第200話 血の都パリにて
1563年3月2日。
フランス国王から直々に派遣された騎馬隊に囲まれ、サー・フランシス・ウォルシンガムは馬車を走らせて、ルーブル宮殿へと向かっていた。
市内の道は、始末の追いつかない死体が塞ぎ、かなりの遠回りを強いられた。
馬蹄と馬車の車輪の音に紛れ、またどこかで悲鳴が聞こえた。
「…………」
22日の明け方、フランスの王都で幕を開けた殺戮は、三日三晩続いた。
当日の昼近くには、あまりの惨劇に国王自ら殺戮の禁止令を出したが、耳を貸す者はなかった。
燻る興奮は未だ冷めず、残酷な暴力沙汰が続いてはいるが、この頃になると、大勢の近衛兵に護衛されている外国大使の馬車を襲うような輩は現れず、ウォルシンガムは無事に目的地へと辿り着いた。
惨劇からようやく8日が経過したその日、ウォルシンガムは事件後、初めてルーブル宮殿を訪れた。
すでに件の人物とはアポイントを取っており、宮殿に足を踏み入れたウォルシンガムは、出迎えた兵隊の無愛想な案内を受け、謁見に指定された場所へと赴いた。
ルーブル宮殿は、今までになくひっそりと静まり返っていた。
多くの外交官や宮廷人で賑わっていた廊下は、今や数名の召使いが歩く姿が見られるだけだ。そんな彼らも、胡散臭げな視線で、外国人を横目に通り過ぎていく。
市内と同様に殺戮の舞台となった宮殿は、さすがに死体は片付けられていたが、庭の土に染み込む悪臭と、床や壁に飛び散った血痕までは隠せなかった。
白と黄金で埋め尽くされた壁には、凄惨な赤い花が咲き乱れ、壊された石像までもが血を流しているようだったが、黒いまだら模様が広がる絨毯を踏みしめるウォルシンガムの思考は、それらに囚われることなく、これから挑む交渉へと向けられていた。
事件の報告を受けた女王とイングランド政府からの指示は、まだ届いていない。どのような判断が下されるかは分からないが、至急の帰国命令が届く可能性はあった。
だが、何も目的を果たさぬまま戻るわけにはいかない。
動くならば、今だ。
突き当たった奥の間を左に抜け、いくつかの広間を通り抜けた先に、目的の人物がいた。
案内人が立ち去った後、静かに待ち人へと近づく。
テーブルの傍らに佇み、何か物思いに耽るように下を向いていた喪服の女性は、ウォルシンガムが姿を見せると、スッと顔を上げた。
「異教徒の外国大使の中では、貴方が最初の訪問者です、サー・フランシス」
会談相手は、静かにそう告げた。
ただ事実を述べただけの言葉ではあったが、そこには、今回の事件で、身の危険を顧みず訪れた男への、言外の賞賛が混じっていた。
「左様でございますか」
ウォルシンガムは、特に感慨もなくその言葉を受け取った。
新任のドイツ特使を含め、幾人かのプロテスタントの外交官は、いまだ大使館で息を潜めているようだが、恐らくはローマ・カトリックの外交官達は、この事件を祝福するために、こぞってカトリーヌの元を訪れただろう。
シャルル国王とカトリーヌ、その他政府の重鎮達は、混乱が続く中、24日には市内の視察を行い、掠奪と殺戮の跡が生々しく残るパリを練り歩きながら、市民の歓呼を浴びた。
シャルル9世はいまや、カトリック教徒にとって、異端を排しカトリックを救った英雄だった。
「プロテスタントの貴方が、道中は恐ろしくなくて?」
恐ろしさよりは、血の凍るような憤りの方が勝ったが、それは、少なくともこの場では必要のない感情だった。
「私個人の感情は別として、宮廷に足を運ばなければ、我々の仕事は進みませんので」
当たり前の返答をし、ウォルシンガムは膝を折って遺憾の意を述べた。
「この度、この地で多くの無辜の血が流されたことを、深く遺憾に思います。このような残虐な行為は、良心のある者ならば誰もが戦き、深い罪の意識に揺さぶられることでしょう。我々は若き国王陛下が、生涯においてこの過ちに対する贖罪を得んとされ、最後の審判に臨み救われますことをお祈り申し上げます」
