第174話 それは、主の思し召しか
「レイ、なの……?」
信じられない気持ちで、目の前の男を見つめる。
前髪を掻き上げてこちらを凝視していたバーコット医師――箱田玲が、金縛りが解けたように叫んだ。
「おまえ……やっぱり、エリか?! つか、何で、お前がエリザベス女王なんだ……!?」
「エリ……?」
隣で、セシルが訝しむ声が聞こえた。
「貴様、女王陛下の御前で無礼な……!」
「下がって、セント・ロー」
サー・ウィリアム・セント・ローが1歩を踏み出し、剣の柄に手をかけるのを、短い言葉で抑える。
私も混乱していた。
周囲が注目する中、私は玉座を降り、レイの前に歩み寄った。
声をひそめて、日本語で聞く。
「どうして……どういうこと?」
レイの傍にいたケアリー達が、それを聞いて不思議そうな顔をしたが、どこの国の言葉かは分からないはずだ。
立ち上がったレイも、私と向かい合って日本語で答えてくる。
「こっちが聞きてぇよ。死んだと思ったら気が付いたら16世紀のドイツにいた。こんなわけ分かんねぇ話あるか?」
「同じよ、私も」
「…………」
見返してくる相手の視線を受け止める。
やっぱりレイだ。
身なりは随分様変わりしているし、髪や顔も煤や泥で汚れていたが、近くで見ると改めてそう実感して、こんな時だというのに懐かしさが込み上げた。
だが今は、再会を驚いている場合でも、感傷に浸っている場合でもない。個人的な話はそこまでにして、私は英語で彼に頼んだ。
「……その話は後で。あなたに、私の娘を診てもらいたいの」
「娘……?」
「でも、その前に、お風呂に入ってちょうだい。そんな不衛生な状態で病人に会わせられないわ」
泥まみれの男に、ため息交じりに頼む。
「……そうさせてもらえると助かる」
ニヤリと笑った男のふてぶてしい態度に、傍らで見ていたケアリーは分かりやすく顔を歪めたが、突っかかるまではしなかった。
レイから、それまでの喧嘩腰の態度が消え、私はすぐに周りに指示を出した。
「すぐに連れて行って、入浴の準備を。清潔な服を用意して。バーコット医師は、準備ができ次第、すぐにアンの病室へ。何か必要な物は?」
「感染症の疑いがある。マスク、手袋、替えの作業医、大量の沸かした湯と消毒用のアルコール。病室を出入りする人間の消毒の徹底」
「分かったわ。すぐに準備します」
打てば響くような返答に、こちらも即座に了解し、周囲に伝える。
ケアリーにレイを案内するように命じ、同じく泥だらけのディヴィソン君とハットンと共に下がらせた。
彼らの姿が見えなくなったところで、私は周囲の疑念交じりの視線を浴びながら、背筋を伸ばして玉座まで戻った。
静かに椅子の背に身を預け、天井のシャンデリアを仰ぎ見る。
何が起こっている。
不可解な現象に混乱するが、それでも、この場に現れたのが箱田玲だったことに、一筋の希望を見出す。
彼が、あの頃の夢を叶えていれば、21世紀のアメリカで医学を学んでいるはずだった。
「陛下……」
玉座に戻った私に、右隣に佇んでいたセシルが、耳元で声をひそめた。
「あの男は、一体……」
「セシル、後で話します。今は、ただアンが助かることを祈ってあげて」
「――はい」
私の言葉に、セシルは素直に頷き、十字を切って祈りを捧げた。
それからしばらくして、アンの状態を見たレイが報告に戻った。
伸びっぱなしの前髪で顔は隠れ、うさんくささ満載だが、とりあえず風呂に入って着替えた分、小奇麗にはなっていた。
その場には、秘密枢密院とキャット、レディ・メアリー、ディヴィソン君、ヘンリー・ケアリーだけを残した。
「天然痘だな」
「天然痘……!?」
その診断に、全員が青ざめた。
「本当に……?」
「もう丘疹が出始めている」
思わず聞き返した私に、レイが断言する。
天然痘は、ペストと並んで恐れられる、非常に感染力の強い伝染病だ。致死率も高く、歴史上、新大陸に上陸したスペイン人によってもたらされた天然痘で、免疫のないインディアンの部族が全滅したという話も聞いたことがある。……ちょうど、この時代だ。
「…………」
絶望で目の前が暗くなりかけたが、もしそれが本当に天然痘ならば、倒れている場合ではなかった。この宮廷に、疫病を流行らせるわけにはいかない。
「感染の……拡大を、防がなきゃ……」
「天然痘の感染経路は、患者の皮膚病巣との接触や飛沫感染だ。感染を防ぐには、感染者の隔離が必要になる。天然痘ウイルスの潜伏期間は7~17日。感染経路に心当たりは?」
今から2週間前といえば、ちょうど行幸の帰り道だ。
「はっきりとは分からないけど……行幸の帰路で、いくつかの町に立ち寄って教会を視察した時に、アンも同行したことがあるわ。中には不衛生な場所もあったから、もしかしたらそのどこかで」
「同じような行動を取った人間で、症状を訴えている人間は?」
「どう? キャット」
「特には聞きませんわ」
女王付き侍女であるアンの行動範囲は限られる。女王身辺に侍る人員を管理する立場にある筆頭女官のキャットは、首を横に振って答えた。
アン以外にまだ発熱などを訴えている者は身近にいない。だが、感染後のアンと接触した人間は、すでにうつっている恐れがある。
「感染力を持つのは発病後だ。ここ5日間で患者と接触した人間を全員隔離しろ」
