第187話 その頃、フランス大使は
その夜は――というか、このフランス宮廷ではほとんど毎日のことだったが――華やかな宴が開かれていた。
幾千本もの蠟燭によって昼のように明るく照らされた大広間で、宝石や絹をまとった選ばれし貴人らが踊り歌う中、ウォルシンガムは壁際で静かに、その煌びやかな舞台の背景となっていた。
新設の英国秘密情報部は、現在は国王第一秘書直下の組織であり、その存在は非公開だ。
秘密情報部長官という肩書きは、海を越えたフランス宮廷にまではまだ知られておらず、ウォルシンガムは何食わぬ顔で情報収集とネットワークの拡大に努めていた。
秘密情報部が出来て間もないうちのフランス赴任は、そういう意味では好都合だった。女王から与えられた権限を利用し、秘密裏に、大陸での諜報網の強化を図れる。
今夜の宴の主催はアンジュー公で、ウォルシンガムは直々に招待を受けた。
公爵の私的な夜宴に外国大使が参加しなければならないしきたりはないが、公自らに招かれたとなれば、出席しないわけにもいかない。
もとよりウォルシンガムの仕事は、アンジュー公に言葉を尽くし、彼の主人との結婚を前向きに考えるよう説得することにあった――表向きは。
調べていくとアンジュー公アンリ・アレクサンドル・エドゥアールは、男色の趣味が広く知られてはいたが、美貌の女性のみで構成されている遊撃騎兵隊の何人かや、あろうことか、カトリーヌの次女で、15歳の奔放な妹姫マルグリットとの関係も噂されており、全く女を受け付けないというわけではないようだった。
とはいえ、性癖の問題を除いたとしても、件の人物を、まともに女王の婚約者として値踏みしろというのなら、どう考えても失格だ。
若者らしいギラギラした野心あふれる眼差しは、人によっては可能性と頼もしさを感じ、魅力と映るかもしれないが、ウォルシンガムの目には、無鉄砲な愚かさを内包した危険なものに感じられた。
幼い頃から、兄弟たちの中で際立った快活さと美貌を褒めそやされて育ったためか、わがまま過ぎるほどわがままで、傲慢過ぎるほど傲慢なところは、明らかに欠点だった。
だが、表面的な能力や容姿、身分で言えば、何も劣っているところはない。
細かい政治的な事情を脇に置いておけば、政略結婚の相手としては申し分ない、というのもまた事実だった。
実際、内面や信仰、人間性、女王との相性まで考慮した場合、例え誰であっても太鼓判を押して薦められるような人間などいないことも、ウォルシンガムはまた自覚していた。
あの女性は、王として仕える分には申し分ないが、女として従わせるには、男側に多大な度量が求められる。
また、女王に仕える臣下としても、女王を支配することになる男の王には、彼女以上の資質を求めざるを得ず、彼女が王として苦難を乗り越え、成長する程に、彼女の王に求める要求は高くなっていく。
現実的に、女王が生涯独身を貫くかどうかは、時の政情や、彼女自身の気の移り変わりにもよるだろうが、臣下や国民が納得する伴侶を得ることは、年を経るごとに難しくなっていくように思えた。
正直、この不毛な婚約者探しに、倦んできている面はあった。
ため息はつかぬまでも鬱屈した胸を抱え、大して中身の入っていないグラスを傾ける。
その硝子越しにぼんやりと見えた鮮やかな色彩の塊が、グラスを下ろした瞬間、目に痛い両性具有者の島に変化するのは、悪い夢のような光景だった。
「サー・フランシス」
近づいてくる集団の先頭に立った貴公子が、友人か何かのように気安く声をかけてくる。
「――これは殿下、この度はこのような場所にお招きに与り、我が身に余る光栄に、身を低くして御礼申し上げます」
背後に引き連れた、女のように着飾った若者たちの、値踏みするような好奇の目をすっかり無視して、公爵に礼を取る。対するアンジュー公は、大袈裟に残念がって見せた。