それは、このような大罪を犯した王は、過ちを認め悔い改めなければ地獄へ落ちるであろうという批難だっが、カトリーヌは冷めた眼差しで、余り口を開かずに答えた。
「陛下におきましては、教皇猊下より祝詞を賜り、神の御心に叶う大業を自らの治世に成し遂げたことを大変誇りに思っておられます」
果たしてそうだろうか。
あえて口には出さなかったが、カトリーヌの平坦な言葉の真偽を、ウォルシンガムは静かに疑った。
先日、18歳の虚弱な若者は、最高法院議員一同を前に、青白い顔のまま「自らが死刑執行者であり、己の渇きを癒さんが為に、この血の海が流されたのだ」と証言した。
この惨劇が偶然でも、思いつきによるものでもなく、王によって計画された異端の粛清であると明言したのだ。
それは、カトリック教徒にとっては王の輝かしい偉業を証明するものであったが、同時に、若い国王はこの残酷な行為が、全て自らの意思と責任によるものであると認めたことになる。
それは、この事件に対し、僅かでも良心の咎めを感じる人間であれば、耐え難いほどの業として、その身にのしかかるのではないか。
事実、その証言の後、気の違ったような哄笑を上げ続けた国王を重臣達が引き上げ、後に残った喪服姿のカトリーヌが、国王に代わって全議員の祝福を受けたという。
その後、シャルル9世が公に姿を現すことはなく、精神の安定を崩した国王は、カトリーヌによってルーブル宮殿のどこかの塔の上に押し込められているとも囁かれていた。
対照的に、今ウォルシンガムの目の前に立つ女性の顔は、起こってしまったことの大きさに戦くように青ざめてはいたが、重荷が取れたような晴れやかさを感じさせた。
ウォルシンガムは、事件の経緯を調べた結果、この惨劇――民衆の狂気じみた暴動事態が、彼女の仕掛けたものではないと予想していた。
そのきっかけ――コリニー提督の暗殺未遂事件は、もしかすれば彼女の指示によるものかもしれないが、そこから怒涛のように二転三転した状況は、大いに不測の事態を含み、ここまでの大規模な惨劇になることを予想出来た者はいなかったはずだ。
これほどまでに、群衆が残虐で醜悪な本性を見せ、収拾不可能なまでの凶暴な力を持ち得たことを知る支配者は――どこにもいなかったはずだ。
だが、一夜にして様々な思惑が巡り、結果として、彼女は勝ったのだ。
勝ち、そして彼女は国王の言葉を使って、その勝利を確定的なものとして、世に知らしめた。
我が子が正気を失おうとも、この女は冷厳と、国家の勝利を――王家の勝利を見据えている。
カトリーヌ・ド・メディシスは、女ではなく、支配者だった。
女を利用し、男を出し抜き、枯れ果て、孤独で、超越した存在。
女の持つ弱さや甘さ――そういった足手まといなもの全てを、色のついたドレスと共にかなぐり捨てたように、そこにいるのは、女の器に入った非情な支配者の魂だ。
廃墟のような虚ろさと、そこはかとない怖ろしさが同居する女の器を見据え、ウォルシンガムは、いつかの老いたドイツ特使の言葉を思い出していた。
女でもあって男でもある。
女の冷酷さと男の非情さ、女の狡猾さと男の野心を持ち合わせた生き物――両性具有者。
己が自らの君主に求めるものの先にあるのは、もしかしたら、このような存在なのではないか。
そんな思いが過ぎると同時に、ウォルシンガムは、揺るぎなくそこにあった信念が、蜃気楼のように揺らいだのを自覚した。
己が求める先にある、王としての彼女の理想像がこの怪物だとするならば、それは、本当に『己が求めているもの』なのか。
生まれた疑問と迷いを、ウォルシンガムはこの場では打ち消した。
今必要なのは、この怪物を相手取った詐術だ。リスクを取り、目的のものを得る。
