第213話 知れ。だが、すべてを信じるな
夕刻、公務過多な外務大臣の執務室に、ここのところ、秘密情報部本部に詰めていたウィリアム・ディヴィソンが訪れた。
「どうした。何か分かったか」
「それが――」
ウォルシンガムが求めたのは端的な成果だけだったが、ディヴィソンは神妙な面持ちで、上司の机の前に進み出た。
「解読の出来ない暗号が見つかりました」
「解読の出来ない暗号?」
執務の手を止め、ウォルシンガムが聞き返す。
「バーリー卿の命令で検閲を続けている地区の郵便物に、極めて複雑な暗号が使われている文書があり、解読が難航しています。……というか、暗号解読部が白旗を挙げました」
「…………」
暗号解読のプロでも無論、解読が難しい暗号は多々存在する。
だが、それらの多くは外交官や、高位貴族や政治家の密書であり、ちょっと教養のある良家の子息子女が、シャレで簡単な暗号文を使って贈り合っている恋文や、穴だらけの陰謀を張り巡らせている愚かな反政府分子の密書の類では、ウォルシンガムの要する暗号解読部が手が出せないレベルのものは、ほとんどなかった。
つまり、解読できない難度の暗号――というそれ自体が、極めて重要な情報を握っている可能性が高い、という証明でもあった。
「……差出人と宛先は」
「実在しない人物の名前が使われていましたので、現在、別の方向から調査を進めています」
今年の1月から検閲をかけているロンドンの一地区から、それほどまでに厳重な暗号文書が見つかったのは、それこそがバーリー卿ウィリアム・セシルが目的としていたものである可能性は高かった。
――あるいは、これは決まったかもしれない。
「確実に裏を取れ。同時に、その難解な暗号文の解読も継続させろ。他のものは後回しでいい」
「はい」
指示を受け取ったディヴィソンが退室しようとしたところで、執務室の扉がノックされ、1人の男が姿を見せた。
「ウォルシンガム」
「どうなさいましたか、レスター伯」
「良い情報が手に入ったぞ。十字路だ」
長いリーチで大股に突き進んでくる伯爵に、ディヴィソンが慌てて一礼をして道を開ける。
女王に面倒を見るよう頼まれたのを、どこまで拡大解釈しているのかは知らないが、何かと協力体制を築きたがる男は、度々ウォルシンガムのもとに情報や相談を持ち込むようになっていた。
あまり近づき過ぎ、派閥にからめ捕られるのも好ましくはないが、貴族派の動向が管理しやすいという面では、ウォルシンガムも重宝していた。
「十字路?」
「ああ、そうだ。ディーが十字路が危険だと言っている」
「ロンドンにいくつの十字路があると思っているのですか」
「なに、今にディーが予言するさ」
「…………」
ディーの予言だというロバートの助言は、随分と曖昧なものであり、十分な情報とは言い難かったが、ウォルシンガムはやや引っかかるものを感じた。
「お前の方は何か情報が入っていないのか? 気になることがあるなら、それもディーに占わせてみるが」
「……いいえ。今のところは何も。お心遣い感謝いたします」
珍しいことだが淡々と礼を言われ、ロバートはやや満足したように胸を張った。
「そうか、貴殿でも分からぬことはあるのだな。やはり、人の眼で見えるものには限界があるか」
「…………」
揚々とレスター伯が立ち去った後、ウォルシンガムはロンドン市内の地図を広げた。
ごく一部の関係者だけが所持している、宮廷の移動当日のルートが書き記されたものだ。
ロンドン塔に達することが目的であるにも関わらず、ほとんど規則性がないように市内を曲がりくねるルートは、単に女王の趣味の寄り道というわけではなく、簡単に王の辿る道を悟らせないためだ。
だが一見しただけでも、女王が通る経路には相当数の十字路があり、これら全てに監視の兵を配置することは、ほぼ不可能だった。
これまで、いくつかの地下組織の動向を静観していたが、奴らが何かことを起こそうとしているのは間違いなかった。
それは、ウォルシンガムの長年の経験からくる勘だった。
「ディヴィソン、地下組織の動向については、何か分かったか」
「それが……情報が錯綜しています。複数のルートから食い違う内容が届いており、どれが本当なのか……」
「こちらを攪乱させるために、わざと誤った情報を流している可能性が高い。情報の精査を急げ」
「できる限り努力はしてみますが……」
ウォルシンガムの指示に、ディヴィソンが歯切れ悪く答える。
諜報活動において、情報の正確性というのは、最も重要視する要素の1つだ。
通常、ウォルシンガムは1つの情報に対し、いくつかのルートから何重ものチェックを行い、その精度を確かめることを怠らなかったが、今ひとつ大きな悩みがあった。
現在、新設の秘密情報部は、十分な人材が確保出来ているとは言い難い。
フランスに滞在中、ウォルシンガムは海外のネットワークの強化を図っていたが、国内はウォルシンガムが不在の間、代理のディヴィソンでは現状維持に努めるのが精一杯であり、情報精査に重要な『第3の目』となるべきネットワークが十分に機能していなかった。
秘密情報部の特性上、闇雲に規模を広げるのはリスクが高く、ディヴィソンにスカウンティングは任せていない。
人材の発掘に必要な人を見る目には、素養と経験が必要で、そのどちらもこの青年には不足していると、ウォルシンガムは判断していた。
現在は国外も予断を許さぬ状況で、人材を回すということも難しかった。
「……ジョン・ディーの占いの結果を待ちましょうか?」
「馬鹿を言うな」
「すみません」
秘密情報部が、占星術師の占いの結果を待つなど滑稽もいいところだ。
ウォルシンガムは、女王ほど占星術に対して懐疑的ではないが、レスター伯ほど妄信的でもなかった。
何より、レスター伯が「人の眼で見えるもの」を揶揄したのが気に食わなかった。
だが――
「十字路……」
知れ。だが、すべてを信じるな。
どのような情報に対しても、一考の余地はある。
レスター伯のもたらした情報に、奇妙な引っ掛かりを覚えていたウォルシンガムは、霧を掻くように呟いた。
「どこの十字路だ?」
「え? だから、それをディーが占うって話じゃないんですか? ロンドンには無数の十字路がありますし」
「ロンドンの十字路」
戸惑うようなディヴィソンの返答に、その瞬間、違和感の正体を悟り、ウォルシンガムは目の前の地図に手をついた。
それは、市壁の内側――無数の道が交錯する、ロンドンの市内地図だ。
「ディヴィソン、情報を集めろ」
「えっ?」
「偽情報でもなんでもいい。敵が流している情報を全て持ってこい。それから、過去に入手した情報も、時系列順にまとめろ。恐らく、ある共通点が浮かび上がるはずだ」
違和感の正体に気付くと、付随して織り糸が解けるように可能性が見えてきた。
どこまで繋がっているのか――あるいは繋がっていないのか。
それは、糸を手繰り続けなければ分からない。




