第190話 女王の忘れ物
その日のうちに私は離宮に移り、国政を離れて静養することになった。
とりあえずの応急措置として、セシルとベーコンに私の仕事を代わってもらって、私の判断が必要な案件については、離宮までハットンやディヴィソン君が伝書鳩のように往復し、意思疎通を図るというかなり慌ただしいものになった。
いつまでもこれだと彼らの身がもたないし、適性を見て仕事を割り振っていかねばなるまい。
これを機に、組織体制の問題点を洗い直し、再編するのもいい。
今まで気になっていたが、時間もなく、なかなか手を付けられなかった部分だ。
封建制から絶対王政へと移行する過程で、個人事業主が一躍大企業へと急成長するような大きな構造変化があったにも関わらず、従来の体制から必要な部分だけを継ぎ足して、なぁなぁで済ませてきたようなこれまでの組織体制は、複雑怪奇で無駄が多く、権限の重複や曖昧さが不正の温床となっていた。
王室家政など、私の生活に直接関わってくるような部門は、目につくと改善していたのだが、それ以外の部門はじっくり洗い出す余裕もなく、とりあえず組織として機能しているので後回しにしていた部分がある。
今は動けない分、考える時間はたくさんあった。
とりあえず一旦、新しいことに手を出すのは止めて、今後どう組織を回していくかと、今進行している政策を詰めていくことに専念する。
ベッドの中に紙とペンを持ち込み、思索にふけっていると、イザベラが見舞いにやってきた。
私が体調が悪いということは公にはしていないが、目の前で倒れたところを見ていたグレート・レディーズまではごまかせない。
「陛下、お加減はいかがですか?」
「イザベラ。もうすっかり大丈夫よ。心配をかけてごめんなさい」
心配そうなイザベラを枕元まで招き、笑顔で答える。
イザベラは胸に手を当て、安堵したように微笑んだ。
「良かった。陛下にもし大事があったらと、心配で私も具合を悪くしてしまいそうでした。あの後、緊急の枢密院会議が開かれ、みな殺気立っていたものですから」
「大げさな……」
詳しいことを知らされずにそんな騒動を見守っていたら、そりゃ体調も悪くなるだろう。
結局、そんな大騒ぎの後、夜通し続けられた後継者議論も、サーフォーク家のキャサリン・グレイを推す者、メアリー・スチュアートを押す者、ヨーク家の血を引くハンティントン伯爵ヘンリー・ヘイスティングスを推す者など、枢密院内でも割れに割れ、結論には至らなかったらしい。
つまり、今私が死ねば、この英国政府は確実に内部分裂を起こすと言うことだ。
余計に死ねない。
「私は倒れた時、貧血でほとんど周りが見えてなかったんだけど、そんなに大騒ぎになっていたの?」
「はい。その場にいた侍女が慌てて医者を呼びに行ったのですが、近衛隊や枢密院も駆けつけて、それはもう大変な騒ぎでした。あの時、私も怖くて泣いてしまって、どうしていいか分からないまま陛下に縋りつこうとしてしまったのですけど、駆け付けたドクター・バーコットが、ものすごい剣幕で怒鳴りつけてきて……」
「ものすごい剣幕?」
「触るな!と」
イザベラは、大きな目を指で釣り上げ、眉間にしわを寄せて可能な限り怖い顔をした。
「そいつに触るな、と。あまりの迫力に、私も驚いて涙も止まってしまいました。他の者が駆け付けた後も、俺は医者だの一点張りで、人に任せることなく、陛下をご自身で寝室まで運ばれて」
あの時、そんな光景が展開されていたのか。全然知らなかった。
当時のことを語るイザベラは、うっすらと頬を染め、目を輝かせた。
「ドクター・バーコットは、何かミステリアスな雰囲気があって、少し怖い人のように思っていたのですけど、医師として陛下を救おうとする気持ちの強さに感銘を受けました。とても素敵な方だと、皆で話しておりましたの」
興奮気味に話してくる。
なんとなく懐かしいノリだが、怒鳴りつけられてときめくあたり、イザベラもなかなかの上級者である。
態度の悪い謎の医者ともっぱらの評判だったはずが、ここに来てグレート・レディーズ内で人気が上がっているらしい。
「ミステリアスで異国の雰囲気……なるほど」
「陛下?」
「あ、いや。なんでも」
