第236話 おかえり
愛想も飾り気もない石造りの廊下を進み、いくつかの重たい扉を抜けた先で、牢が並ぶ空間に出た。
不気味なほど静かで冷ややかなその場所の、見える範囲に囚人はいない。
見世物小屋のように左右に牢屋が並ぶ狭い通路を歩く。鉄格子の林が続いていた。
無人の狭い牢は、どれもむき出しの汚れた石床で、寝台のようなものすらなく、麦藁が部屋の隅に積まれているだけだ。
とても人が住むような場所にも思えなかったが、何番目かの牢に、人の姿があった。
質素な石牢の中で、奥の壁に背を預けて、1人の男性が座り込んでいた。
レイだ。
その姿を目にして鼓動が早まるが、逸る気持ちを抑え、私は黙ってレイが入れられている牢屋の前に立った。
ウォルシンガムが、牢番から預かっていた鍵で出入り口を開けてくれる。
「…………」
私の訪問を予想していたように、落ち着いた様子で顔を上げるレイの左頬に痣があるのに気付き、目を瞠る。
「レイ! その怪我……!」
「喧嘩した相手にやられた」
柵越しに心配する私に、何てことはないように説明してくるレイ。
警官に暴行を加えられたわけではないらしい。
普段立場の弱い罪人相手に横暴の限りを尽くしている役人達も、さすがに鬼の警察長官の命令に逆らう勇気はなかったようだ。
埃にまみれ、最初に出会った時のように薄汚れた男は、立ち上がろうともせず、私の出方をうかがうように口を閉ざし、見上げてきた。
「衛生的じゃないわね、ここ……それに、寒い」
まだ午前中だというのに、窓一つない部屋は薄暗く、澱んだ冷えた空気が沈殿していた。
「暖炉もないし、この過ごしやすい気候でこれじゃあ、真冬は凍死させる気かしら」
周囲を見回し、私は初めて入った牢屋を観察した。
「監獄内の環境の改善も……」
「やめとけ。この時代にんなことしたら、犯罪犯して捕まりたがるヤツが続出する」
私の試案に、レイが客観的な意見を挟んでくる。
「あなたみたいな?」
「…………」
そう返すと、黙って視線を逸らされた。
やっぱりこの男は、『私に会おうとして』喧嘩騒ぎを起こし、監獄で暴れたのだ。
その横顔に確信し、私は漏れそうになった溜息を押し殺した。
「あなた、実はバカでしょう」
今まで言わなかった――言えなかったことを口にする。
「頭良いくせに、世渡りが下手すぎて、ほんとバカなんだから」
私の挑発に、レイは皮肉な笑みを浮かべた。
「そのバカに惚れてた女は?」
「大馬鹿よ」
「……あの時も、そんくらい素直だったらよかったのに」
小さく笑いながら言った男を、私は鉄柵越しに見下ろし、答えた。
「どうやら私、『過去』にならないと素直になれないみたいなの」
「そりゃ、一生男できねーな」
「そんな気がするわ」
開き直ったような私の言葉に、レイが苦笑する。
その笑い方すら力なくて……放っておけないと思った。
このままじゃダメだ。
彼を、1人にはしておけない。
放っておいたら、この世界で独りでのたれ死にそうなこの男を守る方法を、私はひとつしか見つけられなかった。
「…………」
傍らに佇み、そのやりとりを見ていたウォルシンガムは、黙して語らない。
その視線が、冷静に私の選択を見定めているようで、『臣下に恥じぬ王であれ』――と、私の中のもう1人の私が命じ、ためらう私の迷いを断ち切る。
強い眼差しを感じながらも、その男には目を向けず、牢をくぐってレイの前に立った。
「あの頃は好きだったの。嫌われたくなくて猫かぶってた。今はもう……どうでもいいわ」
どうでもいい。
言ってから、胸が軋む。
だが私には――女王として、彼と向き合う覚悟が必要だ。
ずっと答を先送りにして、逃げてきた自分の弱さと向き合わなければ――彼を守ることは出来ない。
「私の娘が、あなたの無実を証明しました」
「……!」
私の報告に、レイが目を見開いた。
「借金があるんだったわね。いいわ、私が全て返済します。そして宮廷に戻って宮廷侍医として私の許で働きなさい。地位と衣食住を保証し、医師として活動する為に必要な資金を援助しましょう」
「陛下!」
私の独断での処遇に、牢の外で、初めてウォルシンガムが声を上げた。
「その代わり、私の臣下としての自覚を持ち、国家の為に働く事を求めます」
これまでレイとの間で曖昧にしていた境界を、はっきりと引く。
――中途半端な言葉のやり取りですれ違ってきた相手だから、けじめをつけなければいけないと思った。
「この男を信用すると言うのですか」
