第193話 サン・バルテルミの虐殺とは
ドクター・バーコットの部屋は、女王の寝室と同じ階に与えている。
私に何かあった時にすぐに駆けつけられるように、というのが表向きの理由だが、他にも、こういう時に相談しやすいようにとか、心配なので目の届きやすいところに置いておきたいとかいう理由もあったりする。
寝室を出た私は、急いでレイの部屋に向かった。
「レイー!!」
「うおっ!?」
おざなりにノックをしてドアを開けると、部屋の主は、客用の大きなベッドの中央であぐらをかいていた。
ちょうど風呂上がりだったのか、上半身裸で、パイル地タオルをかぶり髪を拭いているところだった。
そういえば、風呂に入ると言っていたことを忘れていた。
とりあえず、下は履いていたのでセーフ。
それどころではない。
「おまっ、女王がいきなり男の部屋に突撃してくるかっ?」
タオルを頭に乗せたまま顔を上げた男が、1度も女王扱いなどしたことないくせにそんなことを言ってくる。
「そんなのどうでもいいのよ。それより、今すぐ教えて欲しいことがあるの」
さすがに全裸だったらごめんなさいするところだが、上半身裸くらいなら弟で見慣れている。
遠慮なく部屋に入ると、私はベッドに飛び乗り、目の前の相手を見据えて早口に捲し立てた。
「ナバル王アンリとマルグリットよ。確かこの2人の結婚式の日に、サン・バルテルミの虐殺が起こったのよね?」
「何なんだいきなり……正確には式の当日じゃなくて、7日後、だな」
細かい。いや、大事なことか。
やっぱり微妙に記憶違いをしていたが、私はそのまま続けた。
「あれはいつ起こったの? きっかけは何だったのかしら? 首謀者は? 起こった理由は――」
「おいちょっと待て、落ち着け。どうしてそんな話になる」
先走る私をレイが止めてくる。ああそうだった、まずこちらの状況を話さねば。
自分が焦っていることに気付き、気を静めるつもりで深呼吸をした後、私は単刀直入に事実を伝えた。
「ついさっき、この2人の婚約報告が入ったの」
「マジでか……? 式の日取りは?」
案の定、レイの表情が硬くなる。
「来年の2月11日」
「4ヶ月後か……早いな」
「フランス国内でも反対が起こるのは必至だし、急いでいるんだと思う」
プロテスタントの有力貴族との結婚は、フランス国民の反感を買うことが容易に予想できた。
極力水面下で話を推し進め、正式に決定してからは早々と式の準備を進めるというのは、カトリーヌのやり口としては妥当な線に思えた。
「なるほどな……カトリーヌの他の兄弟の生まれる順番が入れ替わっているように、マルグリットも、俺の知っている史実よりも5年早く生まれている。政略結婚の駒として十分使える年齢だから、早期に戦争を終結させようとして、カトリーヌも打って出たんだろう」
「ねぇ、レイ。やっぱり……サン・バルテルミ……」
恐る恐る問いかけた私に、片膝を立てたレイは、親指で唇をなぞった後、慎重な調子で答えた。
「……サン・バルテルミの虐殺が起こったのは、1572年8月24日だ。聖バルテルミーの祝日に起こった事件だから、そう呼ばれている」
「10年近く早い……しかも、日も全然違うし……なら、今回は起こらない可能性の方が高いかしら」
「どうかな。そればっかりは、何とも言えない」
私の希望的観測には、レイは曖昧に返すに留めた。
「にしてもお前、よく覚えてたな、サン・バルテルミの虐殺。えらいえらい」
先生のような口調で褒められるが、喜んでいる場合ではない。
「どうしよう……」
「おい?」
「ウォルシンガムが……」
青ざめた私の様子に、レイが覗き込んでくる。
「ウォルシンガムがどうした? 今、フランスにいるんだろう」
「ウォルシンガムを呼び戻さないと……! もし、虐殺に巻き込まれたりしたら……!」
