただろうか。
気になったが、つい先程のやりとりを客観的に振り返られるほど、今の私も平静ではない。
早まっていた脈拍が落ち着くのを待ちながら、窓に目を向けると、赤い西日が差し込んでいた。
随分と長話をしてしまったらしい。
もうすぐ晩餐の時間になる。先に部屋に帰らせたキャットが、そろそろ心配している頃だろう。侍女もつけずにフラフラしてることが知れたら、ウォルシンガムに叱られそうだ。
部屋に戻らないと……っていうか着替えないと。
うっかり忘れていたが、頭からワインをぶっかけられたんだった。前髪とか、多分ワイン臭くなってる。
お風呂入る時間あるかな。
色々と考えて気を紛らわしていると、前方からセシルとウォルシンガムがやってきた。
「陛下! キャットから、陛下がなかなか戻られないと――陛下、それは……!?」
私の姿を認め、慌てて駆け寄ってきたセシルが、ドレスを見て絶句した。
純白のドレスが赤の飛沫で汚れているのだから、ぱっと見には何事かと思うかもしれない。
「……赤ワインですか……?」
乾いて固まった前髪をすくい上げ、軽く匂いを嗅いだウォルシンガムが、低い声で指摘する。
「転んだ……」
説明に迷い、下手な言い訳を口にする。
すると、ウォルシンガムが厳しい声で私を問い質した。
「そんなわけないでしょう。メアリーですか!?」
「転んだの!」
強く言い張ると、ウォルシンガムがぐっと押し黙る。
その顔を見上げると、堪えていた涙腺が緩んだ。
つらい、というよりは、申し訳ない気持ちが勝った。
「ゴメン、せっかくもらったのに……」
「いいんです。そんなことは」
主語もなく謝ってしまったが、台無しにしてしまったドレスのことだというのはすぐに分かったらしい。
涙が溢れてくるのを、口を結んで堪えていると、向かい合ったウォルシンガムの両腕が伸びかけ――すぐに下ろされた。ぐっと、その両拳を握りしめる。
「……今年も必ず贈ります」
告げられた言葉が優しくて、私は頷くふりをして涙を振り落とした。
※
その後、私は何事もなかったかのようにメアリー達と一緒に晩餐を取り、コルチェスター城で1日目の夜を迎えた。
私の部屋で荷を整えていたキャットが、汚れた白いドレスを手にして、痛ましげに赤い染みを見下ろした。
「陛下、このドレスは……」
「……うん、置いといて。もう着れないけど」
客室のベッドに転がって、枕を抱えたまま放心していた私は、数拍おいてキャットの言葉を理解し、ぼんやりと答えた。
考えなければいけないことは山ほどあったが、今は少しの間、何も考えたくはなかった。
見るともなしに見慣れない部屋を眺めていた私の視界に、キャットが現れた。
神妙な顔でベッドの縁に腰かけたキャットに、何か話したいことでもあるのかと思い、のそのそと身を起こす。
「どうしたの? キャット……」
そう声をかけると、返事の代わりに腕が伸び、ぎゅっと抱きしめられた。
温かい胸に抱き込まれる。
「キャット?」
「いやですか?」
不思議に思って名前を呼ぶと、労わるような優しい声が返ってくる。慰められているのだと、すぐに分かった。
嬉しくてほっとして、私はキャットの背中に腕を回した。
「ううん。実はぎゅってされるのも、するのも大好きなの。ありがと」
「エリザベス様が小さい頃、辛いことがあった時に、よくこうして差し上げてましたの。物心つく前にお母様に亡くなられて、母親の温もりを知らない方でしたが……」
「でもキャットがいたんでしょう? なら大丈夫よ」
そう言うと、小さく笑ったのが動きで分かった。
「……キャット胸大きい」
「陛下!」
気恥ずかしそうな叱咤を受けながら、同性特権で柔らかい胸に顔を押しつける。わーい役得。
中高は女子校だったので、女の子に抱きつき放題だったのだが、さすがに大学で共学に入ってからは、人目を気にして自重した。
その後、彼氏らしい彼氏も出来ていないので、あまり誰かにベタベタする機会にも恵まれなかった。
「眠くなってきた-」
「陛下、子供じゃないのですから……」
久しぶりに抱きつかせてくれる人がいたので、調子に乗って甘え倒すと、呆れられた。
そう言いながらも、子供をあやすように顔にかかった髪を後ろに撫でつけてくれる。
そういえば、キャットって旦那さんはいるけど子供はいないんだよな……あのエリザベスを育てたくらいだから、いいお母さんになりそうだけど。
甘やかされて満足していると、ふいに、キャットの手が止まった。
「陛下……あのメアリー女王は、一体?」
「…………」
「私も聞いたことのない、不思議な言葉を話しておりましたけど、まさか……」
昼に、急にメアリー――マリコに話しかけられた時、同伴していたキャットには、ろくに説明もせず先に部屋に戻ってもらっていた。
侍女たちはごまかせたとしても、さすがに教養高いキャットは無理か。
「……メアリー、私と同じ、21世紀からの転生者だった」
「……!」
息を飲んだキャットを、顔を上げて見上げる。
「知り合いだったの。こういうことってあるのかしら?」
「そんなことが……セシルたちには話しましたか?」
「まだ……話した方がいいかな、やっぱり」
迷いを見せる私に、キャットが心配そうに眉をひそめる。
「何か気がかりでも?」
「うん、ちょっと……気が進まなくて」
