第62話 守りたいひと
「ドレイクの出発、もうすぐねー」
執務机に向かいつつ、判子を押すのにも飽きてきた私は、伸びをしながら隣に立つウォルシンガムに話しかけた。
私が手を止めてしまったので、ウォルシンガムも書類の束に目を通していた顔を上げる。
「いい感じに出資者も募れたみたいだし、張り切ってたわよあの子」
ドレイクはそれまで、沿岸貿易やオランダとの交易には従事していたが、大洋を渡っての新世界への貿易航海は、今回が初めてらしい。
その点において、ホーキンズは大先輩で、過去に何度も大西洋航海で武勇と利益を上げていた。
「初めて大西洋に漕ぎ出すのって、どんな気分なのかしら」
そういえば私も、飛行機でなら太平洋も大西洋も渡ったが、船に乗って出たことはなかったような気がする。
しかも世界のどこに何があるかを知っている現代ではなく、まだ地図にすら乗っていない世界がたくさんあった時代だ。
「いいなー男のロマンよねー。格好いいなー。羨ましいなー」
ドレイクの話は、聞くだけでワクワクする。
今から土産話が楽しみでならない。
「随分と気に入られているようですね」
手遊びで弄んでいた羽ペンを、鼻の上でバランスを取ろうと載せてみると、速攻でウォルシンガムに取り上げられた。
「貴女の好みからは外れているように思いますが」
なんだってこの男は、私の好みまで把握しているのか。
「だから英雄だって言ってんじゃない。今に見てなさいって、あれは大物になるから」
言い返すと、ウォルシンガムが不機嫌に息を吐いた。
「そういえば、ウォルシンガムも出資するんだって? 意外。私がやるって言った時は、安直とか言って反対したくせに」
「反対はしていません。貴女の判断基準が安直だと感じたので、率直に申し上げたまでです」
この男はいつも率直に失礼だ。
「21世紀の歴史はともかく、ジョン・ホーキンズの話は面白い。こういった手法は私も好みです。正攻法だけでは、あの強大な国を叩けない」
「そうこなくっちゃ。いーじゃない、男のロマンが分かってるわね、ウォルシンガム」
「貴女は女性なはずですが」
「女でも海賊とか大航海時代とか聞くとワクワクするのよ。特にオタクは」
「おたく……?」
「それは置いといて、セシルはこういうの嫌みたい。反対まではしなかったけど、あまりいい顔しなかったわー」
海賊まがいの投資話に、清廉の士と名高いセシルは拒否感を示していた。
「でも、ロバートならきっと乗ったわよ。今、いなくて残念ね」
「その件でしたら、すでに書簡を出しています。興味があれば、近日中に回答が届くでしょう」
その返答は意外だったので、私は思わず隣に立つウォルシンガムを見上げた。
「へー、優しいじゃない」
ロバートのためかドレイクのためかは分からないが、この男が他人のビジネスチャンスのために気を利かせてやるとは意外だ。
「こういう話がある、と伝えるくらいならたいした手間でもありません。後からロバート卿に文句を言われるのも面倒です」
まぁ、言うことはいつも通り無愛想なんだけど。
こいつもツンデレだからな。
「ところで陛下、今日の午後は城下に出られるということですが」
「うん、今日は西部のほうに行ってみようと思うんだけど。水道工事の進み具合も見ておきたいし」
私が去年から始めた公共事業だ。
今は中部、東部、西部の三か所で同時進行に工事を始めている。
夏の行幸から帰って以来、私は定期的に市内を見て回り、市民と触れ合うようにしていた。
もちろん視察目的もあるが、宮廷の抑圧から解放されて、善良な市民の好意に触れることは、私自身のリフレッシュにもなる。
「よろしいのでは」
「……ウォルシンガム、最近危ないからダメって、あんまり言わなくなったわよね」
去年の初めの頃の融通の利かなさから比べると、大分軟化したウォルシンガムの対応に突っ込んでみる。
「市民の前に出て、声を聞かせることを陛下が王の使命と考えていらっしゃるのであれば、それをお止めする理由はありません。可能な限り陛下のご意向に沿う形で、御身をお守りするのが私の使命です」
