第214話 暗雲
5月上旬。
時期的には気まぐれな天候が懸念されたが、その日は、午前中から晴れ間が広がり、暖かい気温だった。
その日、ロンドンから南東に6マイルほど離れたグリニッジ宮殿から、1500人規模の大行列が、西に向けて出発した。
テムズ川の南岸、ロンドン南東の入り口では、前日に女王の宮廷移動を知らされた市民が、歓呼の花道を作って迎え入れた。
「女王陛下! 今度はどちらにお引っ越しですか!」
「ロンドン塔ですよ!」
馬上の高貴な人物に、手を挙げて気さくに声をかける市民に、女王が振り返って声を張った。
「実は、ロンドン塔はあまり好きではないのです。嫌な思い出があるから!」
女王の茶目っ気のある返答に、道脇を埋める市民がどっと笑った。
「陛下! 陛下に恋をしてしまった私はどうすればいいのですか?!」
民衆が、馬上の女王を一目見ようと沿道にごった返す中、ゆっくりと移動する行列に向かって、人山の中から派手な衣装を着た若い男が声を張り上げ、周囲の注目を浴びた。
「寝ても覚めても貴女のことばかり考えてしまい、仕事が全く手につきません!」
「ロバート・ダドリーだ!」
「身の程知らずめ!」
優男風の男が、染めた雄鶏の羽を刺した滑稽な帽子をかぶり、芝居じみた口説き文句を謳う。
それが女王の守頭馬、レスター伯ロバート・ダドリーの物まねだと気付いた周囲が、面白がって罵声を浴びせた。
女王が笑いながら、偽ロバートに手を振る。
「私の愛する国家のために、日々を健全に生きて下さい!」
「御意に!」
「働けダドリー!」
胸を高鳴らせる動作をして答えた偽ロバートが、帽子を放り投げ失神する演技をした。
笑いながら野次る市民の横を通り過ぎながら、本物のロバート・ダドリーが不服そうに呟く。
「俺はあんなに滑稽ではないぞ」
「冗談のネタにされるだけ、嫌われ者なりに愛されているではないですか」
レスター伯と馬を並べたセシルが、物笑いを微笑に押し隠してそう言うと、レスター伯も鼻で笑って唇をゆがめた。
「貴殿は、冗談にもならぬ嫌われ方をしているからな」
「宰相とはそういうものです」
その皮肉に、セシルはあっさりと答えた。
ロンドン市民の間では、だいたい国民の反感を買う政策は、セシルの主導によるものとされていた。
基本、摂政や宰相という地位は、国民的に悪役にしやすいらしい。
だが、女王に支持を集め、国民意識を高めるためには、女王に反感がいかぬよう、嫌われ役を引き受ける方が都合が良いため、セシルは特にそのことに不満を抱いてはいなかった。
「陛下! ご覧ください!」
偽ロバートを通り過ぎた先で、今度は恰幅の良い中年女性が、女王を呼び止めた。
「50人のエリザベスです!」
そういった彼女の前には、2歳から10歳くらいの少女がずらりと並んでいた。
圧巻の大小のエリザベス軍団に、女王が馬首を返し、目を丸くする。
「まぁ、みんなエリザベス?」
「はい! 陛下の御世になってから、お名前を頂いた子もたくさんいます! さぁみんな、女王陛下にご挨拶をして!」
『じょおーへいか、わたしはえりざべすです!』
「そう、私もエリザベスよ!」
女性の合図で、声をそろえて自己紹介をする少女たちに、笑いながら応えた女王は、彼女たちの手に一輪ずつ花が握られていることに気付いて、馬を下りた。
少女たちの前に立ち、視線を合わせて1人ずつ花を受け取る女王に、守馬頭をはじめとする護衛官たちも立ち止まる。
「どいつもこいつも、あの手この手で陛下の気を引こうとするから、移動が遅々として進まん」
「陛下御自身が、国民とのふれあいを楽しまれていらっしゃるのですから、よろしいのでは」
レスター伯の愚痴に、セシルは子どもたちに囲まれる女王を眺めながら、微笑んで返した。
背丈の低い子どもたちに囲まれているため、女王の姿がよく見え、これ幸いとロンドンっ子たちが集まってくる。
彼女ほど、国民の前に姿を見せる王は他にいまい。
そして彼女ほど、国民に身近な思慕を持って愛される王も他にはいない。
「やれやれ……やっとロンドン橋が見えてきた。おい、三叉路と橋の最終チェックだ。どんな僅かな異常も見落とすなよ」
このロンドンで、テムズ川の両岸を繋ぐ唯一の橋が近づき、レスター伯が同行していた近衛隊に指示を出す。
ロンドンのテムズ川以南には、河と平行して、東から西にかけて大きな道が通っており、ロンドン橋へと続く南北に伸びる道と合流していた。
今回の移動で、彼らが最も注意するべきはそのポイントであるため、一個小隊を先行させて、入念な警戒に当たらせる。
テムズ川沿いにそびえ立つロンドン塔は対岸にあるため、女王とその家臣団の行列は、北に曲がって、ロンドン橋を渡る――予定になっていた。当初は。
ロンドン橋を間近にして、しばらく行列は止まっていたが、守馬頭の前に、先行していた近衛隊の一部が帰ってくる。
「異常はありません!」
「異常なし、進め!」
守馬頭の指示に、再び行列が動き出す。
行列の先頭が、厳戒態勢の敷かれたロンドン橋前の三叉路に差し掛かろうとする頃、レスター伯とセシルは、女王の両脇に馬をつけた。
「陛下、予定通り、我々は南に下ります」
「ええ、分かったわ」
小さな声でそう言ったレスター伯に、女王が頷き、彼女はよく通る声で前方に命じた。
「気が変わったわ、道を変えて。行き先を急遽、ハンプトン・コート宮殿に変更します」
