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第41話 私の精霊さん


 翌2日後、私たちはセント・ジェイムズ宮殿を発ち、イングランド東部ノーフォーク州の町、ノリッジへと向かった。


 その道すがらで、いくつかの町に立ち寄り、民衆の歓迎を受けることになるが、途中、最高学府であるケンブリッジ大学も表敬訪問する予定だ。


 これは、大学に対して王室が好意と関心を寄せているということを示す、よい機会になる。


 行列には枢密院委員や主要な役職の人間、聖職者も帯同しているが、ロバートは謹慎中、ウォルシンガムは療養中の為、秘密枢密院メンバーではセシルだけが同行することになった。


 余計な憶測を招くのを防ぐため、私の方では、ロバートとは連絡を取っていない。

 ウォルシンガムには、全快するまではくれぐれも仕事をするなと言い含めてあるが、多分聞かないだろう。なんせ、腹を刺されて大量出血してても働こうとしていた男だ。


 ロンドンを出発した数百台の馬車と、料理人、馬番に始まって各部門の事務員や中間管理職に至るまで、千人を越える人員を引き連れた大行列は、1日約12マイル(約20キロ)を目標に行進し、通過点にあるいくつかの町に滞在しながら、約1ヶ月弱かけてノリッジを目指す。


 新女王の最初の地方行幸に、街道には女王を一目見ようと足を運んだ民衆が立ち並んでいた。


 馬の上から道脇に集まる人々に手を振り、時には馬を寄せて手を伸ばしてくる人たちに触れながら、のんびりと北へと向かう。


「陛下、お疲れになったら馬車にお移りくださいね」

「うん、まだ大丈夫」


 私の隣にピタリとついて馬を並べるのはセシルで、その後ろには護衛隊長や、ニコラス・ベーコンを初め枢密院委員たちが連なっている。

 トマスは、一足早く地元に帰り、早くも私を迎えるための歓迎の準備に取り掛かっているらしい。


 長旅になるため、女王の馬車はいつでも用意されており、中にはキャット・アシュリーやグレート・レディーズ、侍医などが控えていた。


「ちょっと曇ってるわね。これくらいの方が涼しくていいけど」

「そうですね。雨が降ると道がぬかるんで行進が遅れるので、できるだけもって欲しいところですが」


 灰色の空を見上げ、セシルが心配そうに相槌を打つ。


「精霊さんは今まで、王の行幸に付き添ったことはあるの?」

「はい、何度か。前女王もその前のエドワード王も、お身体が丈夫な方ではなかったので、そう頻繁にはありませんでしたが」


 実は先日、ウォルシンガムに『クマさん』という愛称をつけたので、セシルにも『精霊さん(My Spirit)』というあだ名をつけたのだが、これがことのほか喜ばれた。


 なるほど、報奨や特権じゃなくても、こういう寵の表し方もあるのか、と学習する。


 臣下との関係は、有形無形の信頼の積み重ねだ。


 ロンドンから出発して3日程は、天気もほどよく曇っていて涼しく、順調に進んでいたのだが、4日目にして天候が崩れた。


「おや」


 暗い色の空から水滴が落ちてきたことに気付き、セシルが天に掌を向ける。

 気付いてからの雨脚の強まり方は早く、すぐに小雨が降り注ぎ、馬上の人間たちは空を見上げた。


「雨が降り出しましたね。陛下、馬車にお移りください」

「分かった。精霊さんもね」

「はい」


 セシルをお伴に、キャット・アシュリーの乗っていた馬車に乗り移る。


「おかえりなさいませ陛下。あらあら、もう濡れてしまわれて」


 馬車の中では、キャットが過保護な母親のように、乾いたタオルで水滴を吸い取ってくれた。


「馬車乗ると眠たくなるのよね~」

「いけません陛下、もう眠たそうですわ」


 揺れる乗り物に乗ると眠気が襲ってくるのは、もはや条件反射だ。

