第237話 未来が過去で、過去が今で
牢を出た3人がカウンター監獄を背にすると、ここしばらく晴天が続いていたロンドンの空に、薄灰色の雲が広がっていた。
しとしとと、小雨が降っている。
「あー雨降ってら」
立ち止まった私の隣で、薄曇りの空を見上げるレイの横顔が懐かしくもあり、思わずジッと見つめてしまった。
「お前にここで会った日も、雨が降ってたんだよな」
「……そういえば、あなたもケアリーもハットンもディヴィソン君も、みんな泥だらけだったわね」
それはもう、酷い有様だった。
「昔はそんなに思わなかったけど……なんとなく、今のレイって、雨が似合うかも」
それはただの思いつきだったが、視線を空から私に移したレイが、静かな声で言った。
「……お前は、雪が似合ってたよ」
「……あ、ありがと……」
不意打ち過ぎて、顔が赤くなる。
あの時のことを覚えているのは私だけじゃないんだと思うと、懐かしさと一緒に、ときめきが思い出されて、胸を押さえた。
――そうしてソレを、思い出の宝石箱に大事にしまい込む。
鮮やかで、切なくて、キラキラした記憶。
大人になった私たちは、その懐かしい思い出を、時折取り出して眺めることしか出来ないけれど――
……もうずっと、私が白を好きなのは変わらないと思う。
「陛下、馬車の準備が出来ましたので、こちらへ」
軒先で立ち止まっていた私たちのところに、ウォルシンガムが戻ってくる。
彼が指し示す先にある馬車の前では、従者が扉を開けて待っていた。
一瞬、遠い21世紀に惹き込まれていた思考が、目の前の16世紀へと舞い戻っていく。
もう、あの頃に戻ることは出来ない。
それでも、確かに私達があの時代に生きていたことを、忘れる必要なんてない。
過去を受け止め、今を生きていく。ちゃんと地に足をつけ、16世紀を踏みしめる。
気持ちを切り替える時間が必要だった私は、すぐには動き出さず、戻ってきたウォルシンガムの顔をじっと見つめた。
「どうかなさいましたか?」
見下ろしてくる相手が聞いてくるのに、私は答えた。
「クマさん、今日はありがとう。レイのこと教えてくれて、ここまで付き合ってくれて……ワガママも聞いてくれて」
「陛下――」
「『ただの臣下』以上の働きをしてくれたことを、感謝します」
おそらく「何度も言いますが」から始まるお決まりの返しを遮り、私は言い切った。
やろうと思えばウォルシンガムは、レイのことを私に黙っておくことも出来たし、レイを警戒しているこの男が、お忍びに付き合ってまで面会の手配をする動機もなかったはずだ。
正直、ウォルシンガムがここまで融通を利かせてくれたことには驚くくらいで、何と言おうと感謝の言葉は伝えておきたかった。
「…………」
その熱意が伝わったのかどうかは分からないが、ウォルシンガムはそれ以上なにも言わなかった。
言うだけ言ってスッキリし、私は従者が待つ馬車に向かった。
~その頃、秘密枢密院は……
背筋を伸ばし、ゆったりとした動作で女王が馬車へと向かうのを、その男――ドクター・バーコットは、追うともなしに眺めていた。
――が、ふいに、その男の挙動を目を離さず追い続けていたウォルシンガムを振り返る。
「そういえば俺、アンタにスパイ疑われてぶん殴られたんだったな」
「貴様を殴ったのは、スパイ行為以前に、女王陛下に対し極めて不穏当な行動を取ったからだ」
当時のことを思い出し、眉間に皺を寄せるウォルシンガムにも、男は肩をすくめるだけだ。
「スパイの嫌疑については、前科があるのだから疑われても当然だ。少なくとも貴様が、スペインとフランスに通じるルートを持っていることは確かなのだからな」
「…………」
「だが、少なくとも宮廷と女王に対し不利になる行いを取らなかったという証言は、アン様の努力によって認められた。あの難解な暗号を解き、お前の無実を証明するために尽力したあの女性に敬意を表し、謝罪しよう」
意外そうな顔を見せる男に向けて、ウォルシンガムは言葉通り謝罪を口にした。
「疑って悪かった」
「…………あんたでも謝ることあるんだな」
日頃、斜に構えた態度を取るドイツ人医師は、この時ばかりは毒気を抜かれたような顔でウォルシンガムを見返した。
「疑うのも仕事のうちって開き直りそうなもんだが」
それはこの男の言う通りで、疑うことを生業としている人間が、いちいち嫌疑の晴れた人間に謝罪をしていたらきりがない。実に馬鹿馬鹿しいことだ。
例えそうであっても、今回あえて謝罪を口にしたのは、今後この男を監視・管理するにあたって、こちら側の落ち度を完全に精算するのが適切だと判断したからだ。
「結局、これからは俺がアンタの部下になるってことか?」
「……まぁ、そういうことになる。だが、表向きはあくまで王室付き侍医として振る舞ってもらう。無論、その役割を全うすることも求められる」
「女王の侍医兼エージェントか……なんか格好良いな」
その軽薄な呟きに、軽蔑の眼差しを向けると、意を汲んだらしい男が横柄に言った。
「悪くない、つってんだ」
その時にはすでに、いつもの皮肉めいた――自信に満ちた表情を取り戻していた。
「アンタが手持ちで足りない駒を補うには、最高の人材だと思うぜ。エリのヤツ、やっぱなんか持ってんな」
「女王陛下だ」
気安くその名を呼ぶ男に、固い声で訂正する。
「女王に忠誠を誓ったからには、自らの立場を弁えることだな」
彼を管理する者として当然の忠告に、レオナルド・バーコットはやはり、挑発的にウォルシンガムを見上げ、薄く笑った。
「それ、誰のことだろうな」




