第225話 将来の夢
――夜。
「あー……終わったー……」
その一言を、誰にともなく、虚空に向かって溜息と共に吐き出すと、ようやくスイッチが切り替わった気がした。
オンから、オフに。
「ふぅ……」
深く、息を吐く。
もうすっかり日も暮れた頃、お風呂に入り、寝室で就寝用の服に着替えた私は、机の前で何か書き物をするわけでもなく、ただ、ぼーっと座っていた。
長い一日だった。
ウォルシンガムと朝の散歩に出かけて雹に遭ったのって今日だっけ? って思うくらい。
午後からの時間の流れが遅すぎて、いつも退屈な御膳の儀式を、ここまで苦痛に感じたのは初めてかもしれない。
「レイ……」
壁を見つめながら、小さくその名を口にすると、最後に見た寂しい背中が蘇った。
その光景が、10年前のあの日に重なる。
私は、また彼を突き放した。
あの時よりも明確に、レイを傷付けた自覚があった。
ごめん、って言いたくても、謝れる相手はここにはいない。
何か出来なかっただろうか。他に方法はなかっただろうか。
あの時はああするしかないと思ったけれど、もっと良いやり方があったかもしれない。
そう思って何度も内省しながらシミュレーションするが、結局のところ、私にはあれしか出来なかったのだと、最初に戻るだけだった。
引き止めるのも、追いかけるのも、無条件に許すのも、きっとその場では気持ちが楽になっただろうが、先のことや周りへの影響を考えると、やっぱり私には出来ない選択だった。
私でない誰かなら……マリコなら、きっとレイを引き止めたのだろうなと思うと、チクリとコンプレックスが刺されて、慌ててその思いを振り払う。
「陛下……」
どうにもならない後味の悪さが、澱のように溜まっていく胸を抱え、静かに自分を責めていた私の背中に、遠慮がちな声がかけられた。
「アン……?」
振り返ると、金髪の少女が上目遣いに、私を見上げていた。
「……キャットから聞きました。レイは、お城をはなれたのでしょう?」
そうだ。私以外にも、レイがいなくなって悲しい人間が、ここにもいた。
「ロンドンにもどったのですか?」
「そうね……待っている人達がいるから。きっとそう」
レイは、自分の患者には責任を持っていた。きっと、一度は診療所に戻るはずだ。
「また会えるのでしょうか?」
「……ゴメンね、アン」
答えられない私が謝ると、アンは言いにくそうに視線を逸らしながら、続けた。
「キャットが、レイは陛下にウソをついていたのだと……」
「……そうね。ほらあの男、見栄っ張りだから、格好悪いところ見せたくなくて、つい嘘をついちゃったのよね」
暗い表情を見せるアンに、私はわざと軽い口調で言った。
「でも、男の人って、そういうところあるじゃない」
「あります!」
おや? 経験有りか。
力いっぱい同意したアンにちょっと驚く。
「ロビンが、レイが宿題でだした問題に私がなやんでいると、自分ならできるって言って……できるって言ったのに、できなかったんです!」
憤慨した様子でアンが告げ口してくる。
あーあ。やっちゃったか小ロバート。
気になる子の前で見栄を張って失敗しちゃうという、思春期にありがちな残念なパターンである。
だが、そんなアンの顔を覗き込んで、私は聞いた。
「でも、そういう馬鹿な嘘はつくけど、大事なところでアンに嘘をついたり、傷付けたりはしないでしょう?」
「絶対にしません。ロビンは、いつもアンを守ってくれますから」
アンが胸を張って断言する。数少ない宮廷のお友達とは、良い信頼関係を築いているらしい。
頑張れ小ロバート。
でも壁は高いぞ。周りがハイスペックなお兄さんだらけだからな……
見下ろす位置にあるアンの頭をそっと引き寄せ、私は、少女の白い頬にうっすらと残る痘痕跡を、そっと指で撫でた。
酷いときは可哀想なくらいに腫れ上がっていたのが、今は嘘みたいに、僅かに痕が残るだけだ。これくらい近づいて見ない限りは、全然気にならない。
