第65話 外交、外交、外交!
セシルがエディンバラに到着する10日前、1つ、イングランドにとって有利な報せが届いた。
スコットランドの摂政マリー・ド・ギーズが、重い肺気腫の末、亡くなったのだ。
このフランス・カトリック派の中心人物の死去の後に和平交渉が始まり、間もなく、イングランドは妥当な条約の締結にこぎつけることが出来た。
2月28日。エディンバラ条約締結。
「条約の主な内容は、フランス軍はスコットランドから撤退すること、スコットランドに宗教を選ぶ自由を与えること、リースの城塞は開放すること、メアリー・スチュアートはイングランド女王を名乗らないこと――イングランド側の譲歩としては、スコットランドから手を引くこと、カレーの返還を要求しないこと、等が取り決められたとのことです」
その報告に、会議室に喝采が起こった。
「イングランドの政治的勝利だ!」
「ああ、プロテスタントの勝利だ!」
枢密院委員達が口々に勝利を口にする。
そんな彼らを眺めながら、私はあえて感情を表に出さずに呟いた。
「……悪くないわね」
「大勝利でしょう」
「カレーの件を除けばね」
「まぁ、それは」
ニコラス・ベーコンが苦笑する。
カレーには少々未練があるので痛いところだが、スコットランド派兵は、元より自衛のため先手を打って乗り出しただけなので、フランスが手を引くなら軍を撤退させることに異存はない。
スコットランドの国教選択は、今後、国内の議会に委ねられることになるが、ローマ・カトリックと決別し、プロテスタントのいずれかの派閥で決議するであろうことは、誰の目にも明らかだった。
互いに譲歩しての和平交渉のため、勝ったとも負けたとも言い難い結果ではあるが、政治的にはイングランド大勝利、プロテスタント大勝利な条約内容である。
セシル、ロバート、トマス、良くやった!
ここは落ち着いていた方が女王の貫禄が出るだろう、と演技で渋い顔をしている私だが、内心は小躍りしていた。
やつらが帰ってきたら思いっきり褒めてやろう。うん。
「ですが、メアリー・スチュアートは、この条約に批准しない意向を示しています」
続く報告は、歓喜に湧く会議室に水を差した。
メアリー・スチュアートは、未だ元王妃としてフランスに留まっている。
彼女は、今後イングランドの王位継承権を要求しないこと、イングランド紋章を勝手に使用しないこと、といった条約内容に不服を示したのだ。
「あの未亡人は、これからどう動くつもりなんだ」
「ギーズ公は、弟のシャルル9世に添わせるつもりのようだが」
「そんなことは、政敵のカトリーヌ・ド・メディシスが許すまい」
「ならば、フランス以外のカトリック国家……スペインか?」
「それはまずい。いっそ、イングランド貴族と結婚させた方が……」
スコットランド女王に話題が及び、委員達の話が迷走する。
未亡人となった元王妃が次に誰と結婚する、などという話で盛り上がるのは下世話なようにも聞こえるが、これは重要な政治問題だった。
ことあるごとにイングランド――というかエリザベス女王を挑発してくる、王位継承権保持者の存在は確かに不気味だ。
そんな引っかかりはありつつも、大方朗報と言えるその報せがイングランドに届くとほぼ同時に、スコットランドでの敗北にうちひしがれるフランスに、衝撃が走った。
それは3月1日、シャンパーニュ地方のヴァシーの街で起こった。
先のオルレアン寛容勅令で、城壁の外での礼拝が許されたユグノー信徒達に、それが気に入らなかったカトリック信徒達――もっと具体的に言えば、『たまたま』その場を通りかかったというギーズ公の家臣達が喧嘩を売り、諍いになったのだ。
そしてその最中に、なんとギーズ公自らが、『たまたま』顔に傷を負う事態が発生する。
当然、ギーズ公の家臣達は、すぐさまユグノーへの報復行動に出た。
教会に放火し、住民を虐殺したのだ。
『ヴァシーの虐殺』と呼ばれるこの事件で虐殺された者は30人に及び、負傷者は120人以上に上った。
「この事件は、カトリーヌ・ド・メディシスの寛容政策に反発したギーズ公派による、ユグノー殲滅計画の一部です」
以前から寛容政策後のギーズ公の動きに注目していたウォルシンガムが言うように、多くの者は、そこに陰謀の臭いをかぎ取った。
そして、この計画が予め把握されていたと思しき素早さで、ギーズ公の政敵コンデ公爵が動いた。
すでに組織していたユグノーの軍隊を用い、国王への逆賊行為を犯したという大義名分の下、ギーズ公に向けて軍事行動に出たのだ。
