第212話 天使の囁き
翌日の夕方、レイは何事もなかったかのように、私の部屋に訪れた。
私も、表面上は何事もなかったかのように振る舞いつつ、実際はものすごく言いたいことがあったので、ドキドキしながらタイミングを見計らっていたのだが……
「ロバート・ダドリー」
急に、レイがソファで胡坐をかきながら、その男の名を口にした。
向かいのソファで書類を片手に、膝の上のフランシスを撫でていた私は、思わず前のめりになりそうになったのを、かろうじてこらえた。
「……って、本当にエリザベスの愛人だったのか?」
「愛人……っていうか、好き合ってはいたみたいだけど」
レイの疑問に、私も首をひねりつつ、曖昧に答える。
私も本物のエリザベスに会ったことはないので、ロバートのことをどう思っていたのかまでは分からないが、周囲が言うには恋人同士のように振る舞い、特別に寵愛していたことは確からしい。
「あいつは中身がお前でもいいんだな。女王だったらいいのか?」
「そんな言い方しなくてもいいでしょ。ロバートは――」
ロバートは……何なんだろう。
言いかけて、考える。そういえば、ロバートにとって私は何なんだろう。
もう1度恋をしたとかなんとか言っていたような気がするが、身体は同じエリザベスなのだし、中身が変わったといっても、彼らにとっては記憶喪失か何かと実質的に変わりはないかもしれない。
別に、今の『私』が認められていないとは思わないけど……思いたくないけど……彼らにとっては、何よりも私がエリザベス女王であることが大事なわけで、極論を言えば天童恵梨はちゃんとエリザベス女王を演じ続けてくれればいいわけだと原点に戻る。
私も、エリザベス女王になっちゃったからには、もうどうしようもないのでエリザベス女王で在り続けるよう頑張るしかないとは思ってるけど。
改めてそういうこと聞かれると、深く考えてしまい、やっぱり私って孤独なんだろうかと、ふと寂しくなる。
……いかん。考えても仕方がないことは考えないのだ。
頭を振って憂鬱を振り切り、私は、昨日から考え続けていた言い訳を口にした。
目を合わせ辛かったので、チラチラ横目でレイの様子を伺いつつ、ついフランシスの耳や背中を撫でさすっていると、無口な黒猫が、喉を鳴らしながら頬をすりつけてきた。
「そうだ、レイ。昨日はなんか変な話し聞かれちゃったけど……別に他意はないというか。ロバートが勝手に決めつけてきて、こっちもヒートアップしちゃったというか。レイを疑われて腹が立って、ついムキになっちゃったというか……これはそれだけの話で、とにかく、その……」
全然考えていた通りにしゃべられず、しどろもどろになる。なぜだ、人前の演説なら完璧にこなすのに。
「分かった分かった。お前が俺に惚れてないって話だろ」
おぅ。
「そ、そうです……」
人が一生懸命遠回しに否定しようとしているのにストレートに要約されて、私は脱力した。
なんだろう、このギャップ。この手の話を過剰に意識する私がおかしいのか?
ふとそんな疑問が過ぎり、昨日のロバートの台詞がまた突き刺さった。
しばらくこの傷は癒えそうにない。恨むぞロバート。
「本当に?」
「え?」
な、何か言った?
ともすれば聞き逃しそうなくらいサラッと言われた一言に、ギョッとして顔を上げる。
「分かってるっつーの。そんなの期待してねーし」
だが、片膝を立てて頬杖をついたレイは、涼しい顔だ。
「そうよね! そうですよね! だと思った!」
あっさり言ったレイに、アハハ、と笑いつつ、内心ホッとして全力で同意した。
~その頃、秘密枢密院は……
宮廷占星術師ジョン・ディーの部屋は、レスター伯のロンドンの屋敷の敷地内に与えられていた。
「――やはり女王は、そのように仰っていましたか」
「ああ、お前の言う通りだ、ディー。陛下は、あの男に騙されている」
その薄暗い部屋の手前には、貴人――主には彼の支援者であるレスター伯とその客人――を迎え入れるために、大きな円卓とソファが置かれていた。
入り口を含め、壁全体に暗幕が張られていたが、天井に吊された豪奢なシャンデリアには、灯は入っていない。
代わりに、円卓の上に置かれた三つ叉の蝋燭立てが、ゆらゆらと静かな炎を灯していた。
そのテーブルを境にした奥の空間は、分厚い書物や天宮図、いくつもの実験道具が混在する、ディー自身の書斎というべき領域だった。
……実際には、その書斎スペースの更に奥が、暗幕で区切られており、そちらに錬金術の研究のための実験室があるらしいが、レスター伯は入ったことがなかった。
15才の時にケンブリッジ大学に入学し、修士号を収めた後、パリに発ち、27才でイングランドに戻ったジョン・ディーは、エドワード6世の時代から、王宮のサロンで評判を得た宮廷占星術師だ。
彼の経歴を総合すれば、まだ齢40には達していないはずだったが、黒いフードで顔の上半分を覆い、残りの下半分に、生涯一度も剃っていないのではないかと思われる長い髭を蓄えた姿からは、その実年齢を想像するのは難しい。
