第177話 1559年、1月
たまたま、その自習スペースには私とレイしかいなかったので、しばらく2人きりで、短い会話を交わした。
「何読んでるの?」
机に突っ伏しているレイが、読みかけの本のページに指を挟んだままなことに気付く。聞きながら、表紙に目を走らせた。
「暗号……の本?」
シンプルな洋書のタイトルを単純に直訳すると、寝起きのせいか、ぼんやり私を見ていたレイがようやく反応した。
「ん? ああ……」
「面白いの?」
「結構面白い」
難しそうで、正直あまり興味が持てなかったのだが、話の種に聞いてみると、レイは答えてくれた。
「この1章に出てくるイングランドの政治家が切れ者で、敵に容赦なくて格好良いし」
「そういう楽しみ方する本なの?」
それなら私も読めるかもしれない。
「いや、メインは暗号解読と進化の歴史だけど」
「ふーん……」
やっぱり興味ないかもしれない。
ここで、嘘でも「面白そう貸して」と言えないあたりが私の下手くそさなのだと――短い雑談に満足して、るんるん気分で部屋に帰り、会話を反芻してから気付いて後悔した。
※※※
「はい出来た」
ちょうど話の区切りがよいところで、私は髪いじりを終えた。
手鏡を持ってきて、レイの前にかざす。
かなり伸びていたので、真ん中分けにして邪魔なサイドを編み込みにし、後ろで束ねてやった。
「ほーらスッキリ、かわいいかわいい」
「おい」
「文句は聞きませんー」
せっかくなので遊んでみた。けど、この時代は男性もファッションが派手で、髪飾りをつけたりもするので、さほど違和感はないかもしれない。
ロバートも、たまに頭に羽根が生えてたりすることがあるし。……いや、比喩表現でなく。
「で、お前は?」
怒涛の4年間を、短く語り終えたレイに促される。私も、聞いたからには隠し立てはせず、正直に話すことにした。
「この4年間、ずっと女王やってるわ。同じようなもので、気が付いたら16世紀のロンドンにいた――エリザベス女王として。それが、1559年の1月10日。エリザベス1世が戴冠する5日前」
日付を聞いて、即座に計算したらしいレイが深刻な顔をする。
「エリザベス1世が25歳で死んだってことか……?」
「エリザベス1世がその年で死んだら、まずいわよね」
「そりゃ、相当まずいな」
「だからかな、とも思ってるんだけど」
「だから?」
「だから……身替わり?」
特に根拠はないが、漠然と思っていたことを口にする。
「身替わりねぇ……なんでお前?」
「私が聞きたいわよ」
「…………」
レイは何やら考え始めたようだ。
「……何らかのイレギュラーが起こって、エリザベス1世が死んで、その事実を修正しようとして、21世紀から代用できる人間が飛ばされた――か。なるほど、そう考えれば繋がるか」
「繋がる?」
「俺がこの世界に来た理由だ」
レイの中では繋がったようだが、私は何も繋がらなかった。
「ドクター・バーコット……こんなやつ聞いたことねぇと思ってたが、お前に会って思い出した」
「やっぱり有名な人だったの?」
「有名っつーか……エリザベス1世が治世の前半に1度、病気で死にかけたことがあった。それが1562年の秋、天然痘にかかり生死の境をさまよった。誰もが諦めた時に、奇跡的にエリザベスを救った医師がいた。その医者がどういった経歴の持ち主かも、その後どうなったのかも、ほとんど伝わっていない」
なにそれ格好良い。
「それが、ドイツ人医師バーコット。残っている記録から推察するには、この男の行った対処療法は、現代の医学から見ても、恐らく正しい。この男がいなければ、エリザベスは死んでいた――バーコットが死んだら、歴史が変わるんだ」
「だから、レイが呼ばれた……?」
イレギュラーで死んだバーコットの『代役』として。
「エリザベス女王を危篤から救ったバーコットが、女王に出会う前に死んだ……だから、レイがバーコットの身体に転生した?」
「この男が歴史に顔を出したのは、俺が知る限りはその一瞬だけだ。バーコットが1度死んで、中身が入れ替わってまで生き返ったことに理由があるとすれば――『エリザベス1世を死なせないため』っていうのが、真っ先に思いつく」
「…………」
一体誰が、と思ってしまうが、答えが出る気はさらさらしなかった。
「つまり、俺はこれで退場ってことだ」
エリザベス女王を死なせないことがバーコットの役割だとしたら、アンを天然痘から救い、私への感染を防いだレイは、無事代役を果たしたことになる……のか?
……レイは本当に、このまま宮廷を去るつもりなんだろうか。
宮廷が嫌いだという人間に、いて欲しい、と思うのはわがままだろうか。
そんな思いが過ぎったが、私は別のことを口にした。
「でも、歴史に詳しいわねレイ。お医者さんなのに」
「別に、1回本で読んだら覚えるだろ、こんなもん」
ウソだ!