そしてついにこれが、いずれ起こるだろうと恐れられていた、本格的な宗教抗争――の名を借りた政争――の幕開けとなる。
つまり、数十年に及ぶフランスの泥沼な宗教戦争――ユグノー戦争の始まりである。
※
そしてこの事件はフランス国内だけに留まらず、海を渡ってイングランドまで波及した。
事件の直後、フランスから密かに、コンデ公爵の使者が送られてきたのだ。
コンデ公爵はユグノー派貴族の中心人物であり、先のフランソワ2世誘拐未遂事件『アンボワーズの陰謀』にも関与していたが、王族であったため処刑されずに釈放された。
あの事件以降、表向きは身を潜めていたようだが、彼は虎視眈々と、手元にギーズ公に対抗するための兵力を集めていたのだ。
彼は、『ヴァシーの虐殺』でのカトリック派の凶行に鉄槌を下すため、プロテスタント国家であるイングランドに援軍を送るよう求めてきた。
「これは由々しき事態です」
『ヴァシーの虐殺』を断罪するウォルシンガムの口調は、いつもに増して厳しいものだった。
「国王令を無視してのユグノー虐殺……これは絶対君主の立場としてもプロテスタント国家としても、とても看過できないことです」
この件について、セシルに留守を任されたウォルシンガムの意見は明確で、コンデ公爵の要求に応え、援軍を派兵することを強く主張してきた。
私としては、エディンバラ条約によってようやく兵を引けることに喜んでいたのだが、再び出兵の可否を考えなければならなくなって、気が重い。
戦争で国力を消耗するのは避けたかったが、『ヴァシーの虐殺』があまりにも惨い事件であるため、イングランド国内でも同情と怒りの波紋が広がり、海の向こうのユグノーたちを助けることを主張する声は、日増しに大きくなっていた。
ウォルシンガムをはじめとする廷臣たちの説得と、国内外の世論、そして、コンデ公爵が大使を通して持ちかけてきた交渉内容に、私は彼らに兵を貸すことを決定した。
その交渉というのは、援助の見返りに、港湾都市ル・アーブルなど海沿いのいくつかの領土を、イングランド王国領として割譲する約束だ。
先のエディンバラ条約でカレーの所有権を完全に放棄すること承諾させられたため、代わりとなる大陸の港湾を手に入れられるというのは、大きな魅力だった。
道義的にも、得られる対価としても悪くない選択だと納得してのものだったが、セシルがいない中で大きな決断をしたことに、不安があるのも確かだった。
そんな中、さらにやっかいな問題が、私の手元に舞い込んできた。
「スペイン船が漂着した……!?」
執務中に舞い込んできたその報せに、私は席を立って驚いた。
数隻のスペイン船が、英仏海峡を航行中に嵐と海賊に見舞われ、イングランド南岸の港に着港したというのだ。
何よりやっかいだったのは、その内容物だった。
「着港した船の積み荷は、約10万ポンドに及ぶ金銀硬貨の山です」
「何それ、どういうお金……っ?」
重ねて驚く私に、ウォルシンガムが詳細を伝えてくる。
「積み荷の所有者を急ぎ確認したところ、送り主はジェノバの大銀行家で、受取人はスペインのアルバ公爵でした」
「アルバ公……!」
それは、現在ネーデルラントでの『血の粛清』で、ヨーロッパ全土を震撼させている弾圧者の名だった。
ポルトガル吸収後のスペインの異端審問は厳しさを増し、その嵐はスペイン国内に留まらず、属国やスペイン王が領有するその他の領土にも及んでいた。
ネーデルラントもその1つで、連合州として複数の民族が混在するこの地域は、フィリペ王の相続領ではあるが属国ではなく、独自の貴族議会と自治政府を持っている。
だが、フィリペはこれを無視し、軍事力によって属国同様に統治し、プロテスタントの弾圧を強化した。
当然、これに反発したネーデルラントの貴族達は、プロテスタント派と結びつき、反乱の機運を高めたが、それに対して、スペインは一大軍隊を派遣しての、反徒達の粛清に乗り出したのだ。
「今年に入ってから始まったネーデルラントの粛清は、苛烈を極めています。大量殺戮、放火、破壊、死刑――妥協も和解もない理不尽で圧倒的な暴力によって、今もなお夥しい血が流されている……これは、その地に更なるプロテスタントの血を流させるための軍資金です」
ウォルシンガムの訴えには、確かな意図が含まれていた。
「先ほど、スペイン大使から、その積み荷はスペインのものなので、迅速に目的地のアントワープに送り届けるよう嘆願書が届きました」
「デ・スペね……」
デ・スペは、フェリア伯爵の後釜グスマン・デ・シルヴァが、健康上の理由で辞任したため、ほんの2ヶ月ほど前に着任した新大使だ。