薄暗い部屋を、懊悩する男――レスター伯ロバート・ダドリーが、せわしなく行き来する。
「あの男は、自分を『特別』だと思っている」
憎々しげに吐き捨てたレスター伯に、彼の懊悩を静かに見守っていたディーが口を開いた。
「少し……天使の言葉を聞いてみましょう」
「おお、やってくれるか!」
その一言を待っていたレスター伯は、途端に表情を明るくし、神経質に部屋を往復するのをやめた。
ディーは背後を振り返り、少し大きめの声で、暗幕の向こうに声をかけた。
「エドワード、今、手を離せるか」
「……もう少しお待ちを、先生。霊薬の精錬が、まだ途中です。殺されるべき竜――緑のライオン――黒い鳥――全てを等しく檻に入れるところです」
返ってきた台詞は、ロバートには何を言っているかちんぷんかんぷんだったが、これらは錬金術師達の専門用語で、いくつかの物質や液体の名称を暗号化したものだった。
「おお、そうか。それは、話しかけてすまなかった。やつらを清潔な檻に入れ、ピッタリと閉ざし、熱い蒸気に苛立って格闘を始めるよう、湯船を置いてから、こちらに来てくれ」
「分かりやした」
「ああ、水晶を持ってな」
「へい……」
集中しているのか、おざなりな返事だけが返ってきた。
「閣下、恐れ入りますが、今はまだ手が離せないようですので、しばしお待ちを」
「あ、ああ。分かった……」
彼らの会話が持つ、摩訶不思議な重々しさに気圧され、ロバートは素直に頷き、来賓用のソファに腰を落とした。
そこから、二十分……三十分……かなりの時間待たされ、無言のまま時が過ぎるままにした結果、ようやく奥の暗幕が揺れ、1人の若い――かなり若い男が出てきた。
ハットンやドレイクのような、実年齢と外見年齢が伴っていないような実例も多々あるため、正確なところは分からないが、印象で言うと、十四、五歳。
色白で額の広い、聡明そうな少年ではあったが、どこか浮世離れしたような――もっと言えば少々不気味な――雰囲気があった。
それは、今ひとつ焦点が合っていないような目と……根本から両耳を削ぎ落とされた卵形の輪郭が、余計に異質な印象を与えているのかもしれない。
「……ケリー、顔を見たのはひさびさだな。お前は、いつも研究室にこもっている」
「…………」
座ったまま微笑みかけたレスター伯にも、相手は無言のままだった。
研究を中断され、不機嫌な様子を隠さないその少年と、ロバートが顔を合わせたのは、数えるほどしかない。だが、彼の能力には――ジョン・ディーを通して、度々世話になっていた。
「エドワード、伯爵が久しぶりだと言っている。挨拶をしろ」
「……ああ……お久しぶりです」
隣からディーが大きめの声で促すと、ケリーはロバートに……やはり愛想のない様子で挨拶をし、ふいと顔を背けた。
その行動に、ディーが謝罪してくる。
「失礼しました、閣下。この者は見ての通り外耳を削られているため、あまり正面の音を拾うのが得意ではありません。耳の穴を音の方に向ければ、そうでもないのですが」
「ああ、そういうことか」
随分素っ気ない態度に疑問を感じたが、納得する。
どうやら今度は聞き逃さぬよう、声が聞こえやすい顔向きに変えたらしい。
この耳のない少年の名は、エドワード・ケリー。
ジョン・ディーの助言者であり、共同研究者であり、共同生活者だ。
元は薬屋で薬剤師見習いとして働いていたが、霊感を発現し、墓を暴いて死霊交感を行った咎で晒し台に立たされたことがあり、職を失ってからは浮浪の末、贋金造りに携わった咎で、両耳を切り落とされた過去がある。
ジョン・ディーがこの曰く付きの少年を拾ったのは、ケリーが念じて呼び出した精霊エアリエルが、ディーにケリーを雇うよう指示したからだという。
水晶を通じて天使と交信できるというこの少年を重用し、ディーは彼を専属の水晶占い師として傍に置き、生活を共にしていた。
「お前の水晶占いで、天使と交信し、今後の女王陛下の身に起きることを予言してくれ」
「また、交霊……ですか」
ディーの依頼に、ケリーは白い顔を歪めた。
「精霊はいつもお前に話しかけてくるのだろう。以前言っていたではないか」
「……嫌、です。今は僕は、これは悪霊の言葉ではないかと疑っています」
「閣下の前で、滅多なことを言うものではない」
ぐずるケリーを、ディーが柔らかく叱責する。
「間違いなく、お前は、水晶を通して与えられる、天使の不思議な言葉を理解出来る人間だ。この稀有な力を持ちながら、国と王の為に使わぬのは、神の御心にも反することだろう」
熱のこもったジョン・ディーの言葉にも、少年が感銘を受けた様子はなかったが、渋々、一旦暗幕の裏に戻り、紫のサテンのクッションに載せた水晶玉を、厳かに運んできた。
そして、来賓用の大きな円卓の、ロバートから離れた場所に座り、テーブルの上に水晶を置いて、その上に手をかざした。
