第194話 クリスマスは踊りましょう
クリスマスを目前にした12月中旬、1つ、イングランドにとって良い報せが入った。
3年前の宝物船漂着事件以降、締め出しを喰らっていたイングランド商船のアントワープ港への入港が、ようやく可能になったのだ。
それは、悪化の一途を辿っていた両国の関係に歯止めをかける、小休止のようなものだった。
「おめでとう! よくやったわ。あなたの努力と成果を心から喜びます、私の精霊」
「身に余るお言葉です、陛下」
私室で聞いたその朗報に、私は国の代表として、手放しにセシルの功績を称えた。
スペインとの交易回復については、かねてから彼に一任していた。途中、デ・スペや宮廷内の対立派閥に妨害されたりもして苦労していたが、絶望的な状況から活路を見出したのはさすがである。
解決の糸口となったのは、フランスとスペインの関係だ。
どうやら、昨今巷を賑わしているフランス王室のユグノーとの異教結婚や、シャルル9世がスペインに対して繰り返している挑発行為のせいで、フランスとスペインの関係が急速に緊張しているらしい。
「英仏間で結婚交渉が続いている今、スペイン側も商業取引上の繋がりを復活させることで、イングランドを抑えておく必要がある、と判断したということでいいかしら?」
「はい、それともう1つ。スペイン側が、シャルル9世によるフランドル侵攻計画の証拠を掴んでいる――との情報を、ウォルシンガムが入手しました」
フランドルはネーデルラントの南部地域で、フィリペ2世の領土だ。
「それは、前にウォルシンガムから報告のあった、コリニー提督の?」
「はい。すでにシャルル9世主導のもと、コリニー提督が実質的な指揮官として、フランドルに向け兵を動員しています。このままでは、開戦も時間の問題かと」
シャルル9世の寵を得てフランス宮廷に返り咲いたコリニー提督が、自国の領土拡大を謡い、フランドルのユグノーの反乱を援助して、一気呵成にスペインからこの地を奪い取ろうと呼びかけている――という話は、以前にも聞いていた。
セシルの言葉では、かなり事態は進展しているらしい。
スペインが、この侵攻計画の証拠を掴んでいるとまでなれば、事態はまさに一触即発。いつどちらから宣戦布告をしてもおかしくはない。
「でも、スペインを挑発、という無謀な行動が、現実主義のカトリーヌの意思によるものとも思えないのだけど」
「全てはシャルル9世が、コリニー提督に説得された上での判断のようです。カトリーヌは反対に回っていましたが、いまやシャルル9世を支配しているのはコリニー提督で、フランドルを奪い取ることで、フランスがスペインに代わってカトリックの盟主となる、といった提督の主張に、王は心酔しているようです」
「なるほどね……」
スペインを下して領土を拡大し、自らがカトリックの盟主になる――などという大言壮語な戦争主義は、いかにも名誉欲の強い少年の心をくすぐりそうだ。
実際のところ、コリニー提督の真意がどこにあるかは量りきれない。熱狂的なユグノーである彼にとっては、若い国王に耳心地の良い理想を吹き込み、フランドルのユグノーを支援させること自体に意味があるとも考えられた。
……もちろん、これらはフランス政府内で極秘裏に進められている内容で、シャルル9世もカトリーヌも、表向きはスペインとの平和的な友好を謡っている。
イングランドに筒抜けなのは、英国随一のスパイが宮廷に潜り込んでいるからだ。
「スペインがこのタイミングで、イングランドと商業上の同盟を結ぶことは、フランスにイングランドの加勢を諦めさせ、無謀な戦争への警鐘を鳴らす意図があります」
毛織物輸出の大部分を担っていたアントワープ港の復活は、貿易赤字に悩むイングランドにとっては大きい。この商業上の利益を投げ打ってまで、フランスの無謀な侵略戦争に加勢する利はイングランドにはなく、またフランス側も、イングランドがそういった判断を取ると予想するだろう。
――と、そのようにスペイン側に考えさせ、イングランドに歩み寄る姿勢を見せるよう仕向けたのは、交渉担当であった英国宰相の手腕であろう。
これには、事前に有力な機密情報を入手し、絶妙なタイミングでカードを切れたことも大きい。
刻一刻と変化し続ける国際情勢の中で、張り詰めた糸の上を歩くような外交を巧みに乗り切るには、広範で正確な情報網と、それらを有効に活用できる視野と判断力が必要だ。
「相変わらずよく出来たコンビよね……」
よくよく華麗な連係プレイを見せるウォルシンガムとセシルに感心する。