気が進まない理由は、あくまで個人的な――プライバシーに関わる部分だった。
彼らに知られれば、どんな知り合いで、何があってそうまで確執ができたのか、というところまで話さなければいけなくなるかもしれない。
私としては、今更掘り返して人に話して聞かせたいようなことではなかったし、特に、男の人に聞かせるのは抵抗がある。
でも、政治的に重要な相手である以上、知っている情報は開示した方がいいのか。
それはそれで混乱を招くだけのような気もして、迷いがあった。
「最終的には、陛下のご判断でなされれば良いかと思います。陛下のお心に迷いがあるようなら、このキャットからは誰にも言いません」
「ありがとう、キャット」
私の願いをくみ取ったキャットの言葉に安心する。
礼を言うと、返事の代わりに優しい手が頬を撫でた。
だが、そこまで話したキャットにも、将来、私がメアリーを処刑しなければいけない未来が待ち受けているのだということまでは、口にするのは憚られた。
「……キャットはさ……未来のこと知りたい?」
ピタリ、と私の髪を梳いていた手が止まった。
「私の生きていた21世紀が知ってる、この時代のこと」
「……知りたいような……知りたくないような……」
深く思いを巡らすような声で、キャットは答えた。
「正直、怖いと思う気持ちはあります。知ってしまったらそこで、自分の運命が決まってしまうような気がして……」
「……やっぱりそうよね。私もそう想う」
例えば、私が未来人と出会ったとして、私がどんな人生を送って、いつどんな風に死ぬかを、聞きたいと思うだろうか?
聞きたい人もいるかもしれないが、私は、聞いてもいないのにそんなことをベラベラしゃべる奴がいたら、人の未来を勝手に決めんなと、ひっぱたいているかもしれない。
今だって、歴史を指標にしながらも、私自身、あまり詳しくなくてよかったと思ってしまうこともあるくらいだ。
例えば、私はセシルや、ウォルシンガムや、ロバートの名前すらロクに知らなかったが、彼らが、これからどういう風に生きて、いつ、どういう風に死ぬのかを知っていたら、とても怖かったと思う。
知りたくないし、知らなくてよかった。
一緒に同じ道を歩いて行ける。
「セシルたちはどう言ってますの?」
「セシルたちは……あんまり聞いてこない」
ウォルシンガムなど、私が歴史を頼りにするとあからさまに不機嫌な顔をするくらいだ。
「ならば、私も聞きません」
セシルたちを高く買っているキャットは、彼らの判断に準じた。
「ただ、陛下がお話ししたいことがあれば仰って下さい。このキャットは、陛下をお慰めし、陛下をお助けする為にここにいるのです」
「ありがと、キャット。じゃあ、1つだけ。これは、キャットにも協力して欲しいんだけど……」
「何なりと」
頼もしく請け負った彼女に抱きついたまま、息を吸い込み、はっきりと告げる。
「エリザベスは生涯結婚しません」
「陛下……それは……」
キャットが身体を強張らせたのが分かり、顔を上げて相手を覗き込む。
前々から結婚はしないという意志は伝えていたが、本当の理由をちゃんと伝えたことはなかった。
筆頭女官のキャットは、私のプライベートに全面的に関わってくるので、その辺りだけは、話しておいた方が面倒がないだろうと以前から思っていたのだが、ようやく決心がついた。
「エリザベスが誰とも結婚しないことで、イングランドの独立は守られる。そして、新しい王朝が起こって、イングランドの新しい時代が始まる。それが、私の知っている歴史」
エリザベスがチューダー朝の後継者を残さずに死んだことで、スチュアート朝に時代が移り、憎しみ合ってきた国が1つになった。
そしてその小さな島国は、いずれ大英帝国として世界を支配し、『イギリスの平和』と呼ばれる時代を築くのだ。
「その先の歴史は――彼女の判断がとても……とても正しかったことを伝えてくれている。だからキャット、私が結婚しないで済むように手伝ってくれる?」
これはキャットにとっては、辛い頼みかもしれない。
修道女でもない限り、結婚し子をなすことは、この時代の女性にとって何よりも名誉なことで、逆に言えば、そうでない女性はこの上なく不名誉を蒙るというのが、この時代の常識だからだ。
予想通り、キャットは辛そうに顔をゆがめた。
「セシルは……そのことは知ってるのですか?」
「言ったら怒られちゃった」
「そうですとも。陛下が、ご自身の意思でなく、自らの人生を犠牲にすることなど、私たちは喜びません」
その台詞は、私を想ってのものだと分かるので、私は小さく微笑んで受け止めた。
「でもキャット、これは私の意志でもあるの。今なら、どうしてエリザベスがそうしたのかが、よく分かるから」
処女王の名ばかりが独り歩きするエリザベス1世が、どうして生涯独身を貫いたのか、そこには、深い理由と決意があったのだと、私は同じ立場に立って初めて知った。
……多分、それは女性としてはとても悩ましく、苦しい決断だっただろうが。
「陛下がそうおっしゃるのなら……ご協力致します」
「ありがとう」
表情を曇らせながらも、頷いた忠臣に感謝する。
「でも、いつでも気が変わったら言って下さいね」
やはり親心としては結婚して欲しいらしいキャットは、忘れずにそう付け足した。




