第211話 揺さぶられるのは、嫌い
一夜明け、私は予定通り、午前中には経路を記入した地図を数枚複写し、セシル、ウォルシンガム、ロバート、宮内長官と王室家政長官の5人に配った。
一応、テロ対策の機密事項なので、直筆のサインも入れ、これ以上の複写は禁じている。
後は、各自の部門で必要な内容を共有してもらい、移動の準備を進めることになる。
5月1日には五月祭を控えているので、宮廷の移動は祭りを終えた後、ということになり、2つのイベントの準備で、宮殿内はにわかに慌ただしくなってきた。
――移動を2週間後に控えたその日、私は午後の中途半端な時間に、自分の寝室のある階を1人、早足に歩いていた。
あー、こんな忙しい時に忘れ物とか!
夜遅くまで作っていた資料を、机の引き出しに入れたままにしていたのだ。
夕方の会議までに見直すつもりだったのに、持ってくるのを忘れていた。
鍵付きの、メアリーからの手紙などを突っ込んでいる引き出しに入れていたため、誰かに持ってくるよう頼むのもためらわれ、スカートの裾を持ち上げながら、早足に部屋に戻るはめになった。
こういう時、徒歩しか移動手段のない無駄に広い宮殿と、歩きにくいドレスが煩わしくなる。
もひとつ煩わしいお付きの侍女達は、私の早足について来れず、すでに置き去りにしていた。
「陛下!」
無駄に長い直線の廊下を突き進みながら、自分の部屋の扉を目指していると、急に後ろから声をかけられた。
立ち止まって振り返り、私は目を丸くした。
「どうしたの? ロバート、こんな時間にこんなところで」
ここは、女王の寝室が置かれた階で、私がいないこの時間にうろついているのは、限られた身の回りの世話をする人間と、数名の見張りの衛兵くらいだ。
大股に近づいてきたロバートが、胸に手を当てて答える。
「お姿を探しておりましたところ、階下の広間で立ち往生していた侍女達から、陛下が急ぎ、お部屋にお戻りになられたと聞いて……」
置いてきぼりにされて困っていた侍女達から事情を聞いて、追ってきたらしい。
「私に何か用?」
「陛下、やはり危険です」
促すと、ロバートは1歩前に踏み出し、深刻な顔で私に警告した。
「今回の宮廷の移動は、取りやめになされた方がいい」
「またその話?」
もー、しつこいなー。
ロンドン塔への移動を決定してからというもの、ずっとこの調子だ。
どうやら、この時期の移動は不吉だと、ジョン・ディーがしつこく占ってきているらしく、ディーの占いを信じているロバートが、度々進言してくるのだ。
「いちいち占いに惑わされてたら、仕事がはかどらないでしょう。夏が近づいているのに、このまま1年近く同じ場所にとどまっている方が、よっぽど不衛生で良くないわよ」
相手にせずにそう返すと、ロバートが疑いの目を向けてきた。
「それほどまでに頑なになられているのは、あの男が何か吹き込んだのでは?」
「あの男?」
「あの医者です」
「レイが?」
レイも、食中毒などの懸念は口にしていたが、別に吹き込まれた覚えはない。
「あの男は疑わしい。貴女に取り入り、悪事を働こうとする蛇かもしれない!」
唐突にロバートがレイを糾弾してくる。話が飛びすぎてついていけない。
「あのねぇ、何を根拠にそんなこと言ってるのよ?」
「それは、ディーが……」
またディーか!