じゃあ、もう我が身を盾にしたりしないでくれ、と言いたいが、それはまた別問題なのだろう。
前と同じ会話を繰り返すのも不毛なので、そちらの突っ込みは飲み込んだ。
「そういえば、さっきドレイクが暇そうにしてたから、付き合わせちゃいましょう」
「ジョン・ホーキンズの多忙ぶりを見る限り、この宮廷で暇を持て余すことなどないはずですが……」
呆れたようにウォルシンガムが言うが、その提案を止めるつもりもないようだった。
その日の事務仕事を終えて昼食を取った後、私はウォルシンガムとドレイクを同伴させて、ロンドン西部へと馬車を走らせた。
「女王様とデートとかラッキー! ……と思ったら、しけた髭面の男がおまけに付いててガックリー」
馬車の向かいに座ったドレイクが、片膝に足を載せて口をとがらせた。
私の隣に座ったウォルシンガムが渋面で反論する。
「おまけはお前の方だ。陛下と同伴が許されるだけありがたく思え」
「そういうアンタは何なんだよ?」
「私は陛下の第一秘書である国務大臣の代理だ」
「あ、やっぱり代理なんだ」
当たり前のように言われ、忘れかけていた事実を再認識する。
急に会話に参加した私に、ウォルシンガムが振り返った。
「何か?」
「何でもない」
特に意味のある呟きではなかったので、そっけなく会話を閉じる。
向かいのドレイクがじっとりとした目で眺めてくるが、それは無視して、私は別の話題を切り出した。
実は、今日彼を誘ったのには、1つ確認したいことと、頼みたいことがあったというのもある。
「そういえば、この国にジャガイモってないわよね。ドレイク知ってる?」
「ジャガイモ?」
「やっぱり、まだ入ってないんだ」
船乗りのドレイクなら知っているかもと思ったのだが、彼はその単語に首をかしげただけだった。
ジャガイモが新大陸からヨーロッパに伝えられたのは16世紀だったように思うが、まだ伝来していないのか、はたまた上陸しててもその価値が広まっていないのか。
「じゃあさ、おつかい頼むわ。新世界に行ったら、ジャガイモ持って帰ってきて」
そう言って、私は用意してきた紙を広げ、直筆の絵を見せて正体を説明した。オタクの例に漏れず、一時期イラストを描くのにハマったことがあるので、そこまで下手ではないはずだ。
ジャガイモの原産は南米で、大航海時代に船乗りがお土産で持って帰ってきてヨーロッパに伝来したというのは、割と有名な伝説だ。
寒冷な気候に耐えること、痩せている土地でも育つこと、作付面積当たりの収量も大きいことから、日本の歴史上でも、ジャガイモは何度も飢饉を救った。
戦時中はあの甲子園すらジャガイモ畑になった、と大阪のばあちゃんが言っていた。
「あ、でも不用意に食べちゃだめよ。調理法間違えたら毒だから。当たるわよ」
「毒ぅ?」
説明を聞いてたドレイクが身を引いた。
「でもすごく便利なの。寒くても痩せた土地でも育つし、収穫量も多い。飢饉への有効な対策になるわ。あなたが最初に持って帰ってきたら、歴史に残るわよ」
歴史に残る、という言葉にくすぐられたのか、分かりやすく青年の目つきが変わる。
……まぁ、それどころじゃない歴史に残り方するんですけどね、この男は。
「でも、なんで女王様そんなこと知ってるんだ?」
ぎくぅっ
「……昔文献で読んだことがあるのよ、たまたま。前々から、誰か持って帰ってきてくれないかと思ってたの」
「ふぅん。まぁそういうことなら。女王様の御心のままに」
ごまかすと、ドレイクは適当に納得し、わざとらしく気取ってウインクして見せた。
「どう? 今の貴族っぽかった?」
「しないわよ……貴族がそんなこと」
伊達男のロバートくらいならするかもしれないが。
ドレイクの謎の貴族認識に突っ込んだところで、馬車が止まった。
目的の場所に着いたのだ。
さて、お仕事お仕事。
モードを切り替えた私は、馬車を降り、すでに周囲を取り囲むように集まり出していた民衆に笑顔を向けた。
