第63話 王の上に立つ者
数日後、ジョン・ホーキンズとフランシス・ドレイクを乗せた船が、イングランド南端の港町プリマスから、意気揚々と出航した。
この航海は、彼らが望んだ安全な投資口である宮廷関係者と王室の支援のもとになされる、最初の大洋航海となった。
いずれ7つの海を支配する海洋国家――大英帝国への第1歩だ。
私は、彼らが英雄的成果を上げて戻ってくることを、信じて疑っていなかった。
そうして、ロマン溢れる明るい大冒険に夢をはせた後、ドレイクらが去った宮廷に再びのしかかるのは、より差し迫った外交問題だった。
「ロバート、どうしてるかなぁ……」
朝起きると、寝室の窓から見下ろせる庭にうっすらと霜が降りていて、私はふと、北国にいる男のことを考えた。
回らない頭でぼんやりと彼のことを考えていたので、白く曇った窓硝子に、ほとんど無意識に『Robert』のスペルを描く。
もう、2ヶ月以上姿を見ていないが、定期的にくる連絡で、フランス軍相手に何とか持ちこたえているらしいことは聞いている。
そろそろ、援軍を率いたトマスが合流している頃だろう。
「あの2人、仲良くやってくれればいいけど……」
なんせ、まず最初の懸念はそこだ。
同年代で才色兼備、同じ枢密院委員である将来有望な2人の貴公子。
宮廷にいた頃から何かと張り合っていた2人――特に、身分で言えば圧倒的に上で、プライドも高いトマスが、剃りの合わないロバートの下につくことを大人しく受け入れるかが心配だった。
それに、以前私に振られるという事件(?)もあったし、まだロバートとの仲を疑ってるとしたら、余計に上手くいかないんじゃないだろうかという不安もある。
だが今は、お国の一大事だ。
一度任務を任せたからには、彼らの臣下としての忠誠に賭け、信頼するしかない。
大丈夫。きっと上手くやってくれるさ。
後は、この苦境に立たされた戦況が好転することを、ただただ祈るばかりだった。
斜めに走り書いた筆記体の名前を眺めやり、私は少し考えた後、上に相合い傘を書いて、空いた片側に無理矢理『Thomas』の名前を詰め込んだ。
仲良く仲良く。
~その頃、秘密枢密院は……
1月中旬の冷え込んだ朝。
イングランド軍はスコットランドの首都エディンバラに隣接する港町リースの郊外に野営地を張り、いまだリースの城塞を守るフランス軍と睨み合っていた。
霜の降りた軍基地で、北部長官ロバート・ダドリーは、専用のテントを出て、寒々しく曇った灰色の空を眺めていた。
宮廷の華やかさとは対極にある殺伐とした戦場ですら、いやに絵になるその後ろ姿を認め、トマスが霜を踏みしめて近づくと、振り返ったロバートが先に謝辞を述べた。
「援軍、感謝する。ノーフォーク公」
「久しいな、ロバート卿。状況はどうだ」
「良くはないな」
聞くと、若い司令官は苦い顔で答えた。
「まったく北部貴族というのはやっかいだ。女王大権の下に服する気が全くない」
その辺りは、事前に報告で聞いていた通りだった。また、北部貴族の実態に詳しいトマスからすれば、その遠征の人事を聞いた時から、ある程度予想していた事態でもあった。
「閣下を派遣した陛下のご判断は正しい。俺では御しきれない」
寂しげに力不足を認めたロバートが、哀愁を漂わせる微笑を浮かべる。
「それで、俺は閣下の揮下に下ればいいのか?」
「司令官は貴殿だ」
「何?」
ロバートが、耳を疑うように愁眉を開く。
「女王陛下のご命令だ。俺は合流次第、貴殿の補佐として北部貴族とのパイプ役に徹しろと命じられた」
内心の苦い思いを押し隠し、その命令を伝える。
「陛下は、貴殿に名誉挽回のチャンスを与えたいと思っている」
すると、彼――ロバートの鳶色の瞳が輝いた。
雪雲が割れ、その狭間から燦然とした太陽が差し込むような、顕著な変化だった。
「そうか……陛下が……」
感慨深げに呟いたロバートが、誇らしげに顔を上げる。
「ここで陛下の信にお応えしなければ、男が廃るというものだ。閣下、俺の下につくのは気分が良くないかもしれないが、ここは1つ、陛下の深い情と男の意気を買って、手を貸してくれ。頼む」
そう言って右手を差し出してくる男の顔を、トマスは静かに見返した。
ロバートの補佐に撤せ、と指令を受けたことに不満があったのは確かだが、顔を合わせて早々、潔く力不足を認め、権力を返上しようとした男に毒気を抜かれた。
その上で、たった一言で分かりやすく誇りと生気を取り戻した相手の反応に、ようやく女王が、なぜそんな命令を己に下したのかを理解する。
