第70話 白の女王
まずは漂着したメアリー女王一行を保護し、イングランド政府は速やかに――だが密やかに、彼らをコルチェスター城へと移した。
フランスを発ったメアリーの随行員は数百名規模の大所帯であり、彼らの滞在中の世話役には、城の所有者であるノーサンプトン侯爵兼エセックス伯爵ウィリアム・パーを特命で派遣した。
イングランド女王との会見の話を伝えると、これについてはメアリー側も喜んで受け入れたらしい。
日程は3日間。
イングランド女王の随行者は、秘密枢密院と護衛隊長、副侍従長、精鋭の護衛官ら少数と世話役の従者たち。女官は女王の身の周りの世話をする侍女たちと、筆頭女官のキャットだけで、グレート・レディーズは同行しない。悩んだのだが、彼女らの背後には、どうやっても派閥や親類たちの影が付きまとうので、今回のような極秘の行幸には向かないと判断した。
こうなると、少し小旅行のようで楽しくなってくる。
何だかワクワクしてきた!
「陛下、会談でのお召物はいかがなさいます?」
日程が近づき、旅支度に入ったキャットがそんなことを聞いてきた。
「お悩みのようであれば、衣裳係を呼びましょうか?」
「ううん、いい。実はもう決めてあるの」
私が衣装を指定すると、キャットは会心の笑みを浮かべた。
「それはようございます。当日を楽しみにしておりますわ」
そして、すっかり春らしく色づいた4月の下旬、私たちは一路、イングランド南東部のコルチェスター城へと向かった。
エセックス州自体はロンドンの隣の州なので、馬で2日程の距離だ。
出発の直前、ウォルシンガムが不景気な顔で耳打ちしてきた。
「陛下、1つお耳に入れたいことが」
「……何?」
内心、嫌な予感を覚えながら聞き返す。
こういう場合は、大抵悪いニュースなのだが……
「スペイン当局が、植民地行政官に対し、異端者の密貿易を断固として受け入れないよう引き締めを強化しました。密貿易に目をつぶる行政官を解任し、新任の総督が厳密な調査を行うため派遣されています。異端者は異端審問に引きずり出し、殺す命令さえ出しています」
「異端者の密貿易?」
ピンポイントで、イングランドの私掠船を狙ったものだ。
「経済制裁の報復?」
「おそらくは」
「……ドレイク達、大丈夫かしら」
今まさに海洋航海に出ている船乗り達の身を案じる。
「彼らは、船上では優秀な軍人でもある。海と陸を股にかける戦闘であれば、そう遅れを取ることはないでしょうが……」
そう言いながらも、ウォルシンガムも渋い顔をしていた。
彼らがロンドンを発ってから、すでに3ヶ月が経過している。
その間にヨーロッパは目まぐるしく情勢が変わったが、海上で過ごす彼らには届いてないだろう。
情報が遮断された状態で、イングランドとの関係が悪化したスペインの植民地と貿易を行うのは危険だ。
これまで普通に交易が出来ていた港から、いきなり砲撃を受ける可能性すらあるのだ。
嫌な予感を抱きながらも、私たちも、海の上の彼らに施す手立ては何もない。
連絡手段が限られるこの時代では、1度航海に出た海の男たちを、見送る側は、ただ祈りながら待つしかなかった。
※
その日は、目的地とロンドンの中間地点にある州都チェルムスフォードで1泊し、翌朝、私はメアリーとの顔合わせに向けて選んだドレスに身を包んだ。
まだ1度も着ていなかった、ウォルシンガムが誕生日にプレゼントしてくれた白のドレスだ。
公式の場などで豪華な衣装を着るのは、女王としての貫録を出すため、という理由があるのだが、今回は年下だし、できたら仲良くしたいから、怖い年上の印象を与えないように……とか、あまり威圧しないように……などと考えていたら、これがちょうどいい気がしたのだ。
「とてもよくお似合いですわ、陛下」
ドレスに合わせて髪もシルバーと真珠の髪飾りでまとめ上げられ、完成した姿を、キャットが上機嫌に褒めてくれる。
華奢なデザインの純白のドレスは、やっぱり私好みだ。
「私も、常々、陛下には白がお似合いになると思っていましたの。ウォルシンガムも意外に良い趣味をしていますわね」
ここで意外と言われてしまうウォルシンガムも可哀想だが、私も意外と思ってしまったので、人のことは言えない。
「キャット、ウォルシンガムって今どこにいると思う?」
「この時間なら、お部屋か礼拝堂では?」
「あ、そっか」
ウォルシンガムなら、きっと朝一はお祈りをしているはずだ。
やっぱりこういうのは、贈ってくれた人に1番に見せるもんよね!