「ともかく、年の終わりに良い報せが聞けて良かったわ。もうすぐクリスマスね~」
「はい。陛下も、この時期くらいはリフレッシュされては」
おや。セシルから『リフレッシュ』という言葉が出たよ。
私の体調不良がストレスと過労からくるものであるという、レイの診断を一応は信じてくれているらしい。
報告が一区切り付いて雑談に移ったところで、私はふと気になっていたことを聞いた。
「今年のクリスマスはどんな感じになるのかしら。ロバートが何か企んでいるみたいなんだけど、教えてくれなくて。セシル、何か知ってる?」
「いいえ、特には聞いておりません。行事の演出に関しては、全て守馬頭に一任しておりますので」
「そっかー……そういえば、最近ハットンも忙しそうなのよね。あんまりサロンにも来てくれないし……もしかしてだけど、彼女でも出来たのかしら」
「そのようなことはないと思いますが……」
「っていうか、ハットンに限らず、オックスフォード伯爵とか、サロンの常連だった人達も急に、軒並み足が遠のいちゃって……なんか変な噂でも出回ってたりする?」
「最近は、特に注意すべきような噂は耳に入っておりません。12月ですので、皆忙しいのでは」
「ふーん……」
釈然としないまま相槌を返すと、セシルが慌ただしい様子で礼を取った。
「陛下、恐れ入りますが私も仕事が残っておりますので、御前を失礼させて頂きます」
「あ、ごめんなさい。引き止めちゃって。お仕事頑張ってね」
快くセシルを送り出し、その後ろ姿を見送る。
「ん……?」
話している時は気付かなかったが、いつもは床を滑るように歩くセシルが、今日は少しフラフラしていた。
歩く速度も、いつも以上に遅い。
……お疲れ?
そんな、変化と言うほどでもない変化に微妙な違和感を感じてはいたのだが、私も私でバタバタしていたのであまり気にせずにいると、あっという間に日は経ち、今年もまたクリスマスシーズンが訪れた。
イブの早朝から身を清め、正装をまとって教会でお祈りを捧げた私は、慣例通りの儀式をこなした後、日没からの降誕祭に参加した。
今夜は一般市民にも城の門戸を開き、食事を提供するのが慣わしだ。
評判の悪かったメアリー女王の治世の後半は、めっきり人足も遠のいていたそうだが、私が即位して以降、年々来場者が増え続け、ついに去年は会場から溢れるほどになったため、今年は更に広い場所に移った。
会場の配置も例年とは変わり、女王の天蓋の両脇に大きなキャンプファイアーが2つ。正面には広いスペースが取られ、広場を貫いた正面奥には、無数のランプが飾られた巨大なクリスマスツリーがそびえていた。
広場には背の高い燭台が等間隔で並んでおり、間に頑丈なロープが張られて、ぐるりとパーティ会場を取り囲んでいた。これより中のスペースには、許可を得た人間――主に宮廷の人間と、その親類縁者しか入れないようになっている。
まだ灯の入っていない燭台の下には、近衛兵が1人ずつ直立し、ロープの外側に群がる民衆を監視していた。
市民からすれば、滅多に見ることの出来ない宮廷人たちの、セレブな宴を観賞できる、またとない催しだ。
なぜか今のところ、広場を囲む燭台には松明が挿されていなかったが、無数のランプを飾られたツリーの光と、天蓋の両脇のキャンプファイヤーの明かりで、薄暗いなりに雰囲気のある宴が進行していた。
今回、初めてクリスマスをイングランド宮廷で過ごすレイは、一応侍医という立場なので、何かあった時のために、女王の天蓋の斜め後方に席を作って控えている。
だが、仮面劇や宮廷音楽にはとんと興味がないらしく、次々と会場で催されるイベントを前に、席で足を組んだまま何度もあくびをしていた。
私は一段高くなっている天蓋の下で、ドレスの上に毛皮のマントを羽織っていたのだが、両脇に大きな焚き火が燃えさかっていると暑いほどで、途中でマントを脱ぎ、膝にかけてソファに腰掛けていた。
そんな私の隣には、今はハットンが話し相手として座っている。
揺らめく炎に照らされる幻想的な仮面劇を観賞していると、演目の終わりに、隣にいたハットンが茶目っ気のある笑顔で私に囁いた。
「実は、陛下にプレゼントがあるんです」
「プレゼント?」
そんな話は聞いていなかったので、首をかしげて聞き返す。
劇を終えた演者に拍手を送る私の隣を立ち、ハットンが何やら合図を送ると、退場した演者たちと入れ替わるように、十人弱の男女が進み出てきた。
メンバーは、グレート・レディーズと、サロンをよく出入りする貴族たち、そしてロバートだ。
女性たちは、いつの間にか深紅の揃いのドレスに着替えている。
おやおや?
