第67話 私のウサギさん
「セシルが戻ってきたって!?」
3月20日。和平交渉の使者としてスコットランドに飛んでいたセシルが、ロンドンに帰ってきた。
軍を率いるロバートとは別動で、先に戻ってきたという宰相の帰還を聞いた私は、スカートの裾を持ち上げ、全速力で階段を駆け下りた。
1階にまで降りると、廊下の向こうから、旅装のままのセシルが歩いてくるのが見えた。
「おかえりセシル!」
そのまま駆け足で近づくと、気付いたセシルが微笑みかけてくる。
「ただいま帰りました、陛下」
わーい。セシルだセシルだ!
丸1ヶ月以上いなかった相手を、私は大喜びで出迎えた。
「無事で良かった。怪我はない? 体調は?」
「ご心配なく。ピンピンしています。陛下の方こそ、お元気そうで何よりです」
「うん、でも結構いない間に色々あって……また後で話すね。ご苦労様、結果は聞いています。期待通りの成果を挙げてくれてありがとう。さすが私の精霊だわ」
首尾良く終わった和平交渉をねぎらうと、セシルは司令官のロバートを褒めた。
「リース城の攻略はロバート卿がノーフォーク公と連携を取り、よい働きをしてくれました。私がつく交渉の席でも、慎重にお膳立てをしてくれていたので、終始有利に話を運ぶことが出来ました。今回の結果は、彼の功績が大きいでしょう」
かつてロバートが、ここまで手放しにセシルに褒めてもらえたことがあっただろうか。
成長したな、ロバート。
ともあれ、これで当初の目論見通り、ロバートは胸を張って宮廷に戻ることが出来るだろう。
このスコットランド出兵の功績から、私は北部長官ロバートをレスター伯に叙することを決定した。
1週間後、ロバートが遠征軍を率いてロンドンに戻ってきた。
「陛下! 今! 今、ロバートが帰りました!」
高らかにそう宣言し、凱旋した男を、宮殿の正門で出迎える。
凱旋の行軍を率いて帰ってきたのは司令官のロバートだけで、副司令官のトマスは、ロンドンまでは戻らず、ノーフォーク州に留まることにしたらしい。
私の両隣にはセシルと護衛隊長が立ち、後ろには枢密院委員とウォルシンガムが立っている。
記念すべき勝利を引っさげた北部長官の凱旋を、それだけの面子が顔を揃えて出迎えたのだが、ロバートは脇目もふらずに私に駆け寄ると、周囲の目も気にせずに抱きついてきた!
こら、ロバート!
「陛下のお傍にいるが天国、陛下のお傍にいないは地獄です!」
大げさに嘆いた男の口からは、滔々と滝のように言葉が流れ落ちる。
「お顔を見れない間にこの身は細り、魂は削られ、いつ朽ち果てるともしれぬ暗闇の中にいるようでした……!」
寂しいと死んじゃうとか、ウサギがあんたは!
私も大分、ロバート語を瞬時に理解できるようになったものである。
「ただ1つ、陛下のお役に立ち、もう1度相まみえることだけを希望に、彼の地で戦い続けて参りました!」
私を抱きしめたまま感極まったように叫んだロバートが、満足そうに息を吸い込み、一転して穏やかな口調で囁いてくる。
「こうしていると、世界の全てが明るく、色鮮やかに見える……やっぱり、貴女は俺の太陽だ」
「分かった。分かったから離れなさいロバート」
ほっといたら延々と続きそうな感激の再会をぶった切り、しがみついてくる身体を押しやる。
なんか久しぶりだな、このノリ。
そんなやり取りを胡乱な目で眺める枢密院委員たちも、ああ、そういえばこんな奴だったな……と思い出しているかのようだった。
だが、手っ取り早く汚名を返上するには、軍功を立てることだとセシルが指摘した通り、彼の立場は、もはや以前のように肩身の狭いものではない。
「よくやりました、ロバート卿。今回の功績を鑑み、あなたをレスター伯に叙します」
「ありがたき幸せ」
この昇進については事前に知らせていたため、そこは神妙な口調で受け取り、ロバートは恭しく膝をついた。
「陛下のご厚意をしかと受け止め、今後も我が身命と比類なき忠誠を捧げ尽くし、ただ陛下のために邁進する所存です」
いかにも忠臣らしくキッチリと答えるロバートは、やたら様になっている。
それが逆にらしくなかったので、私はイタズラ心が湧いて、砕けた口調で付け足した。
