第201話 ブロア条約、締結
その後も、ウォルシンガムからは矢継ぎ早に報告が届き、安否の確認は出来たが、緊急帰国を命じたにも関わらず、すぐには帰ってこなかった。
フランスとの結婚交渉停止の旨を伝えた返信には、「すでにカトリーヌの同意を取り、事件により遠のいた結婚同盟に成り代わる対スペインを想定した互助同盟の実現に向け進んでいるため、現時点での交渉停止は得策ではないと判断する」との回答があった。
生意気にも、王命に反抗してきたのである。
こっちは心配してるっていうのに……!
だが、そこまで話が進んでいるのであれば、私も枢密院も、今交渉を取りやめてぽしゃるよりも、貴重な条約の調印を勝ち取ろうという方向に方針を変えた。
「ウォルシンガムからは、大使館で保護している邦人避難民や亡命希望者の受け入れを検討して欲しいとの要望がきています」
命令を断った上での支援要請という図太い行動に、私は息をつきつつも、すぐにセシルに応答した。
「すぐに、ウォルシンガムが大使館に受け入れている避難民のうち、希望者を募って帰国の手配をさせなさい。亡命者の受け入れについても貴下に全権を委任し、早急に人道的対応を実現するよう、政府も全力で助力すると伝えなさい」
ウォルシンガムが帰る気がないというのならば仕方がない。切り替えて、私は部下のフォローに回ることにした。
今は、押し問答で無為に時間を使う方がもったいない。
「どうせあいつのことだから、こっちの許可が出る前に動いてるんでしょう。すぐに委任状を書くから、最速で届けて。あと、すぐにジョン・ホーキンズをここに呼んで」
「かしこまりました」
検討して欲しいという殊勝な依頼ではあるが、実際のところ、あのウォルシンガムが政府の意向が出るまで動きを見せていないとは考えられないので、私は委任状を早馬に託すと同時に、以前から準備していた港の受け入れ体制を展開するため、海軍監督のホーキンズを呼び出した。
ドレイクも尊敬する船乗りだったジョン・ホーキンズだが、サン・ホアン・デ・ウルアの惨劇で負った怪我からの快復後は、海軍監督に登用している。
イングランド海軍はヘンリー7世、8世時代に拡張されたが、ヘンリー8世の無駄遣いと負け戦、その後の国庫の枯渇と、メアリー女王時代の負け戦と悪政と不景気と……まあ、そんな感じで色々あって、私が即位する前には、ほとんど壊滅状態にあった。
それこそ、今攻め込まれたら、まず負けるよね、というレベルで。
無力化した海軍を立て直すには、卓越した船乗りであるホーキンズの経験が役に立つだろう――という、ドレイクの推薦……という名の頼み込みを受けての起用だったが、これがなかなか出来る男で、ホーキンズは海軍監督に登用した途端、軍に蔓延していた汚職や不正を片っ端から摘発し、ダレまくっていたイングランドの弱小海軍を叩き直してくれた。
出世をかけた大航海を1発目からポシャり、スペインにも恨みタラタラな海の男は、どうやら、その怨念や不完全燃焼の野心を、抜擢されたポジションで結果を出すことに注いでくれたらしい。
私も、こういう人材は望むところだったので、ホーキンズとタッグを組んで一から軍律を見直し、信賞必罰を徹底させた。
軍部は、政治以上に女性に対して排他的で、王といえども女が口を挟んだら理屈関係なしに反感を買う組織だったので、なかなか手を出せなかったのだが、あくまでホーキンズに花を持たせ、私は陰でルール作りと最高権力をチラ見せ程度に活用すれば、アラ不思議、あっという間に規律正しい組織に早変わりした。
規模がさほど大きくなく、軍隊は利害や目的意識、上下関係がハッキリしているので、政界よりはルールを徹底しやすく、意識改革が簡単に出来たのだろうが、ここにはドレイクをも魅了したホーキンズの求心力も大きく働いただろう。
ドレイクからすれば、自分が再起のチャンスを与えられた分、深手を負って出遅れた身内が名誉を挽回する場所が欲しいという一心だったのだろうが、人材不足だった軍部では、見事にはまった形だ。
「例の作戦を展開したいの。すぐにポーツマス港に隊を配備して、避難民の受け入れ準備をしてもらえる?」
「入港者のおおよその人数が分かれば、すぐに受け入れ体勢を整えましょう」
隊員達に人命救助の意識付けが出来ているか不安だったが、ホーキンズは自信を持って応えた。
サン・バルテルミの虐殺が繰り返される可能性に気付いてから、私は密かにホーキンズを通じて事態に備え、円滑に避難民を受け入れられる体制作りを進めていた。
何の準備も整っていない状態で、いきなり大量の傷付いた人間を港に受け入れたら、確実に混乱が起こり、彼らの安全や街の治安も保証できないからだ。
戦争専門の組織であるイングランド海軍に、そんな救援活動に備えた訓練を受けさせるなど、ホーキンズにとっても青天の霹靂だったようだが、サン・ホアン・デ・ウルアの惨劇から帰還した船員達の救助が組織的に行えず、救える者も救えなかったことも交えて説得すると、意義を理解してくれた。