意気を粋で返す。
その手法は、まるで現場で部下を鼓舞する男の上官のようだ。
「無論。もとより陛下のご命令に逆らうつもりはない。男の意気というのも……買ってやらないこともない」
答え、差し出された右手を握り返す。
互いの意志を確認するように、固く握手を交わすと、少し心に余裕が出来たのか、今度はロバートの方がトマスの様子を伺った。
「どうした、ノーフォーク公。随分覇気がないな」
「……理由は知っているんだろう?」
「…………」
聞き返すと、迷うように視線を泳がせた後、ロバートが遠慮がちに心当たりを口にした。
「振られたと聞いた」
「ああ、それもこっぴどく」
「俺も振られた。もう何度目か分からないが。多分、これからも振られ続ける」
自虐的にトマスが付け加えると、更なる自虐で返された。
その発言に目を丸くし、見返すと、ロバートは恥じる様子もなく歯を見せて笑った。
女王がロバートのことを憎からず思っているのは確かだろうが、身分の違いを理由に、求婚を断っていてもおかしくはない。
だが、この男は、それでもまだ諦めていないらしい。
「何が貴殿をそこまで掻き立てる?」
「愛に決まってる」
こちらが返事に詰まるほど、堂々と即答した後、ロバートは不満げに顔を歪めた。
「皆、俺が王位を狙っていると悪し様に言うが……俺が彼女に恋をした時、彼女は囚人だった。姉君に虐げられ、困窮し、庶子として王女の尊厳すら剥奪された彼女を、俺が支えたんだ。分かるか?」
「彼女が王になることを期待して恩を売ったのでは?」
「あの時点では、ロンドン塔で斬首になる可能性の方が高かった!」
あえて冷めた意見を投げると、ムキになって反論された。
「惚れた女と結婚したいと願って何が悪い?」
そう胸を張って言える無邪気さは、いっそ尊敬に値するレベルだろう。
「ただの女であればな」
嘆息し、トマスは理性的に答えた。
「身分違いの結婚は周囲を不幸にする。相手が女王ともなれば……不幸になるのは国家だ」
その正論に、ロバートは面白くなさげに鼻を鳴らした。
「俺は閣下が羨ましい」
「無様に振られた男が羨ましいと?」
無神経な言葉に睨みつける。あの夜からすでに5ヶ月が経つが、傷が完全に癒えたわけではない。
「彼女がノーフォークの屋敷に滞在したの最後の夜に、湖の上で求婚した。断られることなど考えてもみなかったが……結果は無残なものだった」
思い出すのは自傷行為だ。
だが、その胸の痛みが、まだ甘く疼くのは――未練を残しているからだろうか。
むしろ時を経るごとに、美しい思い出ばかりが強調される気がした。
「彼女の心の中心には、まだ貴殿がいるらしい」
「……そういうわけじゃない」
負けを認めたトマスの台詞を、ロバートは真面目な顔で否定した。謙遜には聞こえなかった。
「彼女の心の中心には王がいる。誰もそこに近づけないだけだ」
意味が分からず、視線で問うと、ロバートは形の良い唇を歪め、どこか意地の悪い笑みを見せた。
「知っているか。あの方は公の場で我々に話される時、必ずご自身のことを王と呼ぶ。女王と呼んだことはない」
「……!」
知らされた事実に、トマスは目を瞠った。
「逆に、前女王であるメアリーは、己を常に女性名詞で呼んでいた」
その意味すら察せられない程までには、トマスも鈍くはなかった。
ただ、言われるまで気付けなかったのは、やはり先入観が目を曇らせていたのだろう。
彼女が女である、という先入観だ。
「我らの主は、クイーンではなくキングだ」
告げられた言葉が意味する重さに、初めてトマスは、自身の王に畏敬の念を抱いた。
そして、それが初めてだったことに、過ちを認める。
「……俺は間違えたな」
彼女の王としての誇りを否定した。
「もう少し早く教えてくれ」
「自分で気付けなければ同じことだ」
しれっと答えたロバートの言葉はまさにその通りで、自分で気付けなかった時点で、初めから結果は決まっていたのだろう。
本当は女として愛する前に、臣下として愛さなければならなかったのだ。
だが、気付いた時には遅かった。
手に入れたいと思ってしまった。
王としてではなく、女として愛してしまった。
自分のものにしなければ気が済まなくなった。
己の右手を見下ろし、トマスは自嘲した。
あの夜、彼女を奪おうと伸ばした手が、醜く焼け爛れているように見えた。
「――『王』の上に立つのは、神しかいないというのに……」
本当は、初めから手を伸ばしてはいけない太陽だったのかもしれない。