「何だ、随分と堅苦しい挨拶じゃないか。口づけまで交わした仲なのだから、もっと……そうだな、親愛に満ちたものでいい。『親愛なる殿下のご寵愛を賜り、誠に恐悦至極にございます。願わくば、一層の愛情を我が身に注ぎこの乾きを癒し給え、アーメン』うん、これくらい言っても悪い気はしないな」
「…………」
アンジュー公は、少年期の一時期にプロテスタントにかぶれ、教皇やローマ・カトリックに対する冒涜的な奇行に走ることがあったらしい。少年期特有の、親や周囲の大人への反抗心の発露とも考えられるが、青年期に達した現在はそれもなくなり、形ばかりのカトリック教徒ともいうべき、単に敬虔さの欠けた人間へと育っていた。
散見する信仰への侮辱とも取れる言動を、沈黙を守ることで聞き流すが、そんなウォルシンガムを、アンジュー公は自分の顎を撫でながら、片目を瞑って眇め見た。
「ふむ、大使殿はあまり冗談がお好きでないらしい。ならば貴殿が好む仕事の話をしよう。まぁ、仕事といっても、俺にとっては人生の伴侶を決める話になるのだが――」
この男から、その話題が出てくるのは意外だったが、わざとらしい真面目くさった顔で口にしたのは、明らかにウォルシンガムを挑発するための台詞だった。
「英国の女王は石女と聞いたが本当か? 実は、その点については母上も心配している」
「神をも恐れぬ悪しき虚言です」
「なら、うまずめでなければアバズレか」
そこだけ英語で、下手な韻を踏んでくる男に不快感を隠さず睨みつけると、青年は愉快そうに笑んだ。後ろで、両性具有者の島が笑いにさざめく。
「無愛想な男だ。あまり出世できそうなタイプには見えないが、そんな貴様も、女主人の前では、不味い砂糖菓子のような美辞麗句を並べ立てているのかと思うと、笑えるな」
「…………」
己を揶揄されるのは黙って聞き流せば済むことだが、自らの君主の沽券に関わることであれば、ただ大人しく受け入れるというわけにはいかない。
度を超した嘲弄に、いくつかの暴言が思い浮かんだが、それらをぐっと押し殺し、ウォルシンガムは言葉を選んだ。
「ご推察の通りの不調法者でございます故、我が君のあまたの美徳をありのままに表すのは難しゅうございますが――あの方の目は、雌の気を引きたがる雄鳥のように飾り立てた者より、真に国家に忠誠をつくす清廉の徒を見出し、あの方の耳は、媚びた女の様な甲高い声で甘言を弄する雑音の中から、真に国家の為に自らが正しいと思うことを率直に申し立てる者の声を拾い上げる。そのような度量と公明正大なる資質を備えた、類い希なる貴い女性であるということを、我が君の名誉のために、言葉足らずながら申し上げておきましょう」
立て板に水の如く、完璧なフランス語で韻を踏んだウォルシンガムが、感情の見えない眼差しで後ろの島を見回すと、飾り立てた雄鶏たちが面白くなさそうに鼻白んだが、アンジュー公は鳶色の目を見開き、鮮やかに笑った。
「そうか。お前がそこまで言うほどイイ女ならば、考えなくもない。俺をその気にさせるとは、英国女王は実に有能な家臣を持っている」
「…………」
「なに、安心しろ。女が抱けないわけじゃない。これも王族の義務だからな。お前も見に来るか?」
フランス宮廷では、王位継承者の結婚初夜には国王や王妃側の親など、一部の縁者が同席し見届けるという、気味の悪い通例があった。
イングランド王室にそのような慣わしはなく、イングランド女王の一臣下である男に同席を促すと言うのは、例え軽口であっても悪趣味を通り越し、殺意すら沸いた。
女王がこの縁談に全く期待を寄せておらず、政治的な交渉手段としてしか見ていないことは、この不埒な王弟と自らの君主を結びつける役割を任された身としては、幾分救いではあった。本腰を入れて結婚交渉を進めろと命じられたら、どれほど屈辱的で苦痛を伴う使命になるだろうと、考えるだけで気が遠くなる。
アンジュー公がこの縁談に乗り気でないのは明白だったが、面白がって引き延ばしを計っている今が、好機と言えば好機だった。
この男が飽きて気が変わらないうちに、一刻も早くフランスと同盟を結び、主君の期待に報いることこそが――己がここにいる、最たる理由だった。