~その頃、秘密枢密院は……
ストリート沿いのバーに置かれたテーブルで立ち飲みつつ、ドレイクは見物客に混じって、遠目に女王の姿を眺めていた。
ウォルシンガムは、そんなドレイクの傍らに立ち、こちらは酒など飲まずに、女王と彼女の護衛の動きを抜け目なく監視している。
一言女王と言葉を交わそうと、集まる人の波が途切れる気配はない。
「さすが大人気だなぁ。女王様」
ビールジョッキを傾けながらのドレイクの感想に、女王から目を離さぬまま、ウォルシンガムが無愛想に答えた。
「ああやって市民と触れ合うことを、陛下はとても大切にしておられる」
「ふーん、でも危なくねぇ? あの中に暗殺者が紛れ込んでたりしたらさ……」
「そのために監視と護衛を大勢配置している」
「大勢?」
彼女の周りに立つ従者の数は言うほど多くはなく、そこまで仰々しくはない。
だが、少し意識してみれば、市民に紛れ込んだ、鋭い眼光の一般人たちが頻繁にアイコンタクトを交わしている姿に気付く。
「なるほどね……」
ドレイクは納得した。女王は何も知らないように無邪気に笑っているが、警戒態勢は万全ということだ。
「あの方のご意向を叶えた上で、最大限の努力を払って陛下の御身をお守りするのが我らの役目だ」
「すげぇすげぇ」
以前、隣で機嫌を取るだけが仕事、と言われたことを根に持っているのか、説明してくるウォルシンガムにおどけた賞賛を与えると、ただでさえ鋭い眼光が軽く睨んできた。
だが、もっと面構えが悪く、品のない連中を山ほど知っているドレイクには屁でもない。
射るような視線を受け流し、ドレイクはテーブルに肘をついて顎を乗せ、少し離れた場所に立つ女王をじっくりと観察した。
「んー。まぁ、でもイイ女だよな。庶民の俺とも気兼ねなく話すし……あんな風に下々の人間を大切にする王様は今までいなかったって、さっきここの店の主人も言ってたぜ」
謁見の間で見せる、どこか冷たくすら見える威厳ある態度とも、私室でドレイクの馬鹿話に付き合っている時のフランクで勝気な表情とも違う。
市民と分け隔てなく接する彼女の姿は、優しく、弱いものを慈しむ慈愛に溢れていた。
こうなると、他にどんな顔があるのか暴きたくなる。
「顔可愛いし、スタイルいいし、26に見えねーし、そのうえ処女の高貴な女王様とか……」
色々興奮する。
「うおー。突っ込みてぇー」
めくるめく妄想に、思わず、欲望むき出しの本音がぽろっと漏れた所で、
「ぐぉっ!?」
「殺されたいのか」
完全に無警戒だった状態で頸椎に肘鉄を落とされ、ドレイクはテーブルに沈んだ。
しばらく悶絶し、ようやく声が出せるほどに回復したところで、首の後ろを押さえながら振り返る。
「アンタっ、今のマジで痛かったぞ!」
容赦の代わりに殺意がこもった一撃だった。
「私に権限があれば、今の発言でお前は最速で絞首台行きだ」
「んだよ、別にいいだろーが目の前で言ったわけじゃなし。17歳のあふれる性欲がかます妄想くらい……ハイ、すいません、もう言いません」
チャッと抜き身の短剣を顔面に突きつけられ、両手を上げて口をつぐむ。
「こえーよこの番犬……」
「――これ? 私にくれるの?」
ぼやくと、別の方向からよく通る声が聞こえ、ドレイクは振り返った。
10歳ほどの少女が、女王と向かい合い、純白の花を束ねたブーケを手渡している。
白くラッパ型のその花は、スノードロップ。
冬に咲く希望の花だ。
「すごいわね。こんなにたくさん……とっても綺麗。ありがとう、大事に飾っておくわ」
ドレスの裾が汚れるのも構わずしゃがみ込み、視線を合わせて少女に微笑みかける姿は、王というにはあまりにも素朴だ。
その姿が逆に眩しくて、ドレイクが目を逸らすと、傍らに立つ黒衣の男の横顔が目に入った。
女王の笑顔を見守るウォルシンガムは、先ほどの人を射殺しそうな眼差しからは想像もつかないほどに、穏やかに目元を和ませていた。
「ふーん……」
そんな男の表情を横目で見ながら、意味深に鼻を鳴らして、ドレイクは一気にジョッキを干した。