「…………Biab、Azeien.ComSelt.Gir.P.Ad……」
「何を言ってるんだ……?」
ぼそぼそと水晶に向かって何かを呟き始めたケリーに、ロバートは眉を顰めた。
近づいてはいけない空気を発する少年からは離れ、ディーの傍に寄って問いかけた伯爵に、ジョン・ディーが小声で答えた。
「天使の声を呼び寄せる言葉です。天使が使う天使語を理解出来るのは、エドワードだけです」
「ほぅ……そうか」
納得し、ロバートは水晶と交信する少年を、注意深く見守り続けた。
「……民衆の、嘆き」
「何?」
「しっ、閣下。お静かに……天使語を訳するのも、精神の統一が必要なのです」
「そ、そうか……すまなかった」
ディーの叱責にコクコク頷き、口を抑えるロバート。だが――
「この国で最も高貴な女性が……悪しき魔の手に落ちる……」
「なん……だと……!?」
次に告げられた天使の言葉に、愕然としたロバートは、声を上げずにはいられなかった。
「閣下……!」
「…………交信が、途絶えました」
「…………」
取り乱したロバートを、ディーが慌てて宥めようとするが、結果は無情だった。
パトロンの失態では咎めることも出来ず、ディーは諦めたように深くため息をついてから、せめてもの望みをケリーに繋いだ。
「他に、天使は何を言っていた?」
「その女性は、近々、大きな危険に見舞われることになるだろうと……僕は聞けたのは、そこまでです……」
それは、ディー自身が星の動きを見て占った内容とほぼ同じもので、新たに大きな収穫を得られたとは言い難かった。
「ふぅ……」
だが、それまで気を張りつめていた少年が、疲れ切った様子で椅子に背を預け、額の汗をぬぐったところで、ディーはその労をねぎらった。
「もう今日は、これ以上は厳しそうだな。無理をさせてすまなかった」
「いえ……お役に立てたなら……」
青白い顔に疲労を浮かべ、弱々しく少年が頷く。
ディーは、視線を隣に立ち尽くすパトロンへと転じた。
「閣下……お聴きになった通りです」
「近いうちに、大きな危険に晒される……やはり……宮廷のロンドン塔への移動か。もう2週間後に迫っている。何度、陛下に申し上げても、聞き入れてはくれない」
「陛下をお守りするには、危険を未然に防ぐことが必要になりましょう――」
「ああそうだ。どこで、何が起きるかさえ分かれば……ジョン・ディー、占うことは出来るか?」
伯爵の縋るような視線に、ジョン・ディーは手元の天宮図に視線を落とし、その後、椅子にもたれてぐったりしている少年を見やった。
「……出来る限り、試みましょう。閣下、その日の陛下のご予定は――?」
「ああ、陛下が移動なされるのは、昼前になるだろう。陛下は、晴れていれば馬での移動を希望される。市民達に顔を見せ、言葉を交わされるためだ。ルートは、陛下御自身が市内の巡察をかねて決定なされた。これだ」
レスター伯は、ジョン・ディーに地図を開いて見せた。
「これは以前にもお前に話したが、陛下は目的地のロンドン塔に入場する前に、道を迂回し、ロンドン市内を視察される。3つパターンがあるのは、危険を考え、当日に道程を変更できるように、だ。どの道を通られるかは、陛下ご自身が、その時お決めになる」
「閣下、こちらをエドワードに見せても?」
「ああ、構わない」
頷き、レスター伯が許可を出すと、ディーは立ち上がり、経路の記されたロンドンの地図をケリーの前に広げた。
「エドワード、これが当日のルートだ。女王陛下が、何者か悪しき者の手によって危険に見舞われるとして……どこで、何が起こるのか……そのヒントを、閣下は所望されておられる」
耳元で、ディーが丁寧に説明する。
「エドワード……何か、精霊エアリエルは囁いているか?」
ディーの話を聞きながら、少し顔を上げ、焦点の合わない目でジッと地図を見つめていたケリーが、一度、目をつぶった。
「――十字路……」
一言。ケリーが、譫言のように呟いた。
「十字路……今、何かそのような囁きが聞こえました」
「それは、精霊エアリエルの囁きか?」
「分かりません……多分」
「十字路? 十字路が危険だというのか。ロンドンには数え切れないほどの十字路があるぞ。どの十字路だ」
「…………」
ロバートが重ねて問うと、ケリーはしばらく虚空に耳を傾けたが、やがて、諦めたように力なく首を振った。
その様子に、ロバートははやる心を抑え、そっと身を引いた。
「……まだ2週間ある。分かればすぐにでも教えてくれ。すまないが、これは回収させてもらう。実際は門外不出のものだ」
地図を丸めて懐に戻し、レスター伯は手数料として用意した、紫のビロードの金袋をテーブルに置いた。占い師2人が、静かに頭を下げる。
彼らに見送られ、暗幕をめくって出入り口の扉に手をかけたところで、レスター伯は2人を振り返り、言い残した。
「この件でお前たちの予言が陛下の身を救えば、覚えも良くなるだろう」