「我が君は、この状況を静観することを決意しており、この事件を理由に、フランス王室と交渉を中止することは考えていないとのこと」
「ほぅ」
ウォルシンガムの繰り出した大胆な嘘に、カトリーヌは目を細め、小さく相槌を打った。
まだ、本国からは明確な指示は届いていない。ならば、ウォルシンガムがどのように動いても、現時点では命令違反になることはなかった。
……とはいえ、この面会に8日を待った理由は、自身の安全上の理由からというより、カトリーヌに女王の意向を信じさせるに足り、また、実際には報告を聞いた本国からの命令が間に合わないであろうギリギリの時間を計ったからだ。
細い針金で鍵穴をこじ開け、相手の真意を見通そうとするような灰色の眼差しを受け止め、ウォルシンガムは決して物怖じすることなく、相手を見返した。
カトリーヌが、1度、目を伏せた。
「――女王陛下が、我らの王家との友好を重視し、交渉を継続する意思を固められたことは、大変に喜ばしく、賢明なことでしょう」
平静を保ってはいるが、答えたカトリーヌの声には、安堵と喜びが混じっていた。
かかった――ウォルシンガムは確信した。
賢い獣が罠に掛かった。後は、慎重に網を狭めていく。
「……ただし、フランスがこのような状況では、プロテスタントの女王が嫁ぐことを、両国の国民が許しはしないだろう、とは予測されています」
それは、誰にとっても予測できるものだったが、カトリーヌが期待していたイングランドとの結婚同盟は、大きく実現から遠のいたと言っていい。
今この状況で、よりスペインの侵攻を警戒しなければならないのは、フランスの方だ。
フランドルの侵略に色気を見せていたフランスがこのような混乱に陥れば、フィリペ2世の気持ち1つで、更なる災厄をこの国にもたらすことも可能だろう。
実際、すでにスペイン側は、シャルル9世が表向きはスペインとの友好を謳いながら、国内で兵を準備し、フランドル侵略の指示を出していた証拠を掴んでいる。スペインがこの国に宣戦布告をするだけの名目は、十分にあった。
必要であればそのカードを切っても良かったが、そこまで追い詰めなくとも、この政治家は、今何をするべきかを、すでに知っているはずだ。
「敵に――」
カトリーヌが、その言葉を発した時――
「敵に備えねばなりません――互いに」
次の鍵が、開く音がした。
「敵とは?」
「さて、互いに多く持ち過ぎておりますのでしょう」
ウォルシンガムの反駁に、カトリーヌがいつかの言葉を借りてはぐらかす。
「誠に」
短く応え、その女の目を見る。
「どうぞ、お座りになって――サー・フランシス」
黒衣の女が、大理石のテーブルを指し示す。
ようやく着席を促されたウォルシンガムが、相手から目を逸らさぬまま席に着くと、カトリーヌもまた、ウォルシンガムの目を見たまま、向かいに腰を据えた。
互いに笑み1つ漏らさず、いくつかの条件を交わし合う。
「――では、そのように。明日にでも臨時会議を開き、提案しましょう。ええ、おそらくは……彼らにとっても喜ばしいものとなるでしょう」
「そのようにお伝え願えれば、我々にとっても良き実りが得られると信じております」
最後にそう言葉を交わし、互いに目を見合わせた後、ようやく、微かな笑みを交わした。
打算の上に成り立つ、共謀者の笑み。
そうして、ウォルシンガムは静かに、ルーブル宮殿を後にした。
1歩外に出れば、まだ春遠き冷えた風が、頬に吹き付ける。
これが夏であれば、日に日に増える死体の山が、より耐え難い悪臭を放っていたに違いなかった。
血の臭いを乗せた風が、悪夢のような現実をどこまでも運んでいく。
海を越え、遠い異国の地までも。
『殺せ! 殺せ!』
どこかで、そう叫び続ける少年王の哄笑が聞こえてくる気がした。