不思議な気持ちで眺めていると、中央に1人の女性――イザベラが進み出た。
スッと腕を上げた先……彼女の手には、パリージョが。
――タンタカタタンタンッ タンタカタタンタンッ
イザベラが高らかとパリージョを鳴らし、リズムを取り始めた途端、会場を囲む燭台に、一斉に松明が点火された。
薄暗かった会場を一転して、昼のような明るさと暖かさが包む。
同時に、聖なる夜の厳かなイメージに不似合いな、陽気なフラメンコの音楽が流れ出した。
会場をロープの外側から取り囲んでいた市民から、何事かとどよめきが起こる。
私も同様に驚き、サプライズのフラメンコか、と喜んでいたのだが……次に起こった光景は、私も全く予想していなかった、更なるサプライズだった。
広場に集まっていた宮廷人たちが、踊り手たちを観賞するのかと思いきや、彼らと同様ペアになって、曲に合わせて踊り出したのだ!
何これ! なにこれ!
一気に賑やかになった会場で、驚きのあまり立ち上がってしまう。
途中で、ハットンと入れ替わりでダンスを抜けたロバートが、私のすぐ隣に寄り添ってきた。
賑やかな音楽に掻き消されないよう、耳元で伝えてくる。
「陛下! いかがです。みな、この日のために、貴女のために練習を積んできたのです」
「すごい、すごいロバート! とっても素敵なプレゼント! みんなこっそり練習してたの? 全然気付かなかった」
クリントン海軍卿やノーサンプトン侯爵を始め、結構年配のおじ様達まで、独特の早いステップをマスターしている。誰がいるか好奇心で目を走らせていると、会場の端っこで、最高齢貴族院議員のウィンチェスター候までよぼよぼと参加しようとしていたが、さすがに侍女に止められていた。
貴族や官吏だけかと思ったが、よく見ると、踊りがよく分からないらしい馬番や台所下働きの少年、お針子なんかの召使いたちも、曲に合わせて飛んだり回ったりしながら参加している。
それどころか、最初はわけの分からない様子だった市民らも、早々に盛り上がり、会場の外側でむちゃくちゃに踊って騒いでいた。大宴会だ。
「あははっ!」
その光景に、思わず大笑いしてしまった私に、ロバートが誇らしげに言ってきた。
「今年はバーリー卿に頼まれたのがギリギリだったので、この程度の企画しか出来ませんでしたが、来年はもっと陛下を喜ばせられるよう、新しい企画を考えています」
「セシルが?」
「ええ。お疲れのご様子の陛下を、何かリフレッシュさせられる企画はないかと相談を受けまして」
「じゃあ、セシルもこの中に?」
思わず首を長くして視線を巡らせる。
見たい見たい! フラメンコ踊るセシル見たい!
