第198話 女王と医者
難しい立ち位置に頭を悩ませつつ、御膳の儀式を済ませた私は、ようやく仕事始めの執務についた。
お久しぶりの執務室では、先にハットンとディヴィソン君が年度末の報告書をまとめてくれていたのだが、その中に、面白い内容があった。
「ウール・ニットの靴下の需要が高まっている?」
「はい、ロンドン毛織物組合の算定では、国内での羊毛製品の需要が、例年の冬に比べこの3ヶ月で1.5倍近い伸びを見せているようです」
「それは、ウール・ニットの靴下だけで、それだけの需要を伸ばしてるってこと?」
「だけ、というわけではないでしょうが、ここ数年、国産の毛織物の国内需要は伸び悩んでいたので、かなりの部分を担っているのは確かかと」
私の質問に、傍らでハットンが報告書に目を走らせながら答えてくる。
「この秋の贅沢禁止法の規制緩和が大きな要因になっていると、ロンドン毛織物組合からの報告には上がっています。上流階級に限定されていた装いが解禁され、このスタイルを真似る市民が増えたところで、安価なウール・ニットの靴下が登場し、爆発的な流行となったようです」
「なるほどね……」
贅沢禁止法の規制緩和の効果が、意外なほど早く出た形だ。
この時代の貴族階級で広まっていた靴下――私も絹の靴下が履き心地が良いので気に入って使っている――を国産のウール・ニットで真似た物が、中産階級以下に大流行したのだ。
「現在は富裕層を中心に、ウール・ニットの靴下を買い求める者が急増し、需要に対し生産が追いつかない状態が続いているようです。ウール・ニットの靴下の生産力は、1人の編み工が週に1、2足作れば良い程度ものですから、職にあぶれていた者達が片っ端からこの靴下編みに従事し、短期間で相当数の雇用が捻出されたようです」
「いい話じゃない。どこまで伸びるかは予測できないけど、ロンドン発の流行は地方まで広がっていくし、今はまだ高級品でも、生産数が増えれば廉価して一層広い層の需要も満たせることになるわ」
規制緩和による市場回復の先駆けとしては、これ以上ない幸先の良さを見せてくれた。毛織物産業は我が国の柱であるため、この産業が活気づけば、国全体の景気回復にも繋がっていく。
それに、こういった前例が出来れば、他の産業にも新市場に興味を持ち始める人間が出てきて、今後新たなビジネスが生まれる可能性もあった。
「陛下はこうなることを予測されていたのですか?」
その報告に、ご機嫌で相槌を打った私に、ハットンが尊敬の眼差しを向けてくる。
真っ直ぐでキラキラした目に、私はちょっと首を傾げ、苦笑して答えた。
「さすがに靴下がヒットするとまでは分からなかったけど……消費意欲を抑圧する規制を緩和すれば、何かしら新しいビジネスを作り出す人間はいるだろう、っていう予想というか……期待はしてたわね」
より上の社会層のファッションをいち早く真似ようとするこの衝動は、周囲に自分をよりよく見せ、隣人に差をつけたいという、身分制社会に抑圧され続けている人々の欲求の発露だ。
需要を生み出すのは――傲慢や羨望 、虚栄心。
この時代の人間が、悪徳とするもの、そのものなのかもしれない。
※
前年の各業界、各組織の報告を聞くことに終始した初日の執務を終えた私は、夕方には女王の寝室に戻っていた。
ソファでアンと一緒にフランシスを可愛がりながら過ごしていると、いつものように、ふらりとレイが部屋に訪れた。
「レイ!」
その姿を見て、アンが嬉しそうに駆け寄る。
「見て。できたの、冬休みの宿題」
「おー、出来たか。難しかったか?」
「最後の問題がむずかしかった!」
「だろうな」
冬休みの宿題? そんなものを出してたのか。
「エリ、テーブル借りるぞ」
「うん」
アンの提出した宿題を見るために、奥のテーブルに座るレイを眺める。
いつの間にかアンの数学の家庭教師ポジに収まっているレイの様子は、いつも通りだ。
昼間のことを諫めようかとも思ったが、またへそ曲げられてもな……
アンの前で喧嘩とかは避けたい。
