第205話 エリザベス体制
9ヶ月ぶりに屋敷に戻ったウォルシンガムは、私室で休む暇も惜しみ、北東の塔へと足を運んだ。
「なんだ、これは」
英国秘密情報部の本部とも言うべきその場所は、ウォルシンガムが不在の間は、ディヴィソンが管理していた。
その内の一室――主に暗号解読作業に使っている部屋の惨状を見て、ウォルシンガムは眉を顰めた。
机の上には、手紙の写しが山となって積まれていた。
「1月から国王第一秘書の命令で、ロンドンのある地区の、郵便物の検閲が始まりました。少しでも不審な点があるものについては、内容を改めるようにと」
ディヴィソンが説明してくるが、その話はバーリー卿からも聞いていた。
「問題のなかったものは再度封をして発送し、暗号で書かれたものについては、改めるのに時間が掛かるので、取り急ぎ写しを作成し、解読を進めていますが……」
検閲の目的についても聞いており、ウォルシンガムもそれ自体に異論はなかったが、帰ってきて、これだけの量が溜まっていることは想定外だった。
「これだけ未処理分があるのか?」
「はい……なにぶん、予想以上に量が多くて、手が回らなくて……」
暗号解読部はフル稼働してるらしい。
ディヴィソンの話では、怪しい文書に関しては密やかに封蝋が解かれ、速記者達が数人がかりで写しを作っているのだが、市内の郵便物にそうそう怪しいものが混じっているわけはないと思いきや、簡易な暗号文を使った文書は存外多く、解読してみれば結局は、交際を隠している恋人同士の文であったり、使用人に盗み読みされたくない主人の個人的な手紙であったりというのが大半で、徒労に終わるケースが多いらしい。
肩をすぼめながら申し訳なさそうに言い訳をしてくる部下に、ウォルシンガムは深く溜息をついた。
深刻に人手不足だ。
しばらくの間、会議がない日は参内を控え、仕事場にこもってこちらの処理を優先した方が良さそうだ。
「まったく……休む暇もない」
元より休むつもりもなかったが、そんな愚痴を口にし、ウォルシンガムは手が回らず放置されている、手紙の山の処理にかかった。
今後も秘密情報部の仕事が増え続けることを考えると、人材の補充は急務だろう。……ただし、『優秀な』という前提条件が必要にはなるが。
※※※
ウォルシンガムが帰ってきた日の夜、私は内密に伝えたいことが会ったので、セシルを寝室に呼んだ。
「セシル。ウォルシンガムは、今日は屋敷に帰ったの?」
「はい。何人かに帰国の挨拶をした後、屋敷に戻ると。留守中に秘密情報部の方で蓄積された情報を消化したいようです」
「早速働くんだ……長旅で疲れてるんだろうから、1日くらい休めばいいのに」
相変わらずよく働く男だ。
「陛下、本日はどのような?」
「あ、うん。実はね、セシルに言っておかなきゃいけないことがあって……」
ちょいちょい、と手招きし、私は近づいてきたセシルの耳元で、こしょこしょと『決定事項』を伝えた。
すると、案の定、セシルは驚いた顔で見返してきた。
「陛下、本気ですか?」
「本気よ。ずっと考えてたの。必要な人事よ」
「ですが……」
セシルの懸念も分かる。けど、私はセシルの顔を覗き込んで説得した。
平気な振りをしているけど、私が倒れてからどんどん仕事が増えて、相当無理をしているのは知っている。
「セシル、あなたもそろそろ限界でしょう?」
「私は――」
「無理し過ぎて、私みたいに倒れられたら困るの、分かって」
「……分かりました」
私の決意が固いことを知り、セシルが溜息混じりに了解する。
「急な抜擢で、宮廷でも動揺はあるでしょうが、あの男ならばこたえることはないでしょう」
「その辺の根回しについては、貴族派の方は、ロバートを通じて牽制しようと思うの」
「レスター伯自身が、この人事をどう思うかは分かりませんが、その点は貴女からお願いした方が効果はあるでしょうね」
「そうね、そうするわ。ちゃんと先輩として、面倒をみてやってくれるように」
