第199話 聖ペトロの使徒座の虐殺
1563年2月11日。
その日パリでは、フランス国王の妹マルグリットと、ナバラ王アンリの結婚式が、予定通りに執り行われた。
もちろん、イングランド大使であるウォルシンガムも参列したが、式には晴れ舞台の華やかさ以上に、物々しい緊張感が漂っていたという。
ナバラ王は、コンデ公、コリニー提督らプロテスタントの有力者と、彼らの護衛団に囲まれ、婚儀の場となったノートルダム寺院に到着した。
ウォルシンガムら招待客は、武装した射手や火縄銃手に先導されて、席に着いたらしい。
厳戒態勢の中、異例の異教結婚は滞りなく進められ、挙式後の数日間、パリでは盛大な祝祭儀式が執り行われた。
ここに晴れて、憎み合っていたカトリック教徒とユグノーの協調を象徴する婚姻が実現したのである。
それで終わっていれば、世紀の政略結婚は平和のうちに成功したと言えたのだが、その9日後、事態は急展開を見せることになる。
その最初の報は、ディヴィソン君からもたらされた。
パリから早文で秘密情報部に届けられた、ウォルシンガムの報告書には――コリニー提督の暗殺未遂事件が報じられていた。
「2月20日、コリニー提督は、ルーブル宮殿での議会の帰り道に、フォッセ・サン・ジェルマン通りで狙撃されました。目撃者の証言では、提督は偶然にも狙撃の瞬間、馬の手綱を調整しようとかがんだので、奇跡的に弾の狙いから外れ、指と左肘を負傷するに留まり、命を取り留めたそうです」
「…………」
執務机に向かったまま、私は固まった。
それは、どこかで聞いた話だった。
ならば、この先に待っているのは――
「犯人は……!?」
思い当たる節に、咄嗟に言葉もなくレイの話を思い出していた私の代わりに、一緒に報告を聞いていたハットンが問いかける。
「暗殺者は取り逃したものの、犯人は、コリニー提督を父の仇と憎み続けているギーズ公の手の者であろう、という憶測が広がっています」
「ギーズ公……?」
私の予想していた人物とは違う名前が出てきて、思わず聞き返す。
3年前のギーズ公フランソワの暗殺は、実行犯の証言により、もっぱらコリニー提督の画策であると信じられていた。
後を継いだ息子のギーズ公アンリも、例に漏れず提督を憎んでおり、「いつか殺してやる」と公言していたという話も聞いている。
確かに、真っ先に疑われる人物ではあった。
「このニュースは瞬く間に広がり、パリ中のユグノーが、療養中のコリニー提督の下に集まり、屋敷を取り囲んで護衛隊を形成していると――中には、ギーズ公の館に石を投げ、罵声を浴びせる者も出てきているようです」
すでに、事態はかなり殺伐とした方向に進んでいるらしい。
報告からも、パリの熱狂は十分に伝わってくるが、私はあえて冷静に、疑いを口にした。
「けれど、ギーズ公の仕業と、確定しているわけではないのでしょう?」
「調査は、明日にも政府の手で行われるだろう……というのが、報告の時点での長官の予想です。噂の真偽は置いておいても、ユグノー貴族らの怒りの鉾先が、ギーズ公に向かっているのは確かなようです」
「……今のパリには、ご結婚なされたナバル国王の護衛と祝福のために、多くのユグノー諸侯と、彼らの率いる軍が、武装して駐屯しているはずでは」
ハットンは、早くもその先の不穏な展開を予想するように、固い声で確認した。
「はい。婚儀のために集まった物々しいユグノーの武装集団は、それだけでも、カトリック教徒のパリ市民を怯えさせていました」
ディヴィソン君も、緊張した面持ちで頷くが、あくまで報告は私に向けて続けられた。
「パリでは、コリニー提督の暗殺未遂事件を受けて殺気立ったユグノー諸侯と兵士達が、ギーズ公やカトリック教徒に報復に出るのではないか、という噂が乱れ飛んでいます。カトリック、ユグノー両派の混乱で、パリは緊張状態に陥っていますが、その日のうちにシャルル9世は、カトリーヌを伴って、コリニー提督に面会したようです」
シャルル9世にとって、コリニー提督は父と慕う相手だ。
だが、カトリーヌは……どんな思いで、死に損なった政敵を見舞ったのだろう。
この暗殺未遂事件の黒幕は、カトリーヌだと言われている――とレイは話していたが、今、この世界での真実はどこにあるのだろう。
いかん。混乱している。
ディヴィソン君の報告と、レイから聞いたサン・バルテルミの虐殺の情報がグルグルと回り、なかなか整理がつかなかった。
「……ハットン、セシルを呼んで」
1度頭を冷やすため、私はディヴィソン君の報告を中断させ、ハットンにセシルを連れてくるよう命じた。