 移動時間は貴重な体力温存の時間だと、営業の習性が言っている。


「精霊さん、眠気覚ましになにかお話聞かせて」

「そうですね……では童話の読み聞かせでも」

「やめて、寝る。それ気持ちよく寝るわ」


 私は眠気を振り払うため、窓辺に寄って沿道に並ぶ市民に目を転じた。 


「あら?」


 馬車の斜め後方に、妙な男を見かけた。


 あまり裕福そうには見えない中年男が、なぜが行幸の行列の端っこに、何食わぬ顔で混じっている。


 不審に思ったらしい護衛隊長が馬で近づくと、男はなにやら身ぶり手ぶりを交え、訴えるようにしてから、駆け足で私が乗る馬車に近づいてきた。


 そして、御者に近づくと、こちらにも聞こえるような大きな声で言った。


「御者さん御者さん。おねげーですだ、馬車を止めてくだせぇ」


 ものすごい田舎訛りで頼み込んでくる男を、御者は胡散臭そうに一瞥するばかりだったが、男は諦めなかった。


「女王様が馬で行幸されてると聞いたもんで、一目ご挨拶させてもらおうと村から半日かけてここまで歩いてきたんでさぁ。だが途中で雨が降っちまって、追いついた時には女王様が馬車に引っこんじまってた。おねがいでさぁ、女王様とお話しさせてくだせぇ」

「うるさい、諦めろ」


 行列はずっと続いており、御者の一存では止められない。


 迷惑そうに振り払ってくる御者に、男はへこへこ頭を下げながら、しつこく馬車を追いかけ続けた。


「陛下、追い払いますか?」


 外の様子に気付いたセシルが聞いてくる。


 すでに男の背後には護衛隊長の馬がついており、いつでも取り押さえられる態勢だ。


 だが、その田舎訛りと素朴な必死さが微笑ましく、私は窓から身を乗り出して御者に命じた。


「馬車を止めてやりなさい」


 すると、馬車は一定の速度で進む行列から離れ、街道脇に停止した。


「皆の衆、女王陛下の御前だ」


 馬車の周りに群れる民衆に、護衛隊長が馬上から宣言すると、全員が一斉にひれ伏した。


 セシルが先に馬車を降り、私をエスコートする。


「女王様……!」


 雨はまだ降っていたが、私は馬車から出て、濡れた地面にひれ伏す男に声をかけた。


「顔を上げなさい」

「へい」

「お疲れ様。半日も歩いてきたの? 大変だったわね」


 私の気安さに目をぱちくりさせたその村人に右手を差し出すと、男は大急ぎで服の袖で手をふき、慣れない仕草で私の手を捧げもって口づけた。


「どんなお話しをしましょうか」

「あの、あのですな女王様!」


 促すと、男は腰に下げた袋から、いそいそと白い布を取り出した。


「わしゃご覧の通りの結構な年ですが、新しい家内に、ようやく子が生まれたんでさぁ。娘だったんで、女王様にあやかって、エリザベスと名付けました。まだちいせぇんで赤子は持ってこれませんでしたが、せめてこれに祝福をいただけねぇかと」


 差し出したのは、白い産着だった。


「そう、エリザベス。あなたは素晴らしく愛情深いご両親のもとに生まれました。どうか聡明で心優しく、誰からも愛される子になりますように」


 その産着を受け取り、口づけて祝福を与える。


「あなたにも祝福を。そして、出産という偉大な仕事を成し遂げたあなたの奥様にも」

「ありがとうごぜぇます……!」

 

 両膝をつく男に視線を合わせ、産着を返すと、男はそれを後生大事そうに畳んで布袋の中にしまいこみ、地面に額をこすりつけんばかりに頭を下げた。


 せっかくなので、雨の中わざわざ女王の行幸を見に来ている民と交流を深めようと、近くにいた他の人にも声をかけてみるが、すぐに雨脚が強くなってきたため、セシルに強制的に馬車に引き戻された。


 馬車が行列に戻り、本日宿泊予定の町に到着した頃には、もう日が暮れていた。


 