その命令に、涼しい顔をしていたのはバーリー卿とレスター伯だけで、馬に乗る彼女の後ろで、女王専用の馬車をひく御者も、先行する家臣団も、ぎょっとした様子で急な『女王のきまぐれ』に困惑してた。
「女王陛下のご命令だ! 行き先を変更し、ハンプトン・コート宮殿へ。南に下るのだ!」
女王の指示を受け取った守馬頭が白馬を駆り、長い行列の前方に向けて命じていく。
先頭を守っていた旗持ちの近衛兵は、その命令が届くと同時に、威勢のよい声を上げ、旗を振り上げた。
「回れ左ー!」
「回れ、左ー!!」
「女王陛下のお通りである!」
「女王陛下のお通りである!!」
号令に合わせ、二列目の騎馬兵が直角に三叉路を左折する。
右に曲がるものだとばかり思っていた、道脇の物見達がざわめいた。
ロンドン橋の上にも群がっていた市民が、呆気に取られた顔で、遠ざかっていく女王の行列を見送る。
「ゴメンねー」
申し訳なさそうに、女王が振り返って手を振る。
一行はこれから、ロンドンから南西に街道を進み、南西部郊外にあるハンプトン・コート宮殿に移動することになっていた。
占星術師のジョン・ディーは、十字路が危ないと予言しており、ロンドン市内には十字路が無数にある。
ジョン・ディーの占いが当たっているかどうかは不明だが、秘密情報部の捜査からも、イエズス会士と繋がりのあるいくつかの地下組織が、ロンドン市内で不穏な動きを見せているのは確かだった。
結局ところ、正確な情報が掴みきれず、計画の内容までは突き止めることは出来なかったが、女王の身に危険が迫るリスクを犯すくらいならば、初めからロンドン都心には入らず移動先を変えよう、というシンプルな結論に至ったのは、ほんの数日前だ。
長い行列のしんがりが南に折れたところで、用心して隣を固めていたセシルとロバートは、再び女王の背後へと下がった。
「バーリー卿、レスター伯」
そのタイミングで、行列とは別行動をしていた秘密警察長官が、ディヴィソンを引き連れて馬で合流した。
「当たりです。張っていた十字路3カ所の付近から、大量の爆薬が見つかりました」
「被害は?」
「ありません。警戒に当たっていた者が発見し、大事なく取り除いています」
セシルの確認に、ウォルシンガムが淡々と答える。
「やはりディーの予言が当たったか。どうだ、大したものだろう」
それはつい数日前のことではあったが、レスター伯から依頼されていたジョン・ディーは、先に予言していた『十字路』のうち、特に危険であるという場所を3カ所指摘していた。
そして、その3カ所を警戒して人員を配置したところ、実際に危険物が発見されたのだ。
満足げに頷くロバートの自慢を、ウォルシンガムは無表情に流した。
「そうとも言えますが、これに関しては私の推測も当たっています。この3カ所は、女王が作成した3つのルートいずれを選んでも必ず通る道です。敵が正確にルートの情報を掴んでいれば、自ずと選ぶ地点になります」
「……つまり、何者かが、情報を流している――?」
察し、硬い表情で聞き返したセシルに、ウォルシンガムは頷く代わりに、別の報告を口にした。
「また、我々が情報を収集している時期に、複数の異なる情報が、意図的にばらまかれました。情報戦を意識した今までにない行動に、誰か――英国秘密情報部の存在を知る何者かの入れ知恵があったとも考えられる」
「しかも、彼らの偽の情報を集めた結果、ある共通点が見つかりました。そのほとんどが、女王をこの時期に、『市内』で強襲することを前提としたものでした」
「…………」
ディヴィソンの補足に、セシルはいくつかの可能性に思いをはせた。
女王の宮廷移動の時期や行き先が、一般に公表されるのは前日だ。
だが、さすがに宮廷の大移動ともなれば関係者も多いため、その身内などに情報が漏れることは、十分に考えられた。
だが――移動ルートを完璧に把握されていたとなると、話は別だ。
表情を曇らせるセシルに、ウォルシンガムが話を続けた。
「それらの錯綜する情報がいつ流布されたかを調べていくと、行き先の決定が下ってから、かなり早い段階でその傾向が見られており、女王やその関係者に近しい人間に、内通者がいる可能性が高い、という結論に達しました。そうなれば、機密事項である移動ルートの漏洩も、視野に入れる必要が出てくる」
「……彼らが、市内の移動ルートまで入手していたとして、直前までどれになるか分からない、3つある経路のどこに狙いを定めるか……敵の立場になれば、どのルートを選択しても必ず通る十字路を狙い撃つというのは、作戦として十分に考えられますね」
ウォルシンガムの平坦な声を聞きながら、セシルも静かに推測を口にした。
「この場合、1番の問題は、ウォルシンガムが当たりをつけた3カ所の十字路は、女王自身がお決めになった移動ルートを知らなければ、仕掛けることができないということ。そして、そのルートを知っているのは、宮廷内でもごくわずかな人間だけということです」
「つまり、宮廷に……それも極めて重要な情報を得られる位置に、スパイが紛れているということか……?」
事態を悟ったレスター伯が、深刻な表情で呟く。
「摘発します」
対して、ウォルシンガムは平淡な声で――その内側には、おそらくは穏やかならぬものを秘めているのだろうが――言った。
「頼みます、ウォルシンガム。このレベルの機密情報が反体制派に漏洩し続ければ、女王の身の安全を守ることすら危うくなる」
その静かな闘志に、セシルも同様のものを内に秘め、答えた。