「私、ちょっと行ってくる!」
「はい、いってらっしぃませ」
なにやら微笑ましそうな顔でキャットに見送られ、裾を翻して部屋を出ると、いきなり廊下で目的の人物に鉢合った。
「あれ、クマさんお祈りは?」
「もう終わりました」
早っ。
何時に起きてるんだろう。
「陛下、それは……」
「あ、そうなの。前にもらったやつ着てみたから、ちょうど見せに行こうと思って」
先に気付いたウォルシンガムに、裾を広げてくるんと回ってみせる。
「……似合う?」
聞いてから、そういえばこの男に、服やアクセサリーを褒められたことってないかもしれない、と気付く。
女王へのお世辞が挨拶レベルの宮廷の基準で言えば、逆に珍しい。
「…………」
ウォルシンガムは、顎に手を当ててこちらを眺めたまま、無言だった。
……どーゆー反応かなっ? それは!
予想外のしらけた反応に軽くショックを受けながら、固唾を飲んで言葉を待つと、顎髭を撫でていた男が、ようやく口を開いた。
「お似合いです」
…………
「……ありがとう」
それだけっ?
拍子抜けしすぎて、礼を言うのが遅れてしまった。
いや、いいよ? 別にさぁ。何もロバートみたいな歯が浮くような美辞麗句を並べろなんて言わないし。
でも無表情に棒読みで一言とか、贈り主がこの反応の薄さでは、ちょっとくらい物足りなさを感じても、罪はないんじゃないの。
張り切って見せに来ただけに、なんか無理やり言わせた感じがして、逆に複雑な心境だ。
それともあれか。私が褒められ慣れし過ぎて贅沢になっているだけか?
脳内でいくつか葛藤した後、私はくるりと後ろを向いた。
いいや、もう。用事済んだし部屋に帰る。
「お待ちください陛下」
結局ふてくされて部屋に戻ろうとしたところで、後ろからウォルシンガムに呼び止められた。
「私に見せに来て下さったのでは?」
「そうだけど……もう見たでしょ。ありがとう贈り主さん」
半分だけ振り返り、ややふてた口調で言うと、ウォルシンガムが否定した。
「いえ、まだです」
「は?」
「それは陽光の下でこそ照り映え、陛下の内面の気高さをより引き立てるのです。こちらへ」
淡々と促し、踵を返して廊下を進むウォルシンガムの後ろを、よく分からないままついていく。
何なんだ一体……
「……わー、いい天気」
柱廊を抜けて1歩外に踏み出すと、真っ白のころころとした雲がぽつぽつと浮かぶ、晴れやかな青空に迎えられた。
思わず、天を仰いで声に出す。
過ごしやすい春の日の陽光が、柔らかく城の庭に降り注いでいた。
お散歩日和だ。
そもそも機嫌を損ねたのもほんの些細な理由だったので、すっかりどうでも良くなり、私はつまらないことで拗ねるのはやめて、このままウォルシンガムを付き合わせて散歩に出ることにした。
「クマさん、お散歩付き合って。そしたらさっきのこと水に流してあげ……る……」
水に流すも何もウォルシンガムには悪いことをした自覚すらないはずだが、そう言って彼を振り返ったところで、私は言葉を失った。
ウォルシンガムが。
あのウォルシンガムが。
こちらを眼を細めて眺めながら、穏やかに微笑んでいる。
「……何で、笑ってるの?」
驚きすぎて、妙な質問をしてしまった。