グスマンは紳士的な穏健派で、空気の読める男だった。スペインとイングランドの友好関係の維持に尽力してくれる彼を、私も信頼していた。
だが、入れ替わりにやってきたこのデ・スペという男は、いまいち胡散臭くて、私は好きになれなかった。
「ですが、調べていくとこの積み荷は、現時点ではジェノバの銀行家のもので、アントワープへ到着するまでの一切のリスクは、銀行側が負う契約になっていました。アントワープへ届いた時点で、フィリペ王の借入金になり、アルバ公の軍資金となる予定です」
やたらと素早いウォルシンガムが、直ちに銀行家の代理人に接触したところ、条件が同じように銀行側に有利であれば、その積み荷が渡る先がイングランドであってもスペインであっても、一向に構わないという意向が伝えられた。
つまり、選択肢は2つ。
このまま、イングランドの護衛付きで、積み荷をアントワープのアルバ公へと渡すか。
積み荷を横取りし、『血の粛清』の資金となるのを防ぐか。
そして、これに対する主張も真っ二つに割れた。
「渡すべきではありません。これは、プロテスタントの殺戮に使われる資金なのですから、そうと知っていて、みすみす送り届けるのは、同胞を売り渡すような行為です」
「だが、スペイン王の正当な積み荷を、いかに銀行側の同意があるとはいえ、横取りするのはいかがなものか。確実にスペイン側の怒りを買い、深刻な外交問題に発展しかねないぞ」
ちなみに、前者はウォルシンガム、後者がニコラス・ベーコンの主張だ。
精霊さーん! 頼れって言ってくれた2人の意見が真っ向から対立してるんですけどっ!?
この2人だけでなく、枢密院の意見も見事に割れた。
確かに着服してしまえば利益は莫大だが、良心が疼く。
それにこちらが先にやましい事をしてしまっては、向こうに突っ込まれた時に言い訳が立たない。
議論が紛糾する中で、私は数日悩んだのだが、悩み抜いた結果、慎重な外交を取ることにした。
「やっぱり、後々ややこしいことになっても嫌だし、返すようにしましょう」
あくまで海賊がやったと言い張れる私拿捕活動とは違い、これはイングランド政府としての対応となる。
私は積み荷に護衛をつけて保護し、アントワープに送り届ける決定を下した。
だが、私が2つに割れた臣下たちの意見に逡巡している間に、事態は思わぬ方向に転がっていた。
スペイン当局が、スペインの黄金をエリザベス女王に着服されたと怒り、アントワープに着港したイングランド船を閉め出したのだ。
同時に、現地の英国商人たちが逮捕され、その財産をも没収されるという憂き目にあった。
「着服してないし!」
こちらは、アントワープに送り届ける通行証にまで署名を済ませている。
「デ・スペがそのように報告したようです」
「あの男……!」
ウォルシンガムの報告に、私は歯噛みした。
皮肉屋で胡散臭い策士風のスペイン大使の顔がちらつく。
デ・スペは、着港したスペイン船の対応について、枢密院で議論を交わしている間に、アルバ公爵に対し「慢性的な金欠に苦しむエリザベス女王が、スペインの軍資金を着服した」と先走った報告をし、「即刻アントワープに停泊中のイングランド船と積み荷を差し押さえて、イングランド人を逮捕して報復措置を取るべきだ」と強く主張したのだという。
この助言を受けたアルバ公爵が、ロクに真偽も確かめもせずに、デ・スペが言うがままに報復措置を取ったのだ。
両国の友好を図るべき駐在大使が一体どういうつもりか知らないが、さすがに私は怒った。
「陛下、どう致しますか?」
初めからスペインに積み荷を渡さないことを主張していたウォルシンガムは、この事態に対しても取り乱すことなく、冷ややかに私を促した。
この赤字財政で、一方的に差し押さえられては破産してしまう。
やむを得ない。
「……スペインに報復措置を。全港のスペイン船を差し押さえて。拿捕した財宝船も差し押さえます。スペイン大使デ・スペには、今回の責任を問うて蟄居を命じます」
この経済制裁によって、結果的にイングランドは利益を得た。
単純に、スペインが差し押さえた財産よりも、イングランドが差し押さえた財産の方が多かったのだ。
だが、この事件は単純な利益以上に、大きな国益を損なった。
今回の1件は、決定的に――とまではいかないが、ゆるゆると保っていたスペインとの友好関係に亀裂を入れるには十分だった。
速攻、アルバ公爵とフィリペ王には、デ・スペによる誤報であることを伝えて、抗議と誤解を解く努力はするが、それもどこまで通じるか。
……頭痛い。
思わぬイレギュラーから勃発した外交問題に、私は頭を抱えた。