「良い言い回しです」
ロバートの性格を考慮した根回しに、セシルが苦笑する。
その翌朝、私はある決意を胸に秘め、9ヶ月ぶりにウォルシンガムを朝の散歩に同行させた。
変わらず斜め後ろを歩く男を引き連れ、グリニッジ宮殿の庭園を散策しながら、いつ切り出そうか考えていると、ウォルシンガムが朝露に濡れた緑を見下ろしながら、静かに口を開いた。
「この度のパリでの騒動で、邦人や亡命者の渡英手配を行った際、イングランド側の受け入れ体制が整っており、大きな混乱や摩擦もなくスムーズに彼らを受け入れられたことに驚いていましたが……バーリー卿から、これらが全て陛下の指示の下、海軍を動員して行われたものだと聞きました」
「そうね、間違ってないわ。彼らが十分な働きを見せたのは、海軍監督のホーキンズの教育が良かったからだけど」
実際、ホーキンズ率いる隊員達は、支援物資をちょろまかすなどの不正もなく、よく動いてくれた。
この不正がないというのが、正直モラルの低いこの時代の軍隊としては、感動的なくらい素晴らしかった。
先のパリで起こった虐殺で、イングランドの外交官が、国籍を問わず避難民を保護したことは、パリ市民の中にも広く知られることとなり、イングランド政府宛に、いくつかの謝辞の手紙が届いた。
ウォルシンガム個人宛てに届いているものは、きっと、もっと多いだろう。
「我が国は島国であるが故、元々大陸諸国に比べ、亡命者や難民の流入は多くない。その為、大陸の内輪揉めに巻き込まれずに、独自の立場を保ち続けられている利点はありますが、こういった不測の事態が起こった時に十分な対応をしきれず、犠牲を出しかねないことを憂慮しておりましたので、この度の陛下の栄配に感謝致します」
感謝されてしまった。
亡命者の受け入れはウォルシンガム側からの依頼でもあったが、彼も母国の受け入れ体制に関しては、不安が大きかったらしい。
だが、これについては厳密に言うと、私の手柄ではない。
「……本当はね、レイから、アンリとマルグリットの結婚をきっかけに、ユグノーの虐殺が起こるかもしれないって教えられたの。それに対して、私が出来る対策としては、事件が起こった時に避難民を受け入れることくらいだって、アドバイスしてくれたのはレイだから、そのお礼は、彼の分だと思ってもらっておくわ」
「あの男が?」
ウォルシンガムの声が厳しくなり、私は説明を加えた。
「ええと……私も、ちょっとは覚えてたんだけど……私達が知っているこの時代にも、似たような事件が起こったの。本当は止めたかったけど、私1人の力でどうこう出来るものじゃないって、レイに諭されて。それに、起こるかどうかも分からないものを事前に予見して対策を取ってしまうと、もしそれが外国に知られたら、余計な憶測を呼ぶと思って、ウォルシンガムにも伝えられなかったんだけど……」
「…………」
「ウォルシンガム? ごめんね、怒った?」
事件を予見していながら伝えられなかったことに負い目があり、見上げて謝ると、ウォルシンガムはいつも通りの冷静な顔で私を見下ろした。
「いえ、賢明な判断でしょう。第一、そのような妄言を受け取ったところで、私も対処に困ります」
「ハハッ、そうよね……やっぱり」
妄言扱いされてしまったが、彼らからすればそんなもんだろう。
まったく時期も違うし、こちらも『起こるかも知れない』以上のことは言えない中途半端な情報では、言われた方も動き辛くなるだけかもしれない。
なんとなく、レイの名前が出た途端、ウォルシンガムが不機嫌になった気がしたので、私は話題を変えた。
「ウォルシンガムがフランスに渡ってすぐに行幸に出たから、もう9ヶ月くらいはこの宮殿にいるのね」
少なくとも半年に1度は宮廷を移動させていたので、これは最長記録ではなかろうか。
女王が滞在する宮殿は、真っ先に上下水道を整え、出来るだけ清潔にするように心がけてはいるが、それでも約1500人が住むとなると、ゴミの量なども半端なく、あまり長く同じ場所に留まるのは不衛生だった。