待つ間に、椅子に深く身を沈め、大きく息を吐く。
「今日は――24日……よね?」
「はい」
声に出して、ディヴィソン君に日付を確認する。
20日に起こった事件の情報が届いたのが、今日……24日。コリニー提督暗殺未遂事件から、すでに4日が経過している。
何が……何が起こっている。今、パリでは――
チラチラと脳裏に蘇る絵画の一場面が、私を脅迫してくる。
止められる流れではないと、レイは言っていた。起こるべくして起こった、16世紀最低最悪の悲劇だと。
やはり、歴史は繰り返すのか。
落ち着こうと深呼吸をするが、ふと、投げ出した右手が震えていたことに気付く。
「ウォルシンガム……」
白い手袋の上から左手で握り締めて抑え、私は呟いた。
そして、1563年2月22日。
聖ペトロの使徒座の祝日――
ついに、恐れていたそれは起こった。
「パリで……カトリック教徒による暴動――いえ、ユグノーの弾圧……いや、虐殺が始まっています!!」
急報から3日後の午前、青ざめたまま報告書を握り締め、枢密院会議の場に飛び込んできたディヴィソン君は、いくつか言葉を選んだ後、最終的に最もショッキングな単語によって、その事態を表現した。
「虐殺……?」
心当たりのある私の脳裏には、明確にある1枚の絵が映し出されていたが、その隣の席で、セシルは不穏な単語に眉を顰めた。
「虐殺だと……?」
同じく、その場に居合わせた枢密院委員たちもざわめき出す。
戸惑う政府の重鎮たちに向け、ディヴィソン君が読み上げた報告書は、22日の夜明け前から始まったとされる、パリ市内での凄惨な大虐殺の経緯と結果を、淡々と報じていた。
コリニー提督の暗殺未遂事件を受け、パリ中が疑心暗鬼と混乱に陥る中、暗殺未遂事件の翌日、フランス政府は、大きな決断を下した。
フランス政府内の動きは、宮廷内の情報提供者の断片的な情報を、ウォルシンガムの推測で繋ぎ合わせたものになるが――政府は、この混乱に乗じたユグノー諸侯らの陰謀を掴み、未然に反逆者らの粛清を決定した。
……ここでいう陰謀とは、シャルル9世を誘拐するとも、カトリーヌを殺害するとも言われていたが、真偽の程は定かではない。
証拠を掴んで裁判にかけるという常套手段ではなく、先手を打って殺しにかかるという決議がなされるというのは、その時点でのフランス政府の異常な恐慌ぶりがうかがえる。
シャルル9世はこの恐ろしい手段に尻込みしたというが、カトリーヌを初めとする強攻派の激しい説得についに折れ、最後には「殺せ! 皆殺しにしろ!」と狂気の発作のような王命を叫びながら、哄笑を上げ宮殿内を走り回る姿が目撃されていた。
そして、その王命は――忠実に実行された。
聖ペトロの使徒座の祝日、夜明け前の鐘の音と共に、殺戮が始まった。
屋敷で静養していたコリニー提督は惨殺され、彼の館に集っていたユグノー達は、1人残らず虐殺された。
その後も、ユグノーの家の戸を破っては異教徒を引きずり出し、切り刻み、セーヌ河へと投げ込む人間狩りが続き、パリでは、ウォルシンガムがその報告を書いた――事件から2日が経った時点でもなお、殺戮が繰り広げられているという。
「パリでは、女子供、妊婦までもユグノーというだけで残酷に殺され、セーヌ河に投げ込れています。正確な被害者数は、現時点でも測定不能。ただ、セーヌ川は血の色に染まり、広場には死骸の山が折り重なっていると。そして、これらを主導しているのは、いまや軍隊ではなく――市民です」
「…………」
耳を塞ぎたくなるようなディヴィソン君の報告に、私は耐え忍ぶような気持ちで目を閉じ、静かに続きを待った。
「瞬く間に広がった虐殺の熱狂は、パリのカトリック教徒達に、日頃の政府に対する不満や、ユグノーへの鬱憤を晴らす絶好の機会を与えた――と、長官は記しています」
「……どうして、そこまで出来るの……」
堪えきれず、吐き出した声が震えていた。
民衆による、民衆に対する虐殺。
信仰を笠に着た、一方的な殺戮。
それは、宗教の名を借りて政争を続けてきた人間達が煽り立てた民衆の、募り募った憎悪が、ついに政争の手を離れ爆発した瞬間だった。
「なんという恐ろしい……」
「主よ、愚かな者達を呪い給え……」
嫌悪すら覚える海の向こうの国の現状に、プロテスタント委員達を中心に怨嗟の声が湧く。
「このような国と、我が国は契りを結ぼうとしているというのか……!」
議卓にかじりつくように、歯ぎしりすらしながら呻いたノーサンプトン侯爵の顔には、抑えきれない憤怒が刻まれていた。
元より彼はアンジュー公との婚約交渉に反対していただけに、今回のユグノーへの屈辱的な仕打ちは、彼の逆鱗に触れたらしい。