「よろしく、レスター伯……私のウサギさん」
その場で決めた私の愛称に、見上げたロバートの表情が変わる。
「……っ陛下!」
「きゃっ? ちょ、ちょっとロバート!?」
「貴女のウサギです陛下……!」
「貴方は狼です、レスター伯。ウォルシンガム、叙任式の準備があるので、すぐにレスター伯を控え室にお連れして下さい」
「御意」
感激したロバートが我を忘れて襲いかかってきて、セシルとウォルシンガムに引き剥がされたのは……まぁ、今日だけはご愛敬ということにしておく。
※
勝利の凱旋を祝い、叙任式を終えてロバートは、めでたくレスター伯爵となった。
以前、ロバートの風当たりが強かった時に、周囲の目を気にして散歩を取りやめたことを思い出し、私は仕切り直すつもりで彼を庭園に誘った。
今や、すれ違う人も、軍功を上げ伯爵に叙されたロバートに敬意を払い、胡散臭い視線を送ってくるような者はいない。
現金なものだが、これが宮廷である以上、皆、この社会で生きていく方法を模索していくしかない。
権力争い、勢力争いが常となるこの世界で、王という立場は利用されることもあるし、利用することも出来る。
一筋縄ではいかない廷臣達をどうまとめ上げていくかは、これからの私の大きな課題でもあった。
「でも安心したわ」
「何がです?」
徐々に春めいてきた庭園を、のんびりと歩きながら言うと、ロバートが聞き返してくる。
「トマスを派遣したはいいけど、2人がまた喧嘩したらどうしようって心配してたから」
「ああ」
納得したロバートが、誇らしげに笑った。
「いや、あの男はなかなかにいい男ですよ」
どうやら、北の国で男の友情が芽生えたらしい。
「俺以外に陛下にふさわしい男がいるとすれば、あの男くらいだったでしょうが」
まだ言うかこの男は。
呆れるが、それはロバート流の賛辞としては、最高ランクのものなのかもしれない。
「ロンドンに共に戻って、1度陛下に顔を見せてはどうかと提案したのですが、断られてしまいました」
「そう……」
やはりまだ、顔を合わせ辛いところがあるのだろうか。
知らず声が沈んだ私に、ロバートが気遣うように見つめてくる。
「会いたいですか?」
「……そうね、会って思いっきり褒めてあげたかったけど、来れないんじゃ仕方がないわね」
軽い落胆を隠して微笑むと、急に肩を引き寄せられた。
唇が頬に触れそうなくらいの距離で囁かれる。
「なら、代わりにもっと俺を褒めて下さい、陛下」
「わ、分かった! 褒めるから離しなさいっ」
性懲りもなくべたべたしてくる相手を慌てて引き離す。
「あんまり調子に乗ってると、また足下すくわれるわよっ? まったく単純なんだから……」
完全に浮かれている男に脱力してしまうが、その分かりやすさは、奸計と策謀が闊歩するこの宮廷では、幾分ほっとするものでもあった。
~その頃、秘密枢密院は……
「まったく……あの男は……」
レスター伯ロバート・ダドリーの叙任式が終わり、執務室に戻る途中、セシルはこめかみを押さえて呟いた。
今頃は、久しぶりに再会した女王に散歩に誘われ、有頂天になっていることだろう。
「陛下はお喜びになっているようですね。息抜きの相手がおらず、寂しい思いをされていたようですから」
お騒がせな男の完全復活に、呆れる宰相の隣で、ウォルシンガムが淡々と口を開いた。
そんな彼を、セシルは少しばかり意外な気持ちで見上げた。
前を向くウォルシンガムの顔に感情らしい感情は浮かんでいなかったが、最初に女王の情緒に触れたことに、かすかな――だが確かな変化を感じる。
その変化を、どう受け取るべきか。
幼い頃のこの男を知っている身としては、喜ばしくもあるその変化は――下手をすれば、彼の身を滅ぼしかねない魔物に成長するのではないかという不安も、あるにはある。
だが、そのことは本人が最もよく理解しているはずであり、今更忠告する必要がある相手でもないため、セシルは口にはせずに話題を変えた。
「ウォルシンガム、例の件ですが、どうなっていますか?」
「メアリー・スチュアートはフランス王妃という立場を失った今、スペイン王妃の王冠に食指が動いているようです」