私なんて、中高で一通り習ったことすらうろ覚えだぞ。
分かってはいたが、頭の出来の違いを見せつけられる。
私も本を読むのはジャンル問わず好きだったが、歴史物なんかを読んでも、読んだ先から固有名詞、人名、年号が抜け落ちていって、ほとんど覚えていない。
1度読んだ本の内容を忘れない記憶力があれば、そりゃ医者にもなれるよな……と、凡人の僻みが入る。
私も、別に成績は悪くなかったが、暗記物のテストは詰め込み&忘却型だった。プレゼンとかディベートなんかは、割と得意だったんだけど。
「あ、それから……ね」
私は、もう1つ衝撃の事実を伝えることにした。
「多分、ものすごく驚くと思うんだけど」
「なんだよ、早く言え」
「……マリコが――」
溜めるつもりはなかったのだが、どう説明しようか悩んで、少し言い淀む。
結局、一言ではうまく伝えられないので、単刀直入に口にした。
「マリコがいるの」
「は?」
「須藤マリコ。覚えてるでしょう?」
「そりゃあ……まぁ」
レイが曖昧に口を濁す。
いくらレイがモテるとは言え、さすがに元カノの顔や名前を忘れたりはしないだろう。
「いるってのは……お前とか俺とかと同じように、この世界の誰かの身替わりになってるってことか?」
「うん……えっと……メアリー・スチュアートの」
「……マジかよ……!?」
レイが愕然とする。もうこれ以上衝撃の事実は私も知らないので、これ以上驚かせることはないだろう。
「ってことはマリコも……いや、メアリー・スチュアートも1度死んだってことか?」
「うん。私と同じ、1559年の1月って言ってた」
「1559年の1月……?」
レイがその部分に引っかかりを覚えたらしく、真剣な表情で繰り返した。
「俺もだ。俺がこの時代に来た……いや、レオナルド・バーコットが死んだのも――1559年の1月」
「え……」
奇妙な符号に、うすら寒さを覚えた。
「1559年の1月に、何か意味があるのか……? いや、その前に……あいつがメアリー? ああ……でも、確かに」
どこか納得したように、レイが呟く。あまり意味が分からなかったので、私は聞き返した。
「確かに?」
「いや、エリザベス1世もたいがいだけど、メアリー・スチュアートも相当個性的な女だ。あの役を素で演じられるのは、確かに……あいつくらいかもなって。思っただけ」
「メアリー・スチュアートになれる素質があるから選ばれたってこと?」
「それは分かんねぇけど、実際、メアリー・スチュアートの人生は歴史通りに転がってるだろ」
そうなんだろうか。結果的に、今にもエリザベスに処刑されそうなルートに入り込んでいるのは分かるが、私もあまり詳しくない。
「私はそこまで詳しくないから分からないけど……マリコもほとんど知らないっぽかったし」
「いや、若干時期にずれがあるが、愛人リッチオ虐殺事件からの、ジェームズ王子出産、夫ダーンリー卿暗殺、下手人ボスウェル伯との逃避行、二重不倫からの結婚、蜂起失敗で投獄、王位剥奪、イングランドに亡命してエリザベス女王の捕虜になるところまで、何もかもが歴史通りだ。これを史実を知りもしないでこなしてるって言うなら、大したもんだ」
「むしろ史実を知ってたら、絶対に同じ轍は踏まないようにしたくなる転落人生だけど……」
つくづく、どこかで歯止めは利かなかったのかと問いたい。
「いや、あいつならやる。基本、思い込み激しくて後先考えねぇから」
あんたの元彼女だよ。
突っ込みたくなったが止めておいた。
……まあ、そういうとこ凄いと思うけど……私には出来ないから。
「会ってみたいなら、手配するけど」
実現できるかは分からないが、レイ経由で和解出来るなら、それも1つの手かと思って聞いてみる。
が、レイは嫌そうな顔で拒否した。
「いや、いい……会ったらぶん殴られそうだし」
「何それ……どんな別れ方したらそうなるのよ」
呆れる。マリコの逆恨みっぷりからも、穏当な別れ方ではなかったのは予想がつくが、私がついなじる口調になると、レイが言い訳を始めた。
「いや、でもあれはもう仕方がなかったっていうか。向こうも浮気とかしてたし、お互い様……あっ、こら聞け!」
自分で聞いといて何だが、聞き苦しかったので耳を塞いだ。
恋バナとかも大して興味がないし、野次馬根性も持ち合わせていないので、男女の修羅場など聞いて楽しいものでもない。
あーやだやだ。乱れた男女関係。やっぱり私にこいつは無理だったんだ。
「なんだその目は」
「いいえ、何でもありませんが?」
どうも軽蔑が顔に出ていたらしく、突っ込まれて半眼で返す。
そんな私を、レイが物珍しいものでも見るような目で眺めた。
「お前さぁ……前から思ってたんだけど……」