ロバートが愚直に口にした名前に、ここのところうんざりしていた私は、ついに怒った。
「占い師がどう言おうとも、それは根拠としては認めません!」
「そうは仰いますが、陛下も、バーコットの言葉は信じるでしょう!」
私が声を上げると、ロバートも珍しく、強い口調で言い返してきた。
「彼は占い師ではありません!」
「未来を予知するというのならば、それは占い師ではないのですか!?」
「違います!」
勢いで言い返してから、私は少し冷静になって考えた。
レイは、私達のいた世界で実際に起こった歴史を、私に教えてくれているだけだ。
それは、この世界でも必ずそうなるとは限らないが、近似世界で確かに起こったことであるならば、十分参考にする価値はあると思っていた。
……だが、『あるかもしれない未来』を予知するという意味では、レイと同じく未来から来た私以外にとっては、占いとなんら変わりはないか。
「……そうね、あなたたちにとっては、そうかもしれない。けれど、だからといってレイを疑う理由にはならないでしょう。占いの結果だけで、私の大切な友人を疑うことは許しません」
この世界のレイには、身寄りがない。
フランス宮廷を追い出され、辿り着いたロンドンの下町でひっそり暮らしていた男に、後ろ盾があるわけもない。派閥だ家柄だという、宮廷内の有象無象とも無縁の人間だ。
「彼が私を裏切る理由が、どこにもないでしょう。あの子には帰る場所もなければ、頼れる親戚もいないのよ。この世界に一人きり。この孤独が分かる?」
そうロバートに言い聞かせながら、ハインツに拒絶されたレイの背中を思い出し、胸が痛くなった。
疑われて、追われて、1人で大陸を転々としてきた孤独は、きっと、この世界に目覚めてからずっと誰かに守られてきた私とは、比べものにならないものだ。
出会った時はあんなに荒れていたレイが、今はアンを可愛がって笑顔を見せるようになっている。
協力者として、同じ過去を持つ人間として、傍にいて欲しいという気持ちはあったが、彼をこれ以上、辛い目に遭わせたくないという思いもあった。
「本当に、友人だとお思いですか?」
「……どういう意味?」
棘のあるロバートの質問に、私は顔を上げて睨みつけた。
「貴女は、あの男に『また』恋をしているのでは?」
「な……っ」
言葉を失った私が無意識に握り締めた拳を、ロバートが素早く掴んだ。
「貴女は今、あの男に盲目になっているだけだ! 目を覚まして下さい!」
私の手を掴んだまま、息がかかりそうな距離で訴えてくる男から顔を背ける。
「さっきから、人がレイを好きみたいに決めつけないでくれる!? そんな気これっぽっちもないし!」
「いいや、貴女は恋をしている!」
「………!」
確信を持った声で断言され、息を飲む。
ここまで誰かに恋愛感情を断定されたことがないだけに、ふと、自分を疑う心が芽生えた。
恋……?
してるのか? ……いや、してない。してないはずだ。
私が誰かを好きになったのは1回だけで、それはあの時のレイであって、今のレイじゃない。
あの時みたいなフワフワしたトキメキみたいなのはないし……ただ、唯一私に普通の友人として接してくれる人で、一緒にいて楽だというのはあった。
それに、レイからしてみれば私以外に頼れる人間なんていないのだから、放っておけないというのもある。
ただ、それだけだ。
頭の中で必死に考えて結論を出していると、空いた手で顎をすくわれた。
鳶色の真剣な目と、至近距離で見つめ合う。
「貴女は、自分が恋に落ちたことを認めたくないだけの少女だ」
やっぱり違うと、さっき自分の中で否定したばかりなのに、射抜くように見つめてくる相手の言葉に、どうしてもすぐには反応できなかった。
動けない。
「己の心が誰かに奪われるなど、プライドが許さないのでしょう」
耳から流れ込んでくる言葉を、感情が理解するのを嫌がった。
その隙を突くように、引き寄せてきた相手の胸に抱かれる。
胸板に頭を押し付けられ、顔が見えなくなった相手の真剣な声が、耳元で囁いてくる。
「恋『なんか』のために、自分の人生が揺さぶられることを恐れている?」
「…………!」
ものすごく図星をさされた気がして、息が詰まった。
「本当は、人一倍恋がしたいくせに――」
「やめて!」
咄嗟に反論できる言葉が見つからず、私は感情的に叫んで、ロバートの胸を突き飛ばしていた。
聞きたくない。
今、胸の中に充満しているのは、理屈とかそんなんじゃなく、単純な拒否感だ。
信じていたものを足元から崩されていきそうな怖さに、自分でも驚くほど拒否感を示していた。
感情が高ぶり、急にこみ上げてきた熱を飲み込もうと、私は俯いた。
「いじわるしないでロバートのくせに……!」
なんでコイツに、ここまで揺さぶられないといけないのか。
腹が立って仕方がなかったが、そう思った瞬間に、さっきのロバートの言葉が突き刺さって、余計に動揺した。
「……っ……」
喉元まで込み上げてきた熱が、目の奥から涙を押し上げようとするのを、息を止めてこらえる。
引っ込め涙! ここで泣いたらいくらなんでも弱すぎる。
言うことを聞かない弱い涙腺を罵倒しながら、気持ちを落ち着けようと浅い呼吸を繰り返していると、ロバートが打って変わった静かな声で謝罪した。
「……申し訳ありません。嫉妬しました」
「…………」
まだ顔を上げられずにいた私の耳に、聞き慣れた――聞きたくない声が、届いた。
「お前らさぁ……人の部屋の前で堂々と痴話喧嘩するとかバカか?」
はっ……!?
