第220話 箱田玲
ウォルシンガムの報告を聞き終え、寝室に向かっていた私は、通り過ぎかけた扉の前で立ち止まり、しばらく、じっとその部屋を見つめた。
「レイ……」
少し前までは用事がなくても人の部屋に入り浸っていたくせに、最近は下町に出かけるか、部屋にこもっているかということが多くて、あまり姿を見せない。
やっぱり、ロバートとの一件以来、ちょっと微妙な距離感が出来てしまっている感は否めない。
そういえば昨日も、宮廷の移動なんて面倒なものには付き合っていられないと出て行ったきり、顔を見ていない。
新しい部屋の場所は教えておいたから、いると思うんだけど。
……今、休憩中だし、少しくらいいいよね。
レイの様子が気になってはいたので、私は思い切って扉をノックした。
「レイ? いるの?」
「…………ぅ」
なんか、うめき声のようなものが聞こえた気がする。いるのはいるらしい。
レイ、寝てる……?
「エリか……?」
耳を澄ますと、扉越しにかすれた声が届いた。寝ぼけているっぽいけど、今何時だと思ってるのだ。
「うん、そうだけど」
「……開いてる」
入ってこいということか。
鍵もかけずに昼寝とは暢気なものである。まぁ、この階で早々危ないことはないだろうが。
「レイー。入るわよー」
「おうー」
間延びした返事を聞きつつドアを押し開け、部屋の主にならって、鍵はかけずに入室する。
「……なんか酒臭いんですけど」
見ると、床に立派な酒瓶が転がっていた。
部屋の主はというと、こちらもベッドの上に大の字になって転がっている。
「ちょっとレイ?」
どうやら、昼間っから酒を飲んで寝ていたらしい。
いっそ見事な昼行灯っぷりである。論文はどうした。
「論文書いてたんじゃなかったの?」
「…………」
さすがに呆れてチクリと言うと、レイは返事の代わりに、仰向けに寝転がったまま、パンパンとベッドの表面を叩いた。
そこに来いと?
どんだけ偉そうなんだ。
お前は何者だと内心突っ込みつつ、ため息交じりに近づく。ベッドサイドに腰掛けると、レイは天井を向いたまま、横目で私を見た。
「たいそうな行事だったな」
ん?
唐突な話題に一瞬首を捻るが、すぐに昨日の移動行列のことだと察する。
「ああ、宮廷移動? そうね、人数が多いから、どうしても大掛かりになるわね」
とはいえ、私にとっては、もはや恒例行事だ。
「でも、レイは参加してないでしょう?」
「街で見かけた。お前のこと」
ということは、あの熱狂する市民達のお迎え花道に混じっていたということだろうか。
診療所に行くだけなら、あの辺に用事はないだろうに、わざわざ見に来たのかな。
「そうなの? 全然気付かなかった」
「…………」
町中の人間――下手すればロンドン市街からも見物客が来ている中での行進なので、知り合いが混じっていても、そうそう気付かないだろう。
だが――
「悪かったな、下々の人間で」
そう毒づかれ、私はやたら卑屈な酔っぱらいの顔を覗き込んだ。
「どうしたの? レイ。何か悩みでも……っ!?」
その時、急に腕を強く引っ張られた。
不意を突かれてバランスを崩し、レイの上に倒れ込んだかと思うと、勢いよく転がって体勢が入れ替わる。
「ちょっ……こら、酔っ払い……! 冗談もほどほどに……!」
酒臭い男に上に乗られ、私は手足をばたつかせたのだが――
「うお……っ?」
重たっ……?!
無言の男にべしゃりと下敷きにされ、私は完全に身動きが取れなくなった。
重い重いっ。苦しいーっ。
オイこれ完全に力抜いてるだろ。布団じゃねーぞっ?