波乱の続く外交問題の中でも、最も注目されている未亡人の女王の選択は、イングランドにとっても他人事ではない。
地続きの隣国の王であり、カトリックの王であるメアリー・スチュアートは、エリザベス女王の従姉妹であり、イングランドの王位継承権を主張する存在だ。
ポルトガルを併合し、いまや『日の沈むことはない』とまで形容されるカトリックの大国の王冠を、この女が戴くことは、イングランドにとっては危険きわまりない事態だった。
「ですが、これについては予想通り、ギーズ公とメアリーに深い恨みを持つカトリーヌ・ド・メディシスが、娘のエリザベートと連絡を取り出しました。スペイン皇太子妃の立場から、国王とメアリー・スチュアートの結婚を阻止するよう動いています」
フランス王シャルル9世の摂政となったカトリーヌが、元息子嫁のメアリーと犬猿の仲であるのは周知の事実だ。
女同士の悪感情と政治的理由が合わさり、せっかく追い落とした政敵が這い上がる活路を塞ごうとするのは、あの蛇のように執念深い女の行動としては、当然のものだった。
「こちらも、メアリー・スチュアートを傀儡としてスペインに送り込もうとするギーズ公の野心を、スペインのスパイを通してフィリペ王の耳に入るよう工作しています。現時点では完全に、スコットランド女王は、フランスとギーズ公の都合のいい駒です。フィリペ王としては、彼らの思惑に乗るのは面白くないでしょう」
フランスはスペインの宿敵だ。長年のライバルが内戦の混乱で弱体の兆しを見せている様を、上り調子のスペインは、内心ほくそ笑んで眺めているだろう。
ウォルシンガムの報告は、セシルを満足させるものだった。
留守を任せている間、彼は女王の補佐という表向きの仕事だけでなく、本来彼に任せている裏の仕事も、抜かりなく進めていた。
「後は、エリザベス女王の名の下、イングランドがこの結婚に反対の姿勢を見せれば、内乱状態にあり、かつイングランドと明確に敵対している今のスコットランドに手を伸ばすのは得策ではないと、あの男ならば判断するはずです」
「分かりました。そのことについては、私の方から陛下にお話ししておきましょう。ご苦労でした」
そう労うと、ウォルシンガムは厳しい顔で付け足した。
「ただ、先日のデ・スペの件で、スペインとの関係が悪化しつつあるという状況が気にかかります」
「デ・スペ……」
セシルはその名を呟き、眉根を寄せた。
表向きは、その件はこの軽率な大使の早とちりと解釈された。
その誤解については強く抗議したものの、実質的な経済制裁での損害はスペインにとって痛手であり、巧みな舵取りで友好関係を保っていた大国との間に、軋轢が生じた感は否めない。
スペインによるイギリス船のアントワープ港締め出しは継続されており、代わりとなる経由港の獲得のため、セシルは自身が取り組んでいるドイツのハンブルクとの通商交渉の成立を急がねばならなかった。
「やっかいなことをしてくれましたね。あの男……」
原因となったスペイン大使は、現在は蟄居という形を取らせているが、これ以上問題を起こすようなら、処遇を考えなければならない。
「スコットランドとの結婚同盟は、現時点では得策ではないとして手を引いても、今後イングランドとの対立が深まった場合に、スペインがこの話を蒸し返してくる可能性は高い。スコットランド女王には、一刻も早く適当な男と結婚してもらわなければ」
この場合、ウォルシンガムの言う適当な男とは、『イングランドにとって都合の良い男』だ。
女の国王の結婚問題が悩ましいのは、なにも自国の女王に限ったことではない。
スコットランドという持参金と、イングランド王位継承権を保持するカトリック教徒という肩書きを持つ隣国の女王が、一体誰の手に落ちるのか。
国際的な花嫁争奪戦のゲームは、これまでイングランド女王が独占していたが、今後はこの若いスコットランド女王が、更なるムーブメントを巻き起こすことになるだろう。
世界を舞台にした華やかな2人の女王の競演は、今この時点ではまだ、男達が描く筆の上を踊っているに過ぎなかった。
第5章 完