発病後。その情報は救いだった。潜伏期間内全てで接触した人間に疑いをかければ、相当な範囲に影響が及ぶ。
「……セシル、今日までの5日間の間に、アンと接触のあった者達を隔離して、今すぐに。天然痘は人から人に感染する病気よ。彼らの中に感染者がいたら、自由に行動をさせていたら一層感染範囲が広がって、取り返しのつかない事態になる」
「以前、学者と論じていた、人や物を介して移る毒――ばい菌というやつですか」
「ええ」
ものすごくざっくりとした解釈だが、それで大方間違ってはいない。
セシルは私が未来の記憶を持つ人間だと知っており、思考が柔軟で理解が早い。彼の協力を仰ぐのが最も効率的だろう。
当然ワクチンなど存在しないこの時代の人間は、大半が免疫のない人間なはずだ。
「大人数に感染したら打つ手はありません。彼らに感染が見られないと確信が持てるまでは、外部との接触を断たねばならない。それから……」
「天然痘ウイルスの消毒薬抵抗性は高くない。アルコール消毒、煮沸で不活性化出来る」
「宮殿中の厨房で火をくべてお湯を沸かして、あと、御用商人にすぐに大量の蒸留酒を手配するように発注して」
「御意」
レイが伝える情報を、私の言葉で伝える。彼らは、私の指示でしか動かない。
迅速に動き始めた宮廷に、レイが感心したように呟いた。
「大したもんだ。これが絶対君主の力か」
「レイ、アンは助かるの?」
「分からん。まだ早期のようだし、出来る限りの対症療法で、やるだけやってみるしか」
「必要なものは全て用意するわ。お願い、あの子を助けて」
「……あれはお前の娘なのか?」
レイの確認に、私は即答した。
「私の娘のようなものよ」
「ふーん」
微妙な相槌を打ち、レイが頭を掻いた。鼻筋の通った顔が、長い前髪の下から見え隠れする。
「患者の傍にいていいのは、免疫のある人間だけだ。エリ、お前も隔離だ」
「……私も……?」
セシルには指示を出していながら、自分のことは度外視していたので、指摘されて気付かされる。
確かに、ここ数日アンの傍にいた。
私も、すでに、天然痘にかかっている可能性があるということか。
急に不安に襲われ、青ざめた私を見て、レイが迷うように唇を噛んだ。
「……エリザベスは、1562年の10月に天然痘にかかり、生死の境をさまよう」
「…………!」
逡巡の後、静かに告げられた言葉に、思わず息を飲む。
この場でそれを聞いた人間にも、動揺が広がった。
「お前は占星術師か?」
「みんなそれ聞くな……あー。まぁ、そういうことにしとけ」
ロバートの問いに適当に答え、レイが思い出したように言った。
「それから……ええっと……レディ・メアリー・シドニー? ってやついるか?」
「ワタクシですが」
名乗ってもいないのに名を当てられ、レディ・メアリーが驚いたように応える。
「あんたも隔離だ。女王には近づくな」
「? いいえ、私は陛下の寝室付き侍女として……」
「いいから、女の人生台無しにしたかねーだろ」
「……?」
レイの言葉に、レディ・メアリーが怪訝な顔をする。
「レディ・メアリー、言う通りにして」
「……分かりました」
きっと、レイは何かを知っている。
そう確信し、命じた私に、レディ・メアリーは不承不承頷いた。
「あー、どうすっかな」
その間も、レイは何かをひどく思い悩んでるようだった。
背中を丸めて俯き、苛々と髪をかき回す。
レイってこんなキャラだっけ。
しばらく見ない間に、随分荒んでいる。
……まぁ、もう何年会ってないかという話だが。
私が大学2年生の夏から1年間留学していた時以来だから……単純に計算しただけで、もう10年くらい経つのか? 400年以上逆行したことはこの際置いといて。
「まあいっか。やっちまうか」
「……?」
軽い回想をしているうちに、どうやら結論を出したらしいレイが、私に向き直った。
「……牛痘を接種させる」
「牛痘を……?」
「牛が感染する痘瘡の膿だ。すぐに用意できるな?」
「それは……出来るけど……」
牛痘患者など、国家権力を用いて田舎の牧場をしらみ潰しに捜索させれば、すぐに確保できるだろう。
「それって、つまり……」
「ワクチンだ。感染の可能性のある人間全員に種痘を行う。2世紀後のエドワード・ジェンナーの偉業をかすめ取っちまうが、俺もお前の痘痕面なんざ見たくない」
「痘痕……」
生々しいその言葉に青ざめ、私は真っ先に娘のことを思った。
「アンは……」
「……出来る限りのことはする。約束だ」
「うん……」
つい甘い言葉を期待してしまったが、現状で精一杯誠実な約束をしてくれたレイに、私は小さく頷いた。
病室へ向かうレイの背中を、祈る気持ちで見送っていると――
「ああ! バーコットって、あのバーコットか!」
意味不明な叫びを残して、彼は部屋を去っていった。
「何だあの男は。頭がおかしいのか?」
そんなレイに、ロバートが不信感満載の顔で首をひねる。
「おい、ケアリー、なぜあんな奇妙な男を連れてきた」
「いや、それは……」
「よくやったわケアリー」
上司になじられ、しどろもどろになるケアリーを、私は誉めた。
「彼は恐らく、この時代で最も優れた医師です。そして、優れた未来予知者でもある――私は、主にこの出会いを感謝します」