「もちろん簡単には信用しません。サー・フランシス・ウォルシンガム、あなたがレオナルド・バーコットを監視なさい。秘密情報部の諜報員の1人として、この男をあなたに任せます」
「俺を……?」
その人事は、レイにとっても意外だったらしく、驚いたように呟き、ウォルシンガムを見た。
私とレイの視線を受けたウォルシンガムが、苦い表情を見せる。
「レイは暗号解読の名手よ。そして、スペイン政府・フランス宮廷とも繋がりがある」
「この男を二重スパイとして利用すると?」
「ええ」
ウォルシンガムの確認に頷き、私はレイに視線を落とした。
「出来るわね、レイ」
「…………」
レイは答えない。
だが、ウォルシンガムの方は自らの胸に手を当て、はっきりと意見を言った。
「恐れながら陛下、そのご命令を受ける前に、1つお願い事がございます」
「聞きましょう」
「この男が次に我らの国家と君主を裏切ることがあれば、私の判断で処分させて頂けますよう、お約束を頂けない限りは、承服致しかねます」
「……分かりました。あなたに委ねます」
私の回答に、ウォルシンガムは1度膝を折り、それ以上、口を挟もうとはしなかった。
地面に座り込み、俯いて黙したままの男に向き直る。
「どうする? レイ」
ここまで、すべて命令系で話を進めてきたが、最後に私はそう聞いた。
「あなたは強制して動くような人間じゃないもの。最後はあなたに選択を任せます」
自分で選んで欲しい。
理不尽に流されることで、屈折した思いを抱えて生きるのではなく、自分で選び、覚悟を決めて、1歩を踏み出すことが――前を向いて生きるには、必要だと思うから。
「あなたに選んで欲しいの。あなたはイングランド国民でもなければ、16世紀の人間でもない。だから今、私の命令に従う必要なんてない。でも――」
その先の言葉は、続けるかどうか迷った。
「……もうあの頃に戻ることはできなくても、私たちは、ここで生きていかなければならないから……私にはレイの力が必要だし、レイにも、私の力が必要だと思って欲しい――私たち、そういう関係じゃダメかしら」
「………………」
結局、言いたいことを全部言い切ってしまい、私は、最後の判断をレイに委ねた。
「……どうすればいい?」
見下ろす私の視線の先で、俯いていたレイが、長い沈黙の後、そう呟いた。
「こういう時、『臣下として』どう承服すればいい」
「…………」
その問いに、私は黙って、彼の前に右手を差し出すことで答えた。
目の前に差し出された手を見つめ――睨みつけていた男が、ゆっくりとその手を取る。
身を起こし、私の前に膝をついたレイは、しばらく右手を見つめていたが、やがて、強い力でその手を握り――指輪ではなく指先に、乱暴に口づけた。
「…………」
いつまでそうしていたのか。
顔を上げない男を見下ろし、忍耐強く待っていた私は、らちが明かないその沈黙に、口を開いた。
「レイ……もういいわ。離して」
「…………」
だが、レイは握った手を放そうとはせず、目線だけを上げて私を見た。
長い前髪の奥から覗く、挑戦的な視線とかち合う。
「貴様、いつまでそうしているつもりだ!」
ついにウォルシンガムの叱責が入り、レイは牢の向こう側の男を一瞥した後、立ち上がってようやく私の手を放した。
「レイ、ありがとう……」
目線が逆転し、私は隣に立つレイを見つめ、素直に感謝を口にした。
きっと多くのものを飲み込み、もう1度戻ってきてくれる気になったということに、ホッとする。
「……お前に伝えときたいことがあった」
「私に?」
聞き返してから、気付く。そうだ。彼は、私に会うためにわざわざ監獄に入るような真似をしたのだ。
「――スペインが、戦艦の準備を始めている」
「……!」
「なぜそんな情報を知っている。どこから手に入れた」
顔を強ばらせた私の代わりに、ウォルシンガムが間髪入れず情報元を問い質した。
そんな相手にチラと視線をやり、レイは私に向かって答えた。
「あの野郎に追い出された時は、さすがに腹が立って、何か情報売って金に換えてやろうかとスペインと連絡を取った」
「…………」
「つーのは半分嘘だが、スペインの動向が気になって、探りを入れるために利用させてもらった」
半分は本当なのか。
あえて突っ込みは入れず、話の続きを待つ。
「大した価値のない、些末なイングランド宮廷の情報を餌にばらまいてみたら、思わぬ大物が食いついた」
「大物?」