~その頃、秘密枢密院は……



 その日の宿泊先である地方郷士の屋敷の一室で、セシルは蝋燭の明かりを頼りに筆をとっていた。


「ウィリアム、まだ仕事中か」


 続きになっている隣の部屋から、ニコラス・ベーコンが顔をのぞかせた。

 亡き妻の妹の夫である国璽尚書は、見上げるような巨躯を折り曲げて戸をくぐると、空いている椅子に腰を下ろした。


「ニコラス……いえ、ウォルシンガムに手紙を書いていました」

「フランシス・ウォルシンガム? まだ療養中だったな」

「そのはずなんですがね……」

「そのはず?」

「療養中の人間から、なぜかいち早く我々が向かうノリッジの情報が届きまして」

「なんだそりゃあ」


 訳が分からないというように、ベーコンは肩をすくめた。


「毎度のことだが、あの男はイングランド中に目でもあるのかと思うな。お前が傍に置きたがるのも分かる」

「いえ……ヨーロッパ中でしょう」

「ほう?」


 静かに微笑んだセシルに、眉を上げて見返したニコラスは、もたれていた椅子の背から身を起して表情を改めた。


「で、ノリッジで何かあったのか」

「……ノーフォーク州は、エイミー・ダドリーの地元でしょう。エイミーの父、ジョン・ロブサートはノーフォークの名士だ」

「ああ、ダドリー夫人の葬式も地元で行われたそうだな。ロバート卿が相当費用をかけて、壮麗な葬式で送らせたと聞いたが」


 しきたりに従い、夫のロバートは葬儀には出席していない。今もなお、ロンドンの屋敷で喪に服しているはずだ。


「悪い噂を打ち消すためにも、それくらいはしなければいけないでしょう。もっとも、それほど効果があったわけではないようですが」

「というと?」

「ノーフォークでは、エイミーが落ちた屋敷の階段の傾斜は緩やかなもので、落ちたところで死ぬことはない、事件当日、エイミー宛の手紙を携えたロバート卿の使者を屋敷の近くで見かけた、などというもっともらしい噂が流れ、他殺説が真実として広がっているようです」


 セシルの報告に、ベーコンは再び大きな身体を椅子の背に預け、暗い天井を仰いだ。


「いかにも地元らしいデマだな。検死の結果は出ているのに」


 検死官と陪審員による厳正な調査の末、エイミー・ダドリーの死は事故死と断定された。

 だが、事実とは別に、噂が1人歩きすることは止められなかった。


「外国大使からも、国外でも中傷が真実のように広がっていると報告が入っている」

「ノリッジには、ロブサート家の縁者や支持者も多い。くれぐれも女王の身辺には注意を払うように――というのが、フランシス・ウォルシンガムからの忠告です」

「だが、さすがにこのことで女王に剣を向けてくるような人間はおるまい。あの男もつくづく心配性だな」

「ですが、ロブサート家の恨みを隠れ蓑に利用する人間はいるかもしれません。それに、殺意まではなくとも、強い悪意を抱く人間はいてもおかしくはない」


 ロンドン市内でも、すでに何人もの女王を侮辱する中傷を流布した者が逮捕されている。

 その多くが、反政府派のネガティブキャンペーンだ。


 だが、その内容の詳細までは、女王の耳には入れていない。必要ないからだ。


 筆を止め、セシルは憂いのため息をついた。


「陛下は国民との交流を大切にしておられます。出来れば、あの方を傷つけるような言論が、ご本人の耳に入るのは避けたいのですが……」

「なるようにしかなるまいよ。まぁ、そういった場所ならば、余計に我々も『布教』のし甲斐があるというものだ」

「……そうですね」


 ベーコンらしい大雑把で前向きな意見に、セシルは頷いた。

 昼間の、雨のなか馬車を止めて民衆の前に出た女王の姿を思い出す。


「女王が自ら姿を見せるのは、市井に出回っている風評被害を吹き飛ばすのにも役立つでしょう。庶民にも隔てなく心を開く女王の姿を見て、悪意を抱く国民はいません」


 ベーコンの言う『布教』とは、この場合はエリザベス女王崇拝のプロパガンダだ。


 今回の行幸には、ロンドンの情報や熱意が届きくい地方都市にも、女王の威光をあまねく知らしめる意味もある。


 宮廷ではやや落ち着きつつあるダドリー夫人に関する風聞も、城下では町から町へと伝搬し、今や地方にも広がっていた。


 行く先々でこれらの噂を払拭し、女王の善行や、彼女がいかに好人物であるかを逸話で語り広め、女王の神性を人々に信じさせるのも、この行幸中の枢密院の重要な仕事である。


 このような方向性を枢密院で最初に提示したのはセシルで、今ではその方針に反対する者はいない。誰もが、新女王の宣伝価値とその効果を理解していた。


「あの方は女優だ。舞台の上での、自分の魅せ方を知っている」

「なら、我々はさしずめパトロンで宣伝広報か。デカい劇場だ。是非とも満員御礼にしたいところだな」


 肩をすくめておどけて見せるニコラス・ベーコンに、セシルは静かに微笑んだ。


「ええ、おそらく……数百年先まで語り継がれる、名舞台になると思いますよ」



 女王が国家という舞台で、観客を魅せる女優ならば、ウィリアム・セシルは、彼女の演出家だった。






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