「ふふっ、可愛い」
「陛下……っ」
顔を覗き込んで笑うと、照れたアンが顔を赤くしながらはにかんだ。
この子を、こんな風に可愛く笑える女の子に戻してくれたのはレイだ。
消えそうな命を救ってくれて、レディ・メアリーの不幸な運命を変えてくれて――
「アン、私やっぱり、レイに戻ってきて欲しいわ」
「……! 私も戻ってきてほしいです!」
アンを抱きしめながら、そう結論を出した私に、少女が即座に同意した。
「そうよね。じゃあ私、頑張ってみる」
自分自身に発破をかけるため、アンにそう宣言する。
いつまでも落ち込んでいても仕方がない。
今から何が出来るのか、何がしたいのか。
自分が進みたい方向が決まれば、次に何をすればいいのかが見えてくる。
戻るか戻らないか、選ぶのはレイだ。強制は出来ない。
けれど、選んで欲しいなら――彼が戻りたいと思えるだけの環境を、用意することだ。
今の状況では、私だってレイに戻ってこいとは、とても言えない。
どうにかして、レイの無実を証明してみせるのだ。
目標が出来れば、自然と気力が湧いてきた。
「ありがとう、アン。おかげで元気になったわ」
「ほんとうですか?」
アンが嬉しそうに笑う。私は、笑顔で先程の話題を広げた。
「そういえば、アン。そのロビンも解けなかったっていう、悩んでいたレイの問題は解けたの?」
「はい! 一応、とけました……でも、合ってるかどうかは分からないのです。レイがいないから……」
「そっか……先生がいないと答え合わせが出来ないわね。私が見てみましょうか? ちゃんと分かるかは、分からないけど」
「ありがとうございます!」
パッと顔を明るくした少女は、私に一礼すると、足早に一度寝室を出た。
すぐに一枚の紙を手に戻ってきた彼女は、私が問題を解けないなどとは微塵も思っていないような、信頼と期待に満ちた眼差しを向けてきた。
う……多分大丈夫だと思うけど……大丈夫か私。
そのキラキラした瞳に物怖じしながら、ドキドキしながら用紙を受け取り、問題に目を通す。
あれ。これ、結構難しいじゃん……
学生の頃の数学の成績は、文系にしては悪くなかった方だが、長年使ってないと思い出せない。
上から順番に、昔の記憶を引っ張り出しながら解いていく。答え合わせをすると、ここまでアンは全問正解だ。
嫌らしいことに徐々に難易度が上がり、だんだんアンの回答が、私の答え合わせになりつつある。
よしっ、最後。
証明しなさい……?
あ、これ私の嫌いなやつだ。
高校とかで習ったと思うけど……大学受験レベルじゃ……?
いやいやいや、7歳の子どもに、しかも16世紀の女の子に、何教えてんだあいつは。
やばい、なんとか解答を導き出したけど自信がない。
恐る恐るアンの回答をチラ見する。間違ってたら9割方、私の方が間違っている可能性が高い。
「合ってた!」
「本当ですか? 陛下!」
「う、うん……」
私が。
喝采を上げた私に、後ろで見守っていたアンが大喜びする。
「実は、もう1枚あるのですが、まだ最後のほうの問題が解けてないのです」
「まだあるの!?」
アッサリ後出ししてきたアンに仰天する。
「そ、そう。じゃあそれは、レイが帰ってきたら見てもらいましょう」
「はい!」
さすがにこれ以上難易度が上がったら、完全にお手上げだ。
私は2度とアンの勉強を見るなどという、おこがましいことは言わないことを心に決めた。
それにしてもこの歳で、数学のテストに焦らされることになるとは思わなかった。
「アンは、将来どうなりたいの?」
間違いなく、今世界で一番頭の良い子どもである自分の娘に、私は興味本位で聞いてみた。
「お医者さんか数学者になりたいです!」
「そ、そう……」
即答してきた。
リスペクト先が分かりやすいが、大物になる予感しかしない少女の未来に思いを馳せると、期待したいような怖いような……
やっぱり、ちょっと楽しみな気にさせられた。