すると、ウォルシンガムが意外そうに口元を押さえた。
「笑っていましたか?」
「うん、思いっきり」
別に大口を開けて笑っていたわけではないが。もしかして自覚なしか。
だが、そこで取り繕うような可愛げはなく、ウォルシンガムはしれっと言った。
「目を楽しませていたので、自然と表情が緩んだのでしょう」
め……をたのしませ、って……そこまで言っといて、直接の褒め言葉は出てこないんかいっ。
恥ずかしいやらなんやらで、内心逆ギレして突っ込むと、表情筋を引き締めたウォルシンガムが、真顔で聞いてくる。
「そういえば、先ほど散歩に付き合えとおっしゃいましたか?」
一応聞いていたらしい。
「いい! もう戻る。用は済んだんでしょ?」
「満足しました」
何の満足だ!
こいつも本当によく分からない。
今更ながら、だいぶ変な人だ。
くそぅ。なんか恥ずかしいぞ。
赤くなった顔を俯いて隠し、踵を返して早足で柱廊へと戻る。と――
「陛下!」
「うひゃっ?」
いきなり突撃してきた男に抱き上げられ、心底ビックリした。
「ロバート!?」
どっから出てきた!?
「こんなところに春の風に誘われた太陽の女神が降臨せしめられるとは……」
息を吸うような自然体で人をお姫様だっこしてしまえる男は、朝早くから絶好調で寝言全開だ。
「陽光の下で照り映える純白の衣装に身を包んだ貴女はまさにアストライアー――その内側からいずる高貴なる輝きが男を惹きつけて止まない……どうか、俺だけを惹きつけて下さい、陛下」
一体何がこの男のスイッチを入れてしまったのだろう。
とりあえずドレスが大好評だったらしいことだけは、辛うじて読み取る。
ロバートは目を輝かせて私を覗き込んだ。
「俺と貴女の仲を引き裂こうとする、口さがない廷臣達もここにはいません。今ならこの軽い身体を連れ去って、俺たちだけのエデンにたどり着けるかもしれない――陛下、今すぐ神の御前で誓いを交わしましょう。幸い、司祭を1人連れてきております」
「待てい!」
突然登場したかと思うと滔々と口説き文句を並べ、お姫様だっこのまま礼拝堂へ向かうロバートに突っ込む。
足取りも軽く柱廊を突き進むロバートの進行方向から、1人の男が歩いてきた――セシルだ。
たぶん方角的に、礼拝堂でのお祈りを終えてきたのだろう。
「おや、レスター伯。こんな朝早くから、陛下を連れてどちらに向かうおつもりで?」
丁寧な口調で問い質したセシルの中性的な美貌には、にこやかな微笑が湛えられている。
……なのに、なぜだろう。そこに、有無を言わせぬ迫力を感じるのは。
「ふっ……」
セシルとの対峙の末、どこか芝居じみた息を吐いたロバートが、私を降ろした。
「申し訳ありません。陛下の清純な麗しさに目がくらみ、先走りました」
先走るにもほどがあるだろーよ!?
そんなロバートの肩越しに、後をついて戻ってきたらしいウォルシンガムの姿が目に入る。
いつも通りと言えばいつも通りだが、ロバートの暴走を静観するウォルシンガムの眼差しは冷ややかだ。
この2人の温度差も、なかなかのもんである。
朝からそんな一幕があったりしつつも、私たちは早々にチェルムスフォードを後にし、目的地のコルチェスター城へと馬を進めた。




