第188話 想い出の宝石箱
結局、その夜は一睡もしないまま話し明かして、ついに私が日本へ帰る朝が来た。
予約しているのは午前の便で、空港までは、車を持っている友人が送ってくれることになっていた。
待ち合わせの時間までに用意もしなければいけないし、私は後ろ髪を引かれつつも、明け方にレイに別れを切り出した。
「じゃあ、行くね」
「…………」
「レイ?」
声をかけても、ベッドの上にあぐらを掻いたレイは、枕を抱えて俯いたまま動かない。
その姿がとても寂しそうに見えて、置いていくことに胸が痛んだ。
「……なよ」
「え?」
「行くなよ。ここにいろよ」
レイが枕に半分顔を埋めて、ぼそぼそと言ってくる。
「そんなの……飛行機の時間だってあるし」
「……今日の飛行機は運行中止だって言ってた」
拗ねたようにそんなことを言ってくるので、思わず笑ってしまった。
「誰が言ってたのよ?」
「……タクシーの運転手が言ってた」
「言ってない」
「言ってたったら言ってた」
ごろんと枕を抱えたまま横になって顔を背けてしまう。子どもか。
ああでも、私はこんなレイが好きなんだな。
いつの間にか、自分の『好き』の気持ちを認めてあげられるようになっていた。
最初の内は恋じゃないと自分をごまかしてきたけれど、気付いてしまえば、転がり落ちていくように好きなっていくのは止められなかった。
「もう、子どもみたいなこと言わないで」
思わず、子どもを諭す母親みたいな口調になってしまう。
私だって残れるものなら残りたいけど、飛行機のチケットだって取ってるし、親にも連絡している。日本にいる友達とも、冬休みが埋まるくらい、一杯予定が入ってしまった。
全部振り切って、残ると言えたら楽なんだろうけど、そんな恋愛ドラマのようなことは、とても出来ない。レイのことは好きだけど、私を待っててくれる家族も友達も大事だ。
「……もう時間だから、行くね?」
「…………」
レイは答えない。
仕方がないから、そっとベッドから降りて荷物をまとめると、レイはむくりと起き上がって、私に背中を向けたまま、枕を抱え込んでいた。
寂しい背中。
全身で、「行かないで」って叫んでる。
後ろから抱きしめて、「大丈夫、どこにも行かないよ」って言ってあげたい気持ちを抑え込む。
何も今生の別れじゃない。冬休みが終われば、また会えるのだから。
「バイバイ、レイ。またね」
どうしようもなく後ろ髪を引かれる思いを断ち切って、振り返らずに部屋を出る。
しばらく、あの時の寂しい背中が瞼に焼き付いていて、後悔のような、何とも言えない気持ちを引きずった。
それ以外に、私が選ぶ道なんてなかったはずなのに、なんでこんなに悔いが残るのだろう。
チケットとか、家族とか友達とか、キャンセル料とか人の迷惑とか。
私が何も考えずにレイを選ぶことが出来ていたら、何か変わっていたのだろうか。
――結局、私はそれから何年もの間、時折、そんな疑問に捕らわれることになる。
※※※
「ストレス性の急性胃炎だな、多分」
「多分……?」
翌日、私の部屋に来て、問診と診察をしたレイが、そう診断した。
私は枕をクッションにしてベッドに身を起こし、枕元に椅子を持ってきたレイに聞き返した。
「胃カメラがあれば、ちゃんと調べられるんだが、ないもんは仕方ねぇ。胃癌じゃないことを祈れ」
「う、うん」
乱暴な診断に、気後れする。なんかちょっと機嫌悪い……?