「ねぇ、レイ。昼間、ロバートが随分怯えてたけど、占いって何を言ったの?」
代わりに、宿題に向き合っている背中に向かって、日本語で質問をする。
「占いっつーか、まぁ……」
テーブルに向かったまま、レイが答えた。
「俺の知ってるあの男の末路を、ちょっと匂わしてみただけなんだが……あそこまで本気にされるとは思わなかった」
「末路?」
「ロバート・ダドリーは1588年、アルマダの開戦の直後に、55歳で急死してる。恐らく胃がんだったと言われてる」
「……!」
はっきりとそう言われて、一瞬胸が詰まった。
なんかあんまり、知りたくなかったような……
「……そうか。レイは、誰がいつ死ぬかも知ってるのよね」
膝の上のフランシスの頭を撫でながら、動揺を抑え、私は言った。
大丈夫。この世界のロバートも、そうなると決まってるわけじゃない。
自分に言い聞かせながら、私は思いきって聞いてみることにした。
「エリザベスも……エリザベスは結構長生きするのよね、確か」
「エリザベスが死ぬのは1603年、68歳の時だ」
レイはあっさりと教えてくれた。
「そっか……あと40年……長いわね」
その年月を数え、のしかかってくる重みに足を踏ん張る。
あと40年。私は女王で在り続けるのか……在り続けることが出来るのか。
「言っとくけど、もうあてになんねーぞ」
「分かってるわよ。天然痘にもかからなかったし、もう歴史は変わり出してるから」
ただ、それだけの長い歳月を、女王として統治したエリザベス1世の生涯は、目標にしなきゃだけど。
「おっし、全問正解。やるなお前」
「へへっ」
レイに誉められ、アンは鼻高々だ。
意外にレイって、ちゃんと誉めるんだよな。子ども嫌いって言ってたけど、アンには優しいし。
「よし、じゃあ帰るわ」
「え、もう?」
「用事終わったし」
どうやら、今日はアンの宿題を見に来ただけらしい。真面目に先生をしている。
「それに、どうもあんまり歓迎されてないみたいだからな」
「え……?」
付け足したレイの視線の先を追うと、すでに扉の前にはキャットが立っていた。
「お帰りなのでしょう、ドクター・バーコット」
扉を開け、さっさと帰れと言わんばかりに促すキャットの表情は硬い。
やっぱり、昼間のレイの態度は心証が悪かったか。
肩をすくめ、白衣を翻してレイが出て行くと、キャットも退室して扉を閉めてしまった。
「レイも、もう少し上手く立ち回ってくれたらいいのに……ねぇ、フランシス」
溜息混じりに膝の猫に語りかけると、黒猫は興味なさそうな目で私を見返しただけだった。
※※※
「ドクター・バーコット、1つ忠告があります」
女王の寝室の扉を閉めたキャットは、大股に去っていこうとするバーコットを呼び止めた。
筆頭女官として、女王の意向を最大限汲み、彼女のプライベートを守ることは大切な任務だったが、同時に、女王の私生活において、彼女の名誉を脅かすリスクを排除することもまた、大事な使命だった。
「あの方は女王です」
この男の、女王への礼節に欠けた言動は、個人として接する分には、大衆の目がない限りは許すというのが女王の意向だったが、昼間のような増長した態度は、看過できない。
「そしてあなたは、陛下の思し召しにより宮廷に召された、一介の卑しき医者の身分でしかありえないということ」
女王の上に立つことが出来るのは、神と、彼女の夫となる男だけだ。
「あなたが何者であれ、あの方と特別な記憶を共有していようとも、今この世界での身分の隔たりを、決してお忘れなきよう」
ハッキリと分を弁えろと伝えたキャットに、振り返ったバーコットは、美しい顔に挑発的な笑みを浮かべ、答えた。
「んなの、女王が決めることだろう」
「…………」
睨みつけたキャットに、これが若い女性ならば――どこか危うい空気のある異性に惹かれてしまう年頃の娘ならば――つい囚われてしまいそうな謎めいた微笑を残し、ドクター・バーコットは、白い衣を翻して去っていった。
2015.3.17活動報告に、【おまけ小話】ヒツジさんのやぼう。 を掲載しました。