「元スペイン大使のデ・スペだ」
「……!」
あの野郎。
またここで名前を聞くとは思わなかった。
あの当時はまだ穏健路線だったフィリペの意向を無視して、イングランドへの侵攻を夢見てこざかしい陰謀を巡らせた男。
リドルフィと共謀してフィリペ王を煽ったあげく、結局失敗して、スペインとイングランドの関係を悪化させただけのその不届きな外交官は、イングランドを追放され母国に帰還した後、当然ながら失脚した。
だが、こういった輩はどこまでもしぶとい。
「挽回を図るためにスペイン宮廷にしがみついていた男は、フィリペ王が徐々にイングランドへの強攻策に傾きかけている今を、チャンスと捉えたんだろう。再び侵攻計画を練り、フィリペ王の覚えを良くするため、イングランド宮廷の子細な情報提供者を求めた」
レイが補足してくる。
なるほど、元王室付き侍医という肩書きは、そういう相手を釣るには格好の餌になっただろう。
私に任じられるまでもなく、彼は二重スパイとして動いてくれていたらしい。
「スペインとポルトガルの併合がなされた今、巨大な資金源を得たスペインは大胆になっている。何をきっかけに、アルマダの海戦が早まってもおかしくはない。ドレイクがいない今、イングランドに勝算があるとも思えないが……黙って見とくわけにもいかねぇだろ」
「……私のため……?」
「…………」
実際は、黙って見ておくという選択もあったはずのレイが、強引な手を使ってまで私にそれを知らせようとしてくれたことに、嬉しい気持ちが込み上げる。
視線を逸らし、前髪を掻き上げたレイが、言いにくそうに口を開く。
「……この国の歴史がどうなろうが俺には関係ない……けど、戦争に負けるってことは……お前が……どうなるか分からないってことだろ」
「そうね……どうなるのかしら」
そのことを、私も考えたことがなかったわけではない。
戦争に負けた国の王がどうなるのか、
多分状況や相手にもよるので何とも言えないが、今より良い立場に転がることはまずないだろう。
最悪の場合も考えられる。
「――大丈夫。負けない気がしてきた」
「はぁ?」
脈絡なく根拠のないポジティブ発言をした私に、レイが呆れた顔をする。
力強い味方がいる。そう思うと、身体の奥から力が湧いてくる気がした。
「アンがね、レイを助けたいって頑張ってくれたのよ」
彼の帰りを待っているもう1人のことを口にすると、自然と表情が和らぎ、私は微笑んでレイに報告した。
「あなたがノストラダムスに宛てた手紙を、全部解読してくれて」
「……あの量全部やったのか。根性だな。暗号解読者の才能あるぞ、あいつ」
心底感心したように、レイは穏やかな声で、小さなスパイを称賛した。
レイの言うとおり、頭の回転や理解力だけでなく、アンの驚くべき集中力、根気強さは、暗号解読にはどれも欠けてはならない素養だろう。
だが、その彼女の才能を開花させたのはこの男で――アンを、そこまで駆り立てたのは、彼を助けたいという、その一心だ。
「ルシフルアンデシフラブル……って、アンは言っていたけど」
「ヴィジュネル暗号……1586年、ブレーズ・ド・ヴィジュネルが発表した超難解な多アルファベット換字式暗号だ。以後2世紀以上、解読方法が見つからなかったその暗号に付いた名が――解読不可能の暗号 」
「…………」
今世紀の末に誕生するという、未来の暗号に、数多の暗号解読者たちと同様唸らされたウォルシンガムが、鋭い眼差しでレイを見つめていた。
「それを解読するなんて……レイに解き方を教えてもらったとは言え、本当にすごいことをしたのね、アン――あの子、絶対にレイを助けるって、寝る間も惜しんで頑張ってくれたの。ずっとレイに、助けてもらったお礼がしたかったみたい」
「…………」
私の言葉に、レイは答えなかったが、顔を背けてふて腐れた。照れているのかもしれない。
その様子に、私は微笑んで言った。
「やっぱり、自分がやったことって、後から返ってくるものなのね。いいことも、悪いことも」
「…………」
「帰りましょ。アンも待ってるし」
「…………」
普段通りの調子で声をかけ、私は先に牢を出た。
その後ろを、レイも黙ってついてくる。
私の後をついて牢を出たレイの後ろ、最後尾をウォルシンガムが歩く。
レイは自分の髪を掻き上げ、不快そうに顔をしかめた。
「あー……風呂入りてぇ」
そんな呟きを背中で聞き、私は小さく笑って、心の中で呟いた。
おかえり、レイ。




