第230話 ル・シフル・アンデシフラブル―解読不能の暗号―
ハットンの身長が伸び、背格好がほとんど私と同じくらいになったのを利用したウォルシンガムの作戦には驚かされたが、よくよく考えれば、腕が立って信頼がおける男性で、私の身替わりが出来る人間などがいたら、あのウォルシンガムが使わないわけもない。
それにしても、ハットンが戦うヒツジさんだったとは知らなかった。
「先日は不敬な真似をしてしまい、申し訳ありませんでした」
翌日、休日にも関わらず参内したハットンは、寝室に篭もっていた私の元を訪れ、謝罪した。
「ん~、まぁ……ハットンなら仕方がないわよね」
ペンを持った手で頭を掻きながら、特にハットンを咎める気もなかった私は、そう言って許した。
私になりすますというのは不敬と言えば不敬なのだろうが、影武者なんていうのは時代物ではよく聞く話だ。
ウォルシンガムが首謀者なのは間違いないし、計画通り女王誘拐を目論んでいた輩を捕らえられたわけで、むしろハットンはその功労者だった。
正直、ハットンのドレス姿が似合い過ぎていたので、ウォルシンガムぐっじょぶ! という気持ちも大いにある。もちろん声に出しては言わない。
あっさり許した私を前に、ハットンは目をぱちくりさせた。
「どうしたの?」
その反応を不思議に思い、聞き返すと、ハットンがはにかんで答えた。
「いえ、実は、ウォルシンガムさんも陛下ならそのように仰るだろうから大丈夫と言っておられたので……さすが、よく分かっていらっしゃるなぁと」
怒られるのではないかと心配していたハットンは、私の反応をきっちり予想したウォルシンガムに感心していたらしい。
ヤツめっ。
私がハットンに甘いところまで計算済か……!
なんだか手のひらで転がされている感がして悔しいが、昨夜は妙なところを見られて恥ずかしかったので、わざわざ掘り返してまでヤツに文句を言う気にもなれなかった。
このまま蓋をしてしまおう。うん、そうしよう。
「陛下、先程から何を真剣に取り組んでいらっしゃるんですか?」
せっかくの休日だというのに、日がな一日寝室に引き籠もり、机の前に座って書き物をしていた私に、ハットンが不思議そうに聞いてくる。
何枚もの白紙の紙に、落書きのように無意味な数字やアルファベットを書き散らしているのだから、気になりもするだろう。
「これ? ハットン、やってみる?」
説明するよりも見せた方が早いので、私は机の左側に置いていた手紙を一枚、ハットンに手渡した。
手紙と言っても、一見、めちゃくちゃなアルファベットが並んでいるだけだ。
「暗号……ですか」
察したハットンが、複雑な面持ちで呟く。
秘密枢密院のメンバーである彼は、唐突に姿を消したドイツ人医師が、フランスの王室占星術師ノストラダムスと繋がっていたという事実も知っていた。
「ウォルシンガムさんの抱える暗号解読者ですら、解読できなかったというノストラダムスへの報告書ですよね」
「そう。イングランド宮廷に上がってから連絡を絶っていたノストラダムスに、レイが報告を再開したのが、今年の1月。それから、そう頻繁にではないけど、定期的に手紙を出していた……でも、レイはイングランド宮廷や私に関わる情報は一切漏らしてないって、そう言ってた」
「…………」
「私はそれを信じてる。でも、証明出来なければ、レイの疑いを晴らすことは出来ない。この暗号を解くしか、彼の無実を証明することは出来ない――」
そう口にしてから、私は大きく溜息を吐き出した。
「色々勉強して、試してるんだけど、もう、まったくさっぱり……」
21世紀のレイが作った暗号だから 21世紀の頭脳を持つ私なら解けるかもと淡い期待を抱いてもみたのだが、そんなことはなかった。
まあ、今の時代の暗号でも難しいヤツは解けないしな……
無謀なのは重々承知していたが、ことこの件に関しては、秘密情報部に任せていられないと思ったのも事実だ。
「いっそ、私も別口で、暗号解読のプロを雇おうかしら……」
自分の限界にぶち当たり、私は疲労した頭をほぐすようにこめかみをマッサージする。