「まあ、大丈夫だろ。エリザベス1世が胃癌だったって話は聞いたことないし」
一応フォローを入れた後、前髪ちょんまげ姿のレイが、眉を吊り上げた。
「……つか、血吐きながら何が大丈夫だ! 余計心配するわ! おとなしくぶっ倒れてろ!」
「ご、ごめんなさい……」
どうやら昨日、往生際悪く足掻く私を運んだ時から苛々していたらしく、怒られた。
でも、倒れたのは多分、ただの貧血だろう。血を見たからか、寝不足だったからかはよく分からないが、その辺が原因で貧血を起こしたことは、過去に何度かある。
「基本は静養。あと、この時代なら漢方の方が信頼性が高い。王様ならルートも金もあるんだろ。俺が指定した薬を手に入れることくらい出来るよな」
「うん、それは、多分……」
従来の地中海ルートでアジアとの交易はあるし、この時代に存在する漢方なら、入手することは可能だろう。
私がそれで助かるとなれば、優秀な臣下達が血眼になって、早期に手に入れてくれるに違いない。
なんてったって、国家の一大事だ。
昨夜、私が眠っている間に、枢密院委員らが通夜のような暗い顔を突き合わせ、後継者を誰にするか、夜通し議論を重ねたらしい。
胃炎くらいで大げさな……とは思うが、白昼いきなり血を吐いて倒れられたら、さすがに最悪の事態も想定するか。
4年も経てば慣れたつもりでいたが、気付かないうちに――気付かないようにしているうちに――負担が積もっていたらしい。
「それに、お前あんまり体力ないだろ」
「そうなの?」
自分では、そんな気はしていなかった。
「見た感じ、あまりあるようには見えないぞ。なんだこの腕、片手で折れんじゃねーの。箸より重いもん持てんのか」
レイの手前にあった左手首を掴まれ、ブラブラされる。
失礼な。
「意外に体力あるね、とか、力あるね、と言われたことはよくあるんだけど」
「頭に意外がついてることを無視するなお前。それ、多分気合いでカバーしてるんだろ。だいたい、食事量も少ないし。そのくせ活動量多過ぎ。自覚してないだけで相当無理してるはずだ。身体ぶっ壊す前に生活習慣見直せ。食事量と栄養のバランスもな」
「うぐぅ」
少食なことは、以前からウォルシンガムにも注意されていた。
だって食べるの面倒臭……いやいや、そういう考えが良くないのだろう。改めよう。
「食事療法と自然薬効、後はストレスを避けて療養していけばそのうち治るだろう」
最後のが一番難しい。
顔に出ていたのか、レイが釘を差した。
「トップが休んだくらいで潰れる組織はそれまでだっつの。エリザベスの時代は恐ろしく人材に恵まれてるんだから、任せとけって」
「やっぱり恵まれてるの……?」
薄々そんな気はしてた。
「あのすげー裏がありそうな宰相」
セシルかっ? セシルのことか!?
「歴史上、完璧な宰相というものがいるとしたら、ウィリアム・セシルである、とまで評価する歴史家もいるくらいだ」
「やっぱりそうよね! そうだと思ってた!」
さすが私の精霊だ。
「おまえ大好きだな」
両拳を握り締め、目を輝かせると、呆れたように言われた。
「けど、まさか私がストレスで血を吐くことになるなんて……」
なんとなく結果に納得がいかず、首を捻る。
「そんなに溜め込むタイプじゃないと思うんだけどなー」
「身体が証明してるんだから不服を申し立てるな」
「でも、身体の調子って、結構精神的なもので左右されるもんじゃない?」
「それは確かにあるけどな」
私、こいつに振られた日に、体調崩して熱出したし。
ふと、そんなことを思い出す。
寒い日だったし、もともと身体は弱っていたのだろうが、熱まで出してダウンしたのは、完全にレイからマリコとの交際報告を受けたせいだった。
ショックだったけど、別に腹が立つと言うことはなかった。ただただ気落ちしていた。
「どうした? いきなり沈静化して」
「んー……」
思い出し気落ちをしていた私は、もそもそと枕を寝かして、頭を据えて布団を引き上げた。これ以上レイと話をしていると、いらないことまで思い出して、また具合が悪くなりそうだ。
「しんどいか? 熱は?」
ピタリと額に手を当ててくる。指がスラリと長い、綺麗な手だ。
やさしい仕草に、また余計なことを思い出してしまって、目が潤んだ。体調を崩して気持ちが弱っている分、感傷的になっているかもしれない。
「ん?」
微笑んで覗き込んでくる。さっきまで苛々怒ってたくせに、コロコロ表情を変えるから振り回されてしまう。
あの頃、いっぱいときめきをもらったことを思い出して、また涙が出そうになり、私は布団を顔の上まで引き上げた。遮断。
「レイってずっこい」
「なんだよ、それ」
もう今更恋愛感情を持てるような相手ではないが、宝石みたいにキラキラ輝いていた昔の気持ちを思い出して、懐かしくて切なくなる。
でも、忘れたくて忘れていた記憶まで抉り出されて、ものすごく疲れる。
拗ねた振りをして、ゴロンとレイから背を向けた。
「もう寝る」
「おう寝ろ。むしろ寝続けろ。しばらくは安静だからな。働くなよ」
しつこく釘を刺してくる件には答えず目を瞑ると、すぐに眠ってしまった。