「それ以上言ったら殴る」
私の殺気を感じたのか、レイが口をつぐんだ。
何を言いたいかは予想はつく。
留学先で親しくなった男友達に、からかい半分に「Are you a virgin?」と聞かれた時は、脳内で串刺しにしてやったものだ。
うるせー、処女で悪いかっ。
私の機嫌が急激に悪くなっていることを察し、レイが真面目な話に変えた。
「それはそれとして、何か見えてきそうな気がするな。1559年の1月――歴史上、死ぬ予定じゃない人間が何人も死んだ」
「そうね……メアリー・スチュアート、エリザベス1世、ドクター・バーコット……」
「そいつらだけじゃない」
「え?」
指折り数えた私に、レイの意外な一言が飛んでくる。
「他にも死んでるんだ」
「他にも……?」
「いるだろう。1559年1月に死んだ人間が」
「私も知ってる人間でってこと……? 1559年の1月……」
促され、記憶を探る。
1559年1月には、確か……
「ポルトガルの、エンリケ王が」
「セバスティアン1世もだ」
レイに補足され、私は頷いた。
そうだ。
幼少の王セバスティアン1世が1月の初めに、後を継いだ高齢の王エンリケが1月の末に死んでいる。
それによって継承戦争が勃発し、最終的に、フィリペ2世がポルトガル王に即位し、ポルトガルはスペインに併合された。
「本当は、これもおかしいんだ。おかしいとは思ってたが、まさか同じ時期に、エリザベス1世やメアリー・スチュアートまで死んでたとは……」
「おかしいって?」
「セバスティアン1世も、エンリケ1世も、俺たちの知っている歴史よりも早く死んでいるんだ」
「…………」
それは、気付かなかった。
スペインのポルトガルの併合が何年に起こったとか、正直年号まで覚えていない。
「気付かなかったのか?」
完全に沈黙した私に、レイが呆れたように言ってくる。
私は口を尖らせて反論した。
「そんな高校で習ったきりの歴史とか、ほとんど忘れてるわよ。大まかな流れならともかく、細かい年号とか覚えてられないし」
「数字の方が覚えやすくねぇ?」
出たよ理系ドヤ。
こいつもあれだよ。無意味に電話番号とかバスの時刻表とか覚えてるやつだろ。絶対。
ふて腐れていると、レイが記憶力の違いを見せつけてくる。
「セバスティアン1世は1578年、エンリケ1世が1580年に死去している。ポルトガル併合はその年だ……あくまで、俺が知っている歴史では、って話だが」
実際には、私が即位した年――1559年の年末に、フィリペ王が継承戦争を制し、ポルトガル併合を実現している。
ざっと20年も早まっている。
どうやら私が知らない間に、歴史は、とっくに大きく変わっていたらしい。
「……何が起こったの、1559年1月に……」
その呟きは、答を期待してのものではなかった。
例え、そこに何か原因や理由があったとしても、到底、私たちの理解の及ぶ範囲の話ではない気がする。
そう思ったが、レイは何かを閃いたように目を見張った。
「――待てよ。セバスティアン1世、エンリケ1世、エリザベス1世、メアリー・スチュアート……この4人が死んだら……」
ブツブツと独り言を続け、いきなり声を上げる。
「あ。くそ、今すげぇ気持ち悪いこと思いついた」
「な、何? どうしたの?」
ただ事ではない気がして、私が恐れながら聞くと、レイは端正な顔を近づけ、深刻な声で囁いた。
「いいか、あくまで仮定だと思って聞けよ。この4人が1559年1月の時点で死んでいたら、歴史がどう変わったかを推測すると――まず事実として、セバスティアン1世とエンリケ1世が早世したことで、スペインのポルトガル併合が早まった」
「うん」
塾の先生の解説を聞くように、1つずつ頭の中に落とし込む。
「メアリー・スチュアートは、あの時点で、自分が先に死ねばスコットランドはフランス領になるという条約に独断で署名している。つまり、あの時メアリー・スチュアートが死んでいたら、スコットランドは確実にフランスの物になっていた」
そうだ。マリコが憑依する前のメアリー・スチュアートが結んだその条約は、彼女の夫が夭折し、メアリーが寡婦となったことで無効となった。
スコットランドは、フランスの鎖から解放され、プロテスタント国家への道を歩んだ。
「そして、エリザベス1世が戴冠前に死んでいれば、軍事・経済両面で極端に衰弱していたイングランドは、国教が定まらない混乱が続き……ポルトガルを併合して富強化したスペインに、遅かれ早かれ強奪されていた」
何かが見えてきたような気がした。
そうなると……つまり……もし、それで誰かが得するようなことがあるとすれば――
「――つまり、ヨーロッパに、ローマ・カトリックの時代が続く」