「おい、落ち着け。さすがに、外国大使は政府も保護するだろう」
「そんなの当てにならない! どさくさに紛れて殺されるかもしれない!」
「だから、起こるかどうかは分からないだろ」
「起こってからじゃ遅い!」
食ってかかる私の両肩に手を置き、先回りしたレイが溜息混じりに釘を差した。
「フランス大使を呼び戻すだ戻さないだの人事はお前の勝手だが、サン・バルテルミの虐殺を止めようなんて無茶なことは考えるなよ」
「……何か、私に出来ることは」
「ないな。一説では、あの虐殺自体が、カトリーヌかシャルル9世の陰謀とも言われているが、真相はともかく、数千、数万の人間の狂気が起こした悲劇だ。部外者1人がどうこうできるようなもんじゃない」
「…………」
にべもない返答に、それでも諦めきれないでいると、レイは更に詳しく説明した。
「サン・バルテルミの虐殺が起こったきっかけは、宮廷に復帰したコリニー提督の暗殺未遂事件だ」
「コリニー提督の?」
先のユグノー戦争で、ユグノー派の中心人物として戦ったコリニー提督は、ロジュモーの和議で戦争が終結した後、宮廷に戻ることが許された。
情熱的な紳士――とは、フランス宮廷で直に彼を見たウォルシンガムの表現だが、コリニーは、熱心なユグノーであったが、その魅力的な人柄でたちまちにシャルル9世を魅了してしまったらしい。
母親の絶対支配の下に置かれていた少年王が、今ではコリニーを『我が父』と呼び、常に傍に置くようになったという。
若い王の寵を得て宮廷で幅を利かせているコリニー提督を、疎ましく思う人間は山ほどいるだろう。
特に、父のギーズ公フランソワを暗殺された息子のギーズ公アンリなどは、コリニー提督を父の仇と信じ、激しく憎んでいるという話だ。
「シャルル9世に取り入り、スペインとの開戦を主張しているコリニーを危険視したカトリーヌが黒幕だってのが通説だが……確かに、コリニー提督の暗殺未遂事件が起こらなければ、虐殺は起こらなかったかもしれない。だが、それをどうやって止める?」
「それは……」
カトリーヌがコリニーを殺そうと企まないように仕向ける? 不可能だ。それに、カトリーヌ以外の誰かが同じ行動を起こすことだって考えられる。
答は直ぐさま出たが、返答に窮した私に、レイが代わりに答えた。
「暗殺じゃなく、暗殺未遂事件だ。ユグノー・カトリック両派の重鎮が集まる王家の結婚式に機を見た人間が、暗殺を企み、実行に移す。ただそれだけで、後はカトリック側とユグノー側の対立が表面化して、群衆の集団ヒステリーへと流れ込む。止められるとしたら最初のきっかけのところしかないが、どうやって止める? コリニー提督をイングランドに呼び込んで守るか?」
「そんなこと……」
コリニー提督は、今やシャルル9世の最側近で、フランス宮廷を牛耳る有力者だ。レイの非現実的な提案は、私に諦めろと言っていた。
「気持ちは分かるが、立場を考えろよ。先回りしてコソコソ動いたのがバレて、実際コトが起こった後にイングランドの陰謀だなんて疑われてみろ。未来永劫語り継がれる汚名になるどころか、現時点で戦争の引き金にすらなりかねない」
「うん……」
レイに冷静に諭され、私も少し頭が冷えた。
けど、それで不安や焦燥や、罪悪感が消えるわけではない。
落ち着かない気持ちのまま顔を上げると、目の前にレイの顔があった。
湿った前髪の隙間から覗く眼が、静かに私を見下ろしている。
レイって、こんな大人なヤツだっけ。
頭は良いけど子どもっぽい印象ばかり強くて、動揺する私を諭すレイの頼もしさに不思議な気持ちになる。
もう、あれから10年も経ってるし、変わってないように見えて、成長していてもおかしくはないのだけど。
「あれは、起こるべくして起こった悲劇だ。16世紀最低最悪のな」
「でも……」
「あああっ、分かってるってンな顔しなくても!」
