第232話 レスター伯の計画
1年を通して、イングランドが最も気候の良い時期に入り、連日穏やかな天気が続いたある日――
「今日も良いお天気ねー」
ロバートと宮廷を移動している最中、窓から入る日差しに誘われ、私は少し寄り道をしてバルコニーに出た。
見下ろせる広い庭園は青々とした芝を茂らせ、規則正しく並んだ木々が広げる枝からは、鳥たちの歌声が聞こえる。空が青い。
「こんなに気持ちいい日が続くと、お仕事全部放り出して、どこか遠くに行きたくなるわねー」
一緒にいる相手がロバートだったので、私はそんな軽口を言ってウンと伸びをした。
「陛下。次の休日に、ロンドンまで出られませんか?」
「ロンドンに?」
そんな私を微笑んで見守っていたロバートから突然、そんなお誘いを頂いた。
休日に遠乗りに誘われることはよくあったが、街に出かけようと言われるのは珍しかった。
「実は、陛下にお見せしたいものがあるんです」
「私に見せたいもの?」
「以前、陛下にご用命賜っておりました劇場が完成しましたので、記念すべきオープニング公演を陛下の御前で行いたく」
「行く!!!」
内容を聞いた瞬間、即断した。
私の演劇趣味を知ったロバートは、いち早くレスター座を立ち上げ、これまでも、度々宮廷内で公演を行ってくれていた。
前に私は、演劇文化の振興のためにも、様々な階級の人間が観賞できるような公設劇場が市内にあってもいいのではないかと話したことがあり、ロバートは建設に着手してくれていたのだ。
ロンドン初の公設劇場だ。
ロバートのお誘いを聞いた時点で、私は何が何でも行く気になっていたのだが、ふと現実的な問題に思い至った。
ロンドン市内での、私を狙った爆破テロ未遂事件は記憶に新しく、今のところ、私が市内に視察に行くのは控えるように言われている。
「でも、また危ないって渋られるかも……」
「その点でしたら、俺の方から、すでに話を通しています」
意外に用意周到なロバートに、私は素直に驚いた。
「そうなのっ? やるわねロバート」
「お褒めいただき光栄です」
嬉しそうに、ロバートが絵になる礼を取る。
レスター座の劇場は、シティ・オブ・ロンドンの北西、グレイフライアー教会の近くに建設されたらしい。
ロバート提案の作戦として、今回の女王御前公演は、あまり公にはせず、かつ移動中は影武者を立てることとなった。
またもやハットン大活躍である。
移動は3台の馬車を使い、守頭馬が指揮を取る騎馬兵がそれらを護衛する。
前から2番目の一番立派な馬車が女王の乗る車なのだが、私はそこには乗車せず、3番目の馬車に乗り込む。
当日、御前公演に向けて私もおめかしはしていたものの、外から見てバレないように、布を被って髪と服を隠した。
同じ馬車に乗っているのは、ロバートが手配した護衛と召使いだ。
女王の馬車の後ろ……つまり私の乗る馬車の前を征くロバートが、馬上から周囲を警戒する。
午前中にハンプトン・コート宮殿を出た私たちは、街道を北東に進み、昼過ぎにはロンドン橋を渡った。
そのまま、市内を北に進む。
グレイフライアー教会は、シティ・オブ・ロンドン北西端の市門《ニューゲイト》にほど近い。
3台の馬車と若干名の騎馬兵で構成された短い行列は、途中の交差点を左に折れ、市内を東西に走る大通りを西に向かって進んだ。
公にはしておらず、さほど規模の大きい行列ではないとはいえ、近衛隊に囲まれた馬車が通りを進めば、女王の行幸であることはすぐに分かり、大通りには物見の市民達が集まりつつあった。
だが当然ながら、ほとんどの視線は中央の女王の馬車に注がれており、誰も最後尾の馬車になど興味はない。
私は隠れている気楽さもあって、布を被ったまま、ぼんやりと後ろの馬車の中で揺られていた。
「あれ?」
どこかで曲がると思っていたのだが、馬車はそのまま西へと進んでいく。
ぼーっとしていた私は、やや遅れてからその違和感に気付き、布を被ったままこっそり外の光景に視線を走らせた。
「え……?」
気が付けば、前を走っていた馬車がいなかった。
はぐれた……?
だが、一緒に乗っている護衛も召使いも、素知らぬ顔で黙って座っている。
馬車の前には、確かにロバートがついているので、道を間違っているとも思えなかったのだが、市門が近づき、さすがにおかしいと気付く。
「ねぇ、劇場って市内よね?」
そうこう言っているうちに、市門をくぐってしまった。もうそこは、ロンドンの外だ。
1台の馬車が、市壁を通り抜け北西に進んでいると、さほどかからずに周辺の光景が、のどかな牧草地へと変化した。
やがて、馬車は小高い丘を登り始める。
「ねぇ、ロバート!」
人気のない場所に入ったので、私はかぶっていた布を脱いで馬車の窓から顔を出し、前を行くロバートに声をかけた。
前方を守っていた白馬が馬首を返し、ロバートが私のすぐ隣に付く。
「陛下、お顔を出されては危険です」
「誰もいないわよ。それよりも、ねぇ、どこに行くの?」
ロバートの心配を一蹴し、私は当然の疑問を口にした。
「こんな牛しかいないところに、劇場があるわけ――っと」
突然馬車が止まり、身を乗り出していた私は慌てて口を閉じた。舌を噛みそうになる。
「どうぞ、陛下」
白馬を降り、扉を開けたロバートにエスコートされて地面を踏んだ途端、ゆっくりと後ろの馬車が移動したので驚く。
振り返って見送ると、少し離れたところでそれは停車した。
そこは、小高い丘の上だった。
さほど標高は高くはないはずだが、南に視線を向ければ、市壁と、ロンドン市内が一望できる。
絶景……だけど、明らかに劇場ではない。
「ハットン達ともはぐれちゃったじゃない。今回はどういう趣向なのウサギさ――」
また何かのサプライズかと思って、そのパノラマから視線を転じて聞きかけるが、彼は私の話を聞いていないようで、神経質に周囲に視線を巡らせていた。
こんなロバートは珍しい。
不思議な気持ちでその様子を見ていると、やがてロバートの視線が一点に定まった。
微動だにせず、目を凝らして丘の下に広がるロンドンの街並みを注視している。
気になる。
「何? 何見てるの?」
ロバートの前に出て、同じ方向を見ようとした瞬間――
急に、目の前が暗くなった。