「陛下、お分かりでしょう。これがあの国の実態です。あの国に我が国を乗っ取られれば、今度はテムズ河に、イングランド国民の血が流れることになりましょうぞ……!」
憎悪のこもった訴えは、恐ろしい報告に打ちのめされている委員達の心を揺さぶるものだったろう。ノーサンプトン侯爵に追従するように、いくつもの責めるような視線が私に刺さった。
「…………」
「陛下、お顔の色が……」
その間も、一言も発さない私を気遣い、セシルが心配そうに囁いた。
「いいえ」
報告を聞いただけで胸が悪くなったのは確かだが、私はセシルの心配を否定して、顔を上げた。
「ウォルシンガムは……ウォルシンガムは無事なの……?!」
ノーサンプトン侯爵の訴えはひとまず無視し、私はディヴィソン君に、1番気がかりだったことを聞いた。
「長官は、事件当日は宮廷ではなく、パリ郊外の大使館で過ごしており、混乱に巻き込まれることはなかったようです。外交官が被害を受け、外交問題に発展することを恐れたフランス政府の判断で、各国の大使館には武装部隊が派遣されており、直近に命の危険はないと、本人は報告しています」
「そう……」
その報告に、少し胸を撫で下ろす。
「現在は大使館に国籍、身分を問わず避難民を受け入れ、情報収集と、黒幕と疑われる人物の調査を行っているようです。後日、今回の件でカトリーヌ・ド・メディシスに謁見を申し入れ、遺憾の意を表明すると」
正直、あまりこの状況で出歩いて欲しくはないところだ。
イングランドがローマ・カトリックから脱退し、ウォルシンガムが強固なプロテスタントとして知られている以上、いつ狂信的なカトリック教徒に殺されもおかしくない。
「大虐殺の号令となった王命は、あまりの事態の拡大を受け、当日の昼前には早々に撤回され、真逆の虐殺禁止令が発布されたようです。この慌ただしい転換からも、シャルル9世の『皆殺し』命令は、精神薄弱な王のヒステリーによるものか、あるいは陰謀を企てたと思われる『反逆者達を皆殺しにしろ』という意味の命令を、受けた人間が拡大解釈をして、市民を先導した結果の惨劇であると、長官は分析しています」
「けど、虐殺はまだ続いているのよね……」
「はい。王による禁止令が発布されてもなお、それに従う者はなく、虐殺は非合法なものとして継続されています」
「…………」
「どうなさいますか? 陛下」
セシルが判断を促してくるが、考えるまでもない。
「すぐにウォルシンガムを呼び戻して」
あの男のことだから、全貌を解き明かすまで留まると言いかねないが、危険過ぎる。
いくら政府が外交官を保護しようとしても、判断力を失った群衆が大挙して乗り込んでくれば、ひとたまりもないではないか。
「捜査を打ち切ってでも、即時帰国するよう伝えて。これは女王命令です」
「陛下……」
もの言いたげなセシルの顔を見て、私は言葉を重ねた。
「今、ウォルシンガムは無条件で避難民を受け入れているのでしょう。この混乱の中で、イングランド大使の暗殺を狙う人間が紛れていてもおかしくないわ」
「……御意、そのようにウォルシンガムには伝えましょう」
私の命令を受けたセシルの反応からは、必ずしもそれがウォルシンガムの本意ではないだろう、という予想が、言外に滲んでいた。
それは私も分かっているが、軍人でもないのに、死ぬ危険を冒してまで、その場に留まって働け、などと言えるわけもない。
「現地の安全の確認が取れた後、新たに外交官を派遣し、邦人の保護と帰国希望者の受け入れを進めます」
「かしこまりました……それと、陛下」
セシルがもう1つ、おそらくこの場にいた全員の思いを代弁して、確認した。
「アンジュー公との婚約交渉の方は……」
「…………いったん、打ち切ります。この状況では、国民の悪感情も増すばかりでしょう。それに、この交渉はあの男でなければ、十分な役目を果たせない」
「おお……!」
私のこの判断は意外だったのか、ノーサンプトン侯爵が歓声を上げかけて自重した。
別に侯爵を喜ばせたかったわけではないが、プロテスタントの大虐殺を命じた王政府との結婚交渉など、とても続行出来るものではない。ただでさえ、フランスとの婚約話は、市民にも評判が悪い。
ウォルシンガムを派遣した本当の目的は、結婚交渉を隠れ蓑に、対スペイン同盟を結ぶことだったが、今はとにかく、あの男を本国に引き上げさせることが最優先だった。
怖い。
「ウォルシンガム……どうか、無事で……」
あの男の報告が、いつ訃報に代わってもおかしくない状況で、私は両手を組み、一刻も早い帰国を祈った。