その最低最悪の悲劇を知りながら見過ごさなければならない苦痛に顔を歪めると、レイが頭を掻きむしって叫んだ。やっぱりレイだ。
「見て見ぬふりをするのが気持ち悪いのは分かる。事件が起これば、パリはプロテスタントにとって生きた心地のしない場所になる。今から出来ることがあるとすれば、イングランドが事件を予見していたと悟らせない程度に、邦人や亡命者の受け入れ体勢を整えるくらいだろう」
精一杯私の希望を汲み、イングランドとして出来ることを捻り出してくれたらしい。
確かにレイの言う通り、やれることがあるとすれば、フランスにいるイギリス人が巻き込まれないように計らうことくらいだろう。
気休め程度にしかならないが、何もしないよりはマシだ。
「大人しく寝てなんかいられないわ」
衝動に突き動かされ、私は拳を握り、レイのベッドの上で膝立ちになった。
「明日から仕事に復帰します。こんな繊細な仕事、伝言ゲームで済ませられないもの」
「……無理はすんなよ」
「善処します」
「お前、知ってるぞソレ。日本のリーマン語で多分無理ですって意味だろ」
微妙に鋭いことを言ってくるレイの突っ込みを聞き流し、私は呟いた。
「どうしよう……せめて、ウォルシンガムに虐殺が起こるかもしれないから気を付けてって……伝えてあげたいんだけど……」
「お前んとこのスパイの親玉がやってるみたいに、手紙なんざ誰に盗み見られるか分かったもんじゃないぞ」
「そう……そうよね」
そんな手紙がもし誰かの手に渡って、実際に事件が起こったら、まるで私が虐殺の黒幕のようではないか。
しかも、本当に起こるかどうかすらも分からないし。
「レイ、サン・バルテルミの虐殺が起こった時、ウォルシンガムは……」
「フランス大使としてパリに赴任していた。当然生きて帰ってきたし、事件当日は大使館に立てこもっていて、直接命の危険に晒されたって話は聞かない」
「そっか……」
そうは聞いても安心しきれず、私は俯いたまま安全策を考え続けた。
セシルを通して暗号文を使って、結婚式の前後は不穏な動きがあるかもしれないから、あまり出歩かずに用心しろとか、その程度の警告を送るくらいならセーフか。
「あんまり心配し過ぎんな。ハゲるぞ」
「ハゲないし」
ムッとして言い返すと、レイがもの言いたげに頭を掻いた。
「っていうかお前、そろそろ帰った方がいいんじゃねーの」
「へ?」
「この状況、誰か捜しに来て見られたらまずくないか?」
そういえば……!
レイの指摘に、私はようやく状況を思い出してベッドを飛び降りた。
「ゴメン! 急にお邪魔してっ! 服着ていいよっ。っていうか着て下さいっ」
「おう。そうする。寒いし」
今更謝り、後ろを向いた私の背中で、レイがごそごそ服を着る音がした。
「へくしっ」
なんだか可愛らしいくしゃみが聞こえた。
「……風邪ひいた?」
「いや、冷えただけ」
冷えますよね、そりゃあ。11月のイギリスですものねっ。
勿論、部屋に暖炉はあるが、頭濡れたまま裸でじっとしてたら、さすがに寒かろう。いやもう、全て私のせいなんだけど。
「……もう1回お風呂入る?」
「いや……」
「付き合ってくれてありがとう」
「おう」
「レイ、イイ奴……」
「…………」
背中を向けたまま会話をしていると、急に、右手首を後ろから引かれた。
「わっ……」
いつの間に後ろにいたのか。
振り返ると、すぐ後ろに、いつもの白衣姿のレイがいた。
前髪を掻き上げ、真面目な表情で睨みつけてくる相手の顔を、わけも分からないまま見返す。
「なぁ、エリ……」
ジッと見つめてくる目が、いつもと違う色をしているような気がした。
なんか、怖い――
思わず、掴まれていた手を振り払う。
「じゃ、じゃあね、レイ! 風邪ひかないようにあったかくしてねっ」
本能的に良くない空気を感じて、私は逃げ出した。