「バーリー卿の方は、かなりステップに苦戦していたので、どこか隅の目立たないところで踊っていると思いますよ」
「どこどこ? 見たい!」
「そうおっしゃるとは思いましたが」
飛び跳ねてセシルを探す私の腕を掴み、ロバートが笑った。
「実はバーリー卿には、踊る交換条件として、自分が見つからないように陛下を捕まえておけと頼まれています」
「何それー!」
「練習に付き合いましたが、まぁ、あれでは気持ちも分かる。我らが宰相殿はほぼ全てのことにおいて完璧だが、ダンスの才能にだけは恵まれなかったらしい」
言いながら、ロバートが思い出したように笑いを堪える。そんなに酷かったのか。
ちょっぴり不満だが、人混みに紛れて踊るのがセシルのギリギリの妥協だったのだろう。そう思うと、無理に見つけてやるのも気の毒だ。
「んじゃあ、後でお礼だけ言っとこ」
「それがよろしいかと」
ロバートはあっさりと頷くと、話を変えた。
「さて、一応バーリー卿の顔は立てたので、あの男のことはもういいでしょう。さあ陛下、覚悟して下さい。これから公現祭までの12日間は、息をつく間もない大騒ぎです。心を曇らせる暇などないくらいに」
「ええっ? これからクリスマスの間ずっと?!」
ものすごい冬休みだ。
そんな話をしている間に、曲が終わり、私とロバートは惜しみない拍手を踊り手たちに送った。互いを称え合うような万雷の拍手が場を埋め尽くし、皆が爽やかな笑顔を見せる。
冬の寒さを吹き飛ばす熱気に、身も心も温かくなった。
今だけは、日常の立場を越えた一体感を見せる会場で、私も笑顔で拍手を送り続けながら、ロバートに聞いた。
「でも、いいのかしら? この時代は、クリスマスは厳粛に過ごした方がいいって考えじゃないの?」
「この宮廷は陛下のものであり、陛下が国教会の最高統治者です。していけないこと、というものはありません」
そう言われてしまえばそうなのかもしれないけども。一応、外聞とかスタンダードとかもあるんじゃなかろうかと思っていると、ロバートが補足した。
「実際、クリスマスは厳粛に過ごすべきであるという最近の風潮は、ピューリタンの啓蒙運動から端を発したもので、エドワード6世の頃から徐々に浸透してきましたが、ヘンリー8世がご存命の頃には、毎年、12日間祝宴を挙げて踊り狂うのが慣例でした」
それはそれで、激しすぎるので遠慮したいかもしれない。
「陛下がクリスマスを楽しく過ごされたいとご所望であれば、そのようにされるのがよろしいでしょう。これから12日間、夜を明かして宴を催す用意は整っています。勿論、陛下がクリスマスをロマンティックに過ごされたいとお望みならば、このロバート、別のプランも用意していますが」
「別のプラン?」
「このロバートと2人きりで、愛を育むための素晴らしいプランです。実はこちらの方が自信があります。必ずご満足頂けるかと」
「ちょっ……」
言うや、急に腰を引き寄せてきたロバートが、手首に口づけてくる。いきなり距離の近くなった鳶色の瞳が、悪戯っぽく笑った。
「どちらになさいますか?」
「二択なの!?」
「特にご希望がない場合は、自動的に後者のプランに……」
「楽しく過ごしたいです!」
ほとんど反射的に即答すると、ロバートが堪えきれないように笑いを漏らした。
「残念、です」
これはもしやハメられた!?
回答を誘導された気がして、今日はやたらと余裕を見せるロバートを睨み上げるが、ちょうど彼は私に背を向けたところで、会場に集った人々に向かって声を張り上げた。
「皆の者、陛下のご意向により、本日から公現祭までの12日間、夜も昼もなく祝宴を挙げ踊り明かすことになった!」
おおーっ! と会場が盛り上がる。お祭り騒ぎ決定だ。
本当に12日間やるんだろうか、とハラハラしながら見守っていると、軽く背中を叩かれた。レイだ。
「部屋に戻る。何かあったら呼べ」
私の返事も待たず、さっさと踵を返して行ってしまう。相当退屈していたらしい。
「女王陛下の素晴らしき御代を讃え、最高の君主にお仕えできる栄誉を喜ぼうではないか!」
ロバートの呼びかけに、再び皆が威勢良く応え、空気を読んだ楽団が盛大な音楽をかき鳴らす。
その音楽と熱気に胸を打たれて、こんな場だというのに、喉の奥が熱くなった。
込み上げてきた熱を飲み込み、顔を上げると、夜空に堂々とそそり立つ、大きなツリーが目に入った。
たくさんのランプの明かりの輪郭が、ぼんやりと溶けて見える。視界いっぱいに白い光が広がって、眩しい。
「女王陛下万歳!」
広い会場のあちこちから声が上がり、やがてそれが1つにまとまって、聖なる夜にこだまする。
「――陛下、皆が貴女の笑顔を待っています」
恭しく膝をつくロバートに促され、私は盛り上がる彼らの前に進み出て、会場を見下ろした。
潤んだ目をまたたきして乾かすと、星明かりすら霞む明るい会場で、私を見上げる数多の顔が、はっきりと見えた。
言葉よりも先に、今この場の一体感を大切にしたくて、私はロバートに言われた通り、両手を広げ、彼らにとびきりの笑顔を向けた。たくさんの感謝を込めて。
『女王陛下万歳!』
こんなにたくさんの人たちに愛されて、私は幸せ者だ。