「人数は300人で見積もって。それが船の最大収容人数だから。我が国から救援物資を乗せた船を出港させ、それらをフランスの大使館に運び込む代わりに、避難民を乗せてポーツマス港へ戻らせます。取り急ぎ、救援物資を用意しますので、船積みの手配を。その際に不正が起こらないように徹底して」
「かしこまりました」
ホーキンズ率いるイングランド海軍の部隊をポーツマス港に動員し、私はフランスの英国大使館に向け、必要な支援物資を詰め込んで船を出航させた。
その際、フランス政府とカトリーヌ個人に向けて、可能な限り穏便な調子で、今回の凄惨で不幸な事件を嘆き、一刻も早く秩序と平和を取り戻すよう努力すること、とりわけ英国の外交官、在住英国人の身の安全には注意を払うことを切望し、うちの大使が大勢の避難民を受け入れてるみたいだから、取り急ぎ救援物資を送るけど怒らないでね! と事後承諾を取る手紙を書いておいた。
この対応をフランス政府がどう受け取るかは分からないが、国内の混乱で大わらわであろう彼らが、いちいち船一隻に取り合っている余裕はないだろう。
緊急事態なのだから、どさくさ紛れの事後承諾でも致し方なし。ついでに邦人の帰国希望者を募った船に、亡命者が混じっていても仕方なしということで。
そんなこんなで、国内でも国外でも忙しなく動きがある中、3月下旬、ようやく、1つの大きな目的が達せられた。
「長官からの報告です。先日、3月19日の午後に、無事条約の締結に至ったと」
「そう……これで任務完了ね」
執務室で聞いたディヴィソン君の報告に、私は、達成感と脱力感の入り交じった相槌を打った。
フランス政府と水面下で交渉を続けていたウォルシンガムは、英仏共戦同盟ともいうべきブロア条約を、聖ペトロの使徒座の日の虐殺後、1ヶ月と経たずにまとめてしまった。うむ、有言実行。
交渉のパイプ役には、カトリーヌが入った。
あの女傑の協力を取り付けるとは、さすがウォルシンガムである。
国内に孕む暗部をまざまざと見せつけられ、この上、スペインやイングランドに攻め込まれてはひとたまりもないと戦々恐々としていたフランス政府の重鎮らは、カトリーヌを通じ、イングランド側から持ちかけられたこの提案に、喜んで食いついたという。
ブロア条約は、相互の軍事的支援を約束したもので、どちらかの国がどこか外国に侵略された場合、もう一方の国が軍隊を出動させ助ける、というどこかの外国に明らかにスペインを想定した、言わばスペイン包囲網だ。
「フランスとイングランドが互助同盟を結び、イングランドとスペインは商業上の共益関係を復活させた――これで、3国が睨み合いながらも、互いに手を出しづらいバランスが保たれたわけですね。息が詰まりそうな関係ですが、これが外交……」
本当に息を詰めていたらしいハットンが、緊張の面持ちで大きく息を吐き出しながら、しみじみと呟く。
「そうね……聖ペトロの使徒座の虐殺で、フランドル侵攻を主張していたコリニー提督が死に、反対派だったカトリーヌが実権を奪い返した。スペインも、同じカトリック国家であるフランスとは、相手がユグノーを援助して領地を侵略してでもこない限りは、戦争は起こさないでしょう」
その上、ブロア条約でイングランドの加勢が約束されたとなれば、余計にスペインとしてはフランスに喧嘩を売るわけにはいかなくなる。
イングランドにとって、今回の条約は、スペインのイングランド侵攻への牽制だ。それと同時に、スペインとフランスが手を結ぶことを妨げる目的もある。
「……これで、また何か大きな問題でも発生しない限りは、しばらくはこの均衡を維持出来そう、という見通しは立った――と、言えるかしら。もちろん、いつ何が起こるかは分からないから、気を抜くわけにはいかないけれど」
扇子で口元を隠し、溜息混じりに答えた私に、ディヴィソン君がいやに明るい笑顔を見せた。
「これでようやく、長官を呼び戻せますね」
「嬉しそうね、ディヴィソン君」
「そりゃあもう! 長官が言うこと聞かず帰ってこないせいで、ここのところ、陛下の機嫌が悪くて悪くて……」
「うるさい」
「あうあぅ、ひゅみまひぇん……」
隣でいらんことを言うディヴィソン君のほっぺたをひっぱる。相変わらず、何故か嬉しそうな悲鳴を上げる男である。
「で、ウォルシンガムはいつ帰ってくるの?」
「ほ、報告では、無事条約の締結が果たせたので、翌日にはカトリーヌと公爵に挨拶をし、すぐにパリを発つと。今日が24日なので……早ければ明日明後日には戻ってこられるのでは?」
つねられて赤くなった頬をさすりつつ、ディヴィソン君が答えてくる。
「じゃあ明日ね」
「いや、それはどうでしょう。船の到着は天候でも左右されますし」
「追い風よ。私が言うんだから間違いない」
「はぁ、そう言われてみればそんな気もします……」
強引に帰国予定日を明日に設定した私に、ディヴィソン君が曖昧に追従してくる。
よし、明日帰ってきたら許してやる。