「ちょっとちょっと! 人の上で寝るなっ?」
死んだように動かなくなったレイの下でもがくが、さすがに大の男に下敷きにされると、体勢を覆すまではいかない。
「…………」
「……ちょっとレイ、本当に寝てないわよね?」
「………………」
それ以上に何かしてくる様子でもなかったので、一体もがくのを止めて尋ねるが、返事はない。
マジか。
「はぁ……」
何なんだよ、もー。
溜息しか出ないまま、ただただ天井を見上げる。凝った装飾のシャンデリアが目に入るが、今はどうでもよかった。
これが猫なら、布団にされても多少重くても歓迎するけどさー……
「……レイ、重たい……退いて」
もう一度、お願いしてみる。
「……んねぇ」
すぐ耳元でぼそぼそ呟く声が聞こえて、その体勢のまま聞き返す。
「何? 何か言った?」
「意味分かんねぇ」
「それ、私の台詞なんだけど……」
だが、レイは何度も、苛立ったように吐き捨てた。どうも様子がおかしい。
「くそっ……意味分かんねぇ。なんでこんなに……遠い……」
「レイ……?」
酒気を帯びた熱い息が耳にかかる。
それだけの距離だったから――うわごとのような頼りない呟きが、ハッキリと聞こえてた。
「……今、ここで死んだら……もう1度、あの日の俺たちに戻れたらいいのに――」
「何、言って……」
意味を理解する前に、衝撃的な誘いに追い打ちをかけられた。
「……なぁエリ、一緒に死のうぜ」
「はっ……? ちょっとレイ、大丈夫……?!」
酒に飲まれて自暴自棄になっているとしか思えなかったが、さすがにマズイ気がして、身体を捻って抜け出そうとするが、伸ばした腕を掴まれた。
……いい加減に、しろ!
「もう、いい加減にして! 離して! 離しなさい、レイ!」
レイの様子がおかしいのが心配だったのだが、さすがに怒った私が声を上げると、レイの声音が変わった。
「俺に命令すんな」
「……!」
尖った低い声で命じられ、身体が固まる。
「俺はお前の臣下じゃない」
ヤバイ、この地雷踏んだ感。
「むかつくんだよ……自分がどこにいるか分かんねー状況も、ちゃんと自分の居場所を見つけてるお前も……あいつらも」
「レイ……」
世界の全てを呪うように毒づくレイに、私は、彼が抱えていた心の闇を、全然理解してあげられていなかったのだと、ようやく気付いた。
「ごめん。でも……」
起こってしまったことは仕方がないとか、もう1度死んだところで元の世界に戻れるとは限らないとか、いくらでも彼を諭す台詞は思い浮かんだけど、それは今、絶対に言っちゃいけない言葉なんだと思って飲み込んだ。
誰もが割り切って前に進めるわけじゃない。どうしようもないと分かっていても、吐き出さずにはいられない感情だってある。
「ほんと、笑えるよな。お前が女王様とか」
ぐっと口を引き結んで耐えた私の首元に、レイの手がかかった。
力を入れられているわけじゃないけど、そこに感触があるだけでも、結構怖いものなのだと初めて知った。
「ふざけんなよ……なんでお前が」
耳元で悪態をつく声が、揺れる。
「こんなに遠い――」
遠いのは、私か。
傍にいると思っていたのは、私だけか。
本当にいつも、どうしようもなくすれ違っている――
「あの時なら、まだ……」
レイの声がぼんやりと通り過ぎる。いつの間にか涙が浮かんでいて、灯の入っていないシャンデリアが、見えないくらいにぼやけていた。
一緒に死ぬなんて出来ない。
運命に翻弄されて、こんな時代の、こんな場所に迷い込んで――せっかく出会えたのに、そんなのは嫌だ。
「ねぇ……レイ。頑張って、一緒に生きようよ……?」
空回りする思考回路で必死に絞り出したのは、そんな拙い言葉だけだった。
ここで生きるしかない。
泣いたって恋しがったって、『今』を生きるしかないのだから。
すると、私の首に触れていたレイの手が、ビクリと震えた。
急に身を起こしたレイが、戸惑うような目で私を見下ろす。
「悪い、俺……どうかして――」
――ドンッ
「陛下!」
その時、蹴破る勢いで部屋の扉が開かれた――音がした。