仰天してバッと顔を上げると、私とロバートが向き合う少し後ろに――外開きの扉を開けたレイが、呆れた顔で立っていた。
あああっ! この辺レイの部屋が近かったの忘れてた!!
しかも今日に限ってこんな時間に部屋にいるとかっ。
もうこれ以上なく嫌な鉢合わせ現場に、私は心の中で絶叫した。涙とかリアルに吹き飛んだ。
うわああぁぁぁっ。木の葉になって舞い散りたいくらい最低に恥ずかしいいっ!
脳内で頭を抱えてローリングし過ぎて竜巻になる。
もう全部ロバートのせい! あんな会話を始めるロバートのせい!!
釣られてヒートアップした自分も悪いが、この際全部責任転嫁することにした。
脳内ローリングしている間、現実の私は石になっていたのだが、誤解を是正すべく全力で石化を解いて叫んだ。
「痴話喧嘩じゃない!」
「そうだ痴話喧嘩だ! 羨ましいか!」
バカか!
胸を張って言い返す男に罵倒を飲み込む。
落ち着け。私、落ち着け。起こってしまったことは仕方がない。事実を確認しよう。もしかしたら聞いていなかったかもしれないし。
そんなわけはないのだが、自分をごまかしつつ強制的にクールダウンした私は、恐る恐るレイに尋ねた。妙に静かなのが怖い。
「き、聞いてたの……?」
「聞くも何も……部屋の前であんだけギャンギャン口論されたら、嫌でも起きるっての」
寝てたのか。
偉そうに文句を言われたところで、こんな時間に部屋で寝てるヤツのことなど、思慮の外だ。
それにしても、本当にいたたまれない。レイを庇おうとして必死になってしまっただけに、この会話が筒抜けだったとしたら恥ずかしすぎる。
うおぉ、どうしたら……っ
ロバートのバカが言った内容を、レイが本気にしているとは思わないが……思いたくないが、ものすごく弁明したい。一から十まで説明したい。
しかし、それよりも、これ以上この場で顔を合わせていたくない、その場を逃げ出したい気持ちの方がはるかに勝った。
「行けよ。なんか言いたいことあるなら、後で聞くし」
目も合わせられずに、視線を彷徨わせていた挙動不審の私に、レイが顎で促してくる。
「あ、ありがと。後で聞いてね!」
正直助かった気持ちで、私は空けてもらった逃げ道に飛びついて、後ろも見ずに寝室へと駆け込んだ。
とはいえ、後に残された男2人の会話で何を言われてるやらと思うと、恐ろしくて悶える。
駄目だ。考えない考えない。勝手にするがいいさ。私はもう知らんぞー!
下手に想像すれば、気になるわ恥ずかしいわでのたうち回って眠れそうにないので、私は一切無関心を装うことにした。
ああもう、しんどい!
~その頃、秘密枢密院は……
女王が寝室に逃げ去った後、レオナルド・バーコットは、半ば茶化すような口調で隣の男をなじった。
「女泣かすとか、色男としてどうなんだ?」
「泣いていない」
バーコットが扉を開けた時、追い詰められ、俯いて拒絶した彼女は、ほとんど半泣きの状態だったが、レスター伯はそう即答した。
「昔からあのお方は、本当は涙もろいくせに、それを人に悟られるのがお嫌いだ」
どうやら、泣いていないと断言することが、この男なりの配慮らしい。
随分とプライドの高い女に惚れたものだが、バーコットはあえて揚げ足を取った。
「昔っていつのことだ?」
「…………」
レスター伯は答えなかったが、それが答えだ。
「やっぱり、あんたらにとってあいつはエリザベスなんだな」
「…………」
「きっと、あいつにとっても、あんたらはエリザベスの臣下なんだろうな」
「…………何が言いたい」
遠まわしに、含みを持った言葉を重ねるバーコットを、レスター伯は苛立ったように睨みつけた。
分かりやすく敵意を向けてくる相手に、バーコットは、わざと相手を踏みにじるような優越感を笑みに乗せ、挑発した。
「俺は、お前らとは違う」