そういえば昔、イザベラに好みのタイプを聞いた時、そんなことを言っていたような気がする。
「そういえばイザベラ、トマスの様子はどう?」
話の流れで、私は彼女の婚約者について聞いてみた。
いまだロンドン塔で囚人生活を送っている彼のもとにイザベラが訪れる機会は限られているが、それでも出来るだけ希望は聞いてやるようにしている。
そんな私の方は、トマスに処分を言い渡して以来、1度も顔を見ていない。
前に面会したいということを匂わせたら、セシルにもベーコンにも難しい顔をされた。ツートップに拒否られたら、なかなか実行に移すのは難しい。
「はい。体調の方は良いようです。真面目な方ですので、ご自身の過ちを責め、暗い顔をされることが多かったのですが、最近はたまに笑顔を見せられることもあって」
「そう……」
身分の高い囚人が幽閉されるビーチャム・タワーでは、囚人とはいえ、生活面では格別の配慮がなされている。けれど、精神的な負担はまた別の話だ。
「私がこんなことを言うのもなんだけど……イザベラ、トマスを支えてあげて頂戴」
「もちろんですわ、陛下。あの方は、私の夫となる方ですもの」
「イザベラ……」
ありがとう、と言うのは違う気がして、透明な微笑みを見せて答えたイザベラの手を、私は感謝の気持ちを込めて握り締めた。
それからの時間は、かつてないほどにゆっくりと過ぎた。
離宮では、レイと寝室付きの侍女達に監視……もとい世話をしてもらいながら、ほとんどの人間との面会を絶っていた。
私と直接話が出来る人間が増えたら、結局私の仕事が増えるため、療養にならないからだ。
その間に組織の再編を進め、これまで管轄が重複したり、隙間が空いたりしていた部分を洗い出し、無駄な部署を削減し、新たに必要な部門を作った。
部署ごとの権限範囲を明確化して、私の仕事を移し、案件のレベルによって、各部署のトップに決裁権を与える。
今は私が現場にいないので、ハットンとディヴィソン君がハンコをもらいにやってくるが、彼らの上司が内容を吟味し、すでに結論を出した案についての最終の承認をもらうだけのものなので、私が胃を痛めながら激論を交わすということはあまりない。
気になることは修正を要求して突き返して、再び上がってくるのを待つ。伝達役を介することになる分、スピード感が落ちてしまうのは否めない。
スピード重視な私は、その辺がむずむずしてしまうが、現場にいない間は我慢だ。
急を要するものについては飛び越えてでも持ってくるように言っているが、今は周囲が気を遣っているのか比較的平和なのか、そういうのもあまりなかった。
今のところは、それで大きな問題は起きていない。
新しい体制でも割に上手く回っているため、信頼して仕事を手放すことも大事なのだと、分かっていたはずだが、自分がなかなか実行出来ていなかったことに気付く。
そういえばレイにも、エリザベスの時代は人材に恵まれているのだから任せろと言われていた。
「長官から秘密情報部に、定期連絡が入りました。運良くスペイン駐在経験を持つ外交官と接触できる人間をエージェントとすることに成功したため、今後スペイン軍に関する極めて重要な情報を入手することを期待出来るということ、情報の二重チェックのために、政府側にも正規ルートである外交官情報の精査を要望すること、など、こちらに届いている報告は、長官が取り組んでいる大陸の情報網強化に関するものが主で、フランス外交についての情報は、別途バーリー卿の方に報告されているかと」
ベッドで身を起こし、膝に猫を乗せながら、ディヴィソン君の情報に耳を傾ける。
連絡係は、第一秘書代理のディヴィソン君とハットンが請け負っている。馬鹿広い宮殿の敷地を行き来するのは大変だろうが、若いので体力仕事担当だ。
「そう、あとでセシルに確認するわ」
「ちなみに、今回長官の結婚報告はありませんでした」
「は?」
唐突な追加報告に、目を丸くする。
「なにそれ」
「え」
聞くと、ディヴィソン君の方も目をパチクリさせた。
「陛下が、必ず報告しろと……」
ああ、そんなことも言った気がする。
その場のノリというか誤魔化しというか、ほとんど勢いで言ったので、忘れていた。
「バーリー卿にも、陛下が長官の結婚報告を気にしておられたとは伝えましたが」
お前か!