「暖かくもなってくるし、そろそろ移動したいんだけど、実はもう結構手持ちが少ないのよね」
「陛下が頻繁に移動されている上、改修や清掃に時間を費やされるものですから」
「だって、実際に住んでみると色々不便だったり、気になったりするところが見つかるから、私が移動するついでに、いない間に綺麗にしといて欲しいじゃない」
とはいえ、思ったより時間がかかってしまい、現在移動できる宮殿がかなり限られているというのも事実だ。
「ウォルシンガム、どっかいいところある?」
「ロンドン塔がよろしいのでは。陛下は戴冠されてから1度も入城されておられませんが、いつ陛下をお迎えしてもいいように、居住地区の改修は済んでいます」
「ロンドン塔……」
意識して選択肢から外していた候補先を、ズバリ言われる。
確かに、私は戴冠後、1度もロンドン塔に足を踏み入れてない。居住区として候補から外していたし、拘留中のトマスに会いたいという希望も却下されていたからだ。
「ロンドンの中心に位置し、要塞として非常に強固な守りを持っておりますので、何かあった場合でも陛下をお守りしやすいという利点もあります」
ウォルシンガムの言う通り、利便性でも安全性でも使い勝手はいいのだが、私がロンドン塔に住みたくない理由はただ1つ。
――怖いから!
だってロンドン塔だよ! 血塗られた監獄だよ!
そりゃ、ずっと王様の居住区としても使われてたって、こっちに来てから知ったけど、ロンドン塔の血生臭い歴史を知れば知るほど、住みたくなくなるっていうね。
監獄に使われている塔と、国王の居住区は別の区画だけど、ちらほら幽霊が出るって話も聞くし、出来れば遠慮したい。
「怖いのですか」
「うぐっ。ど、どうしてそう思うのよっ?」
淡々と鋭いところをついてくる相手に聞き返す。
「以前、苦手なものにおばけを挙げられていましたので」
そんなこと言ったっけか。よく覚えてるな。
言った私の方が忘れている。
「後は、血を見るのがお嫌いだとも伺っておりましたので、先のパリでの流血の報告を差し上げるにあたって、どこまで克明にお伝えするかは、苦慮した部分ではありましたが」
あの報告で、そんなところまで気を遣われていたとはつゆ知らず、驚く。
「いいのよ、ありのままを伝えてくれて。それは単に私の弱さだから、そんなところまで煩わせられないわ」
「…………」
「私は、むしろクマさんが――」
あんな場所にいて、心に傷を負ってしまったのではないかと……
言いかけた言葉を飲み込む。この男も結構な強がりだし、あまりその辺を心配しすぎると、また男の矜持が~とか言われそうだ。
代わりに、私は相手の様子を伺うつもりで、1歩待って斜め後ろを歩いていた男の隣に並び、その顔を見上げた。
「……怖かった?」
「地獄のような場所でした。もう2度と行きたくない」
視線を落とし、答えたウォルシンガムに、私はハッキリと言った。
「大丈夫よ。もう2度と行かせることはないから」
それは、珍しく正直な弱音を吐いた彼への慰めの言葉であると同時に、私の決意表明でもあった。
もう2度と、私がこの男を手放すことはないだろう。
含みを持たせた言葉に、真意を問うように顔を上げた男に、私は告げた。
「――サー・フランシス・ウォルシンガム、あなたを枢密院委員及び外務大臣に任命します」
いつもと同じ午前の謁見の時間、国務大臣を連れて謁見の間へ踏み入れると、いつものように謁見を待ち望んでいた全員が膝を折り、国王に礼を取った。
――だが、私が玉座に座った途端、広間がざわめいた。
小さく言葉を交わし合う宮廷人たちの動揺を誘い、一身に注目を浴びたのは、私――ではない。
玉座に座る私の右手には、主席国務大臣兼国王第一秘書、バーリー卿ウィリアム・セシル。
ブロア条約の締結と、『聖パウロの使徒座の虐殺』で邦人とユグノーの救済に貢献した男は――私の左隣に立っていた。
第12章 完