「少し、息を抜かれてもいいんじゃないでしょうか。煮詰まってしまうと、なかなか名案が浮かびませんし」
「そうね……ちょっと休憩するわ」
私の疲れを見て取ったハットンの提案に賛成し、私は片手でこめかみを押さえたまま、もう片方の手を伸ばしてハットンから暗号の写しを受け取ろうとした。
「あ」
「あっ、すみません!」
手渡された暗号文が、私の手をすり抜け、ひらりと床に舞い落ちる。
ハットンは謝ってきたが、ちょうど片目を瞑っていたので、距離感が掴めなかった私の無精だ。
「陛下、落とされました!」
床を滑るようにして落ちた紙に、これは侍女のお仕事とばかりに、部屋の隅に控えていたアンがパタパタと駆け寄った。
張り切って拾ってくれるが、私に差し出す前に向きを確認しようと、書類に目を落としたアンの動きが止まった。
「これは……?」
ジッと、文字の羅列に見入るアンが口を開く。
「レイが書いた暗号文なんだけど……アン、読める?」
暗号パズルが得意な娘に、冗談半分に聞いてみる。
大きな目を見開いて、食い入るように暗号文を見つめていたアンを、私は期待混じりの眼差しでしばらく見守っていたが、少女はいつまで経っても立ち尽くしたまま、一言も発さなかった。
「やっぱり、読めないか……」
そりゃそうだよな。
子どもに何をそこまで期待しているのか。
正直、藁にも縋りたい私が肩を落としたところで、急にアンが口を開いた。
「これはレイが作ったのですか?」
「そうよ。難しすぎて、英国一の暗号解読者にも解読不能なの」
確認してくるアンに、簡単に説明する。
「これが読めたら、レイへの誤解が解けるかもしれないんだけど……」
「解読不能の暗号……」
それはフランス語だった。
「え、何それ?」
急にフランス語で聞き慣れない単語を発したアンに、私は聞き返した。
「『人間が暗号機の力を使わずに解読できる、おそらく1番難しい暗号』」
意味を理解していると言うよりは、誰かから聞いた言葉をそのまま暗唱しているような平坦な声で答え、アンは暗号文を手にしたまま、吸い寄せられるようにテーブルへと向かった。
いつも、レイに勉強を見てもらっていたテーブルだ。
まさか……
「ア、アン、この暗号が解けるの!?」
椅子に座り、テーブルの上に立てられていた羽ペンを手に取ったアンは、紙から視線を外さないまま、はっきりと答えた。
「レイに教えてもらいました。冬休みの宿題でも、ちゃんと解けました」
あの時レイが、アンは天才だと手放しで誉めていた、1番難しかったという最後の問題だろうか。
……っていうか、本当にあの男は、16世紀の7歳の女の子に何を教えているんだ……!
宮廷を去った男の、思わぬ置き土産に驚きながら、私とハットンはテーブルに向かうアンの傍に駆け寄った。
アンが勉強用に使っていたテーブルだったため、羽ペン立ての隣には、白紙の束が入った木箱が置かれていた。
慣れた様子で、そこから数枚の紙を取り出したアンに、私は落ち着かない気持ちで問いかけた。
「ど、どうやって解くの?」
「まずは、反復して現れる文字列の抽出。その間隔、共通する因数の推定」
もう最初から難しそうである。
延々と羅列される意味不明なアルファベットの羅列から、間隔も字数も分からない文字列の反復を正確に抽出できる自信が私には全くないが、アンは左手に暗号文を置き、手早く別の紙に暗号を複写すると、そこから文字列を抜き出し、他の紙に書き付けていった。
これはセンスなのか? 技術なのか?
憑かれたように紙面と対峙したまま、右手と目を動かす少女に、我が娘ながら驚嘆する。
……もしかしたら、レイを助けられるかもしれない。
自信がある様子のアンに、私は一筋の希望を見出していた。
とはいえ、7歳の子どもに、それだけの負担を強いるのは気が引けた。
「ええと……アン、暗号解くの大変?」
「むずかしいですけど、面白いです」
遠慮がちに伺う私に、作業は止めずにアンが答える。
「そう……なら、協力してくれる? 大変なら、無理にとは言わないんだけど、レイの手紙が、他にもあって……」
「解きます」
私がみなまで言う前に、少女は力強く言い切った。
「全部解いて、アンがレイを助けます」