以前セシルに、妙に先回りした突っ込みを入れられたことを思い出す。
この正直者めっ。
まぁでも、顔に書いているわけでも、セシルが超能力者なわけでもないことが分かって良かった。
胸を撫で下ろしたところで、ふと思い出す。
「あ。そういえば……」
ウォルシンガムに手紙書くの、忘れてた!
~その頃、秘密枢密院は……
10月に病に倒れた女王が、その事実を非公開にし、占星術師の予言に従って公の場から身を隠したということにしてから、1ヶ月が過ぎた。
「陛下は実は妊娠されていて、出産の準備に入られたのだともっぱらの噂だぞ」
女王にフランスから届いた報告をするため、離宮へ向かっていたバーリー卿ウィリアム・セシルは、途中でレスター伯に捕まり、浮かない顔の伯爵に、そんな噂話を聞かされた。
頻繁に市民に姿を見せることで親しまれていた女王が、宮廷の移動も取りやめ、街の視察にも出なくなったことで、巷には様々な憶測が流れ始めているらしい。
「相手は俺だと、散々疑いをかけられた」
「事実無根なのだから放っておけば良いでしょう」
「事実ならどんなにいいか!」
1人だけ嘆く方向が違っていたが、セシルは小さく息をつくだけで聞き流した。
その手の噂はこれまでも散々立っており、新鮮味はなかったが、事実でない以上、隠し立てのしようもない。
宮廷内外で思い出したように流される女王の淫蕩な噂は、ただの噂好きの人間の暇つぶしというわけではない。
最近では、業を煮やした外交官達によって、自国の主人と結ばせるため、独身であることのデメリットを際立たせ、女王を結婚へと傾かせようという目論みの扇動としても利用されている。
即位当初から続いている、反乱分子のネガティブキャンペーンも手伝って、根も葉もない女王のゴシップは定期的に巷を賑わすが、過激な中傷は取り締まりつつも、またか、と感覚が麻痺してきた部分もある。
女王は石女であるという噂と、愛人が複数いて隠し子までいるという噂が同時に錯綜しているような状態では、市民も疑うことを覚え、その悪評が原因で暴動が起こるような事態にまで発展することは、まずなかった。
「陛下が外に出られぬ理由は、占星術師より、今年の秋に流行病にかかると予言があったためであり、巷に流れる噂のような事実はないと、はっきりとした告知をした方が良いかもしれませんね」
王政府がわざわざ民衆の噂話に回答してやる義務はないが、クリーンな女王のイメージを求心力の源としている以上、公的な情報発信は市民を安心させるためにも必要かもしれない。
「本日、陛下に少し相談して決めることにします」
「それはそうした方がいいな。だが、どう思う、バーリー卿。女王が10月に病でお倒れになったというのは、やはりあの予言者の知る未来に従っているということだろうか?」
「どうでしょう。少なくとも、あの男が言っていたような、流行病ではないようですが」
流行病については、アンを治療し、拡大を防いだ男の功績は、セシルも評価している。
未来がその男の歴史通りに進むとまでは思っていないが、確かに、形は違えど女王がその時期に病に倒れたことは不気味だった。
女王はすっかりあの医師を信頼しているようで、傍に置いている。
彼らの女王が認識していない未来知識などの信憑性は置いておいても、彼女がセシルたちに、メアリー・スチュアートが同じ未来人であるなどという荒唐無稽な嘘をつく必要があるとも思えないので、そこは信じる他はない。
実際、以前から、女王がメアリー・スチュアートに強いコンプレックスを抱いているように見受けられることは、ままあった。
数日顔を合わせただけの小娘相手に、何を気後れすることがあるのかと不可解ではあったが、女性同士の深層心理までは推し量ることは出来ないと保留していた。
それが、前世の男絡みだと言われれば、いくつか思い当たるところはあった。
「それにしても、時代を超え、生まれ直してもまた出会うなど、まるで神の思し召した運命かなにかのようではないか。俺は認めんぞー!」
「…………」
レスター伯の叫びはただの嫉妬だが、心配なのは、彼の言うような運命の再会により、彼女の恋心が再燃してしまわないかという点だった。
前世がなんであれ、未来がどうであれ、彼女が女王で、あの男がただの医者であることには変わりがない。
寵を与えることは王の自由だが、あの男には、どこか危うい部分を、セシルは感じていた。




