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第171話 あるロンドンの町医者


「お若いの、遊撃騎兵隊(エスカドロン・ヴォラン)には注意なさい」


 そのドイツ特使は饒舌だった。彼がウォルシンガムの求める情報を提供するのは、先達としての親心であり――プロテスタントの親近感であり――外交官としての打算だ。新任のイングランド大使に恩を売っておくことは、彼にとって損はなかった。


 だが、その年寄り臭い俗な忠告は、あまり気持ちの良いものではなく、ウォルシンガムは無言で批難の目を向けた。それに気付いているのかいないのか、特使は世間話でもするように続けた。


「彼女らは哀れなんだ」

「哀れ?」


 男を惑わし、欺く女スパイ達の何が哀れなのか。フランス宮廷に根を張るスパイ組織の情報は当然ウォルシンガムの耳にも入っており、言われるまでもなく警戒対象として扱っていた。


「美しく、才能のある良家の子女を集め、直属の配下に置き、寵愛を与える代わりに、あの女の敵になる男を絡め取らせている。普通は男が女を誘うものだが、この宮廷では女が男を誘う」

「公序良俗を乱す行為であると、ローマ教皇にも指導を受けたのでしょう。それだけ公然の組織となっているにも関わらず、惑わされる男が愚かなだけなのでは」

「哀れだからだよ」


 ウォルシンガムの正論に、年配の特使は若い者を見る目で顔を眺めた。人の視線にたじろぐような性分ではないが、正直なところそれは、あまり気分の良いものではなかった。


「カトリーヌにより卑しめられている女達を哀れに思う。その同情心にすらつけ込まれる」

「馬鹿な」

「男は馬鹿なものだ。だが、どれほど馬鹿で色狂いの王でも、年若い貴族の娘たちを組織して娼婦に仕立て、使役した男はない。思いつきもしなければ実行しようともしない……こういうえぐい(・・・)ことが出来るのは、女だけだ」


 同情云々の話には共感できなかったが、女だから出来る行為だというのは分かる気がした。


「そうやって女達を使いながら、カトリーヌ自身には、微塵の男の影もない。信じられるか? この宮廷で最高の権力を持つ女に、誰も男が寄りつかないんだ。だが、さもありなん。あれは女じゃない」


 それはよく聞く、かの女支配者の器量を揶揄した言葉かと思ったが、特使は不可解な一言を付け足した。


「いや、女でもあって男でもある」

「……?」

「そうだな……ある意味、あれも両性具有者(エルマフロディット)だ」

「…………」


 その単語は、某殿下の嫌がらせにほとほと嫌気が差しているウォルシンガムにとっては禁句に近かったが、黙り込む若い外交官に、老いた特使は意味深に笑った。


「すぐに分かるさ」







 雨上がりのロンドンの下町は、湿った空気を漂わせていた。


「貴族が嫌い?」

「ああ」


 ロンドン市内を歩く道すがら、話を聞いていたハットンが聞き返すと、隣を歩いていたハンズドン男爵ヘンリー・ケアリーが、厳しい顔で頷いた。

 いつも明るく、飄々としているイメージのある彼にしては珍しい表情だ。


 女王の命だと急に呼び出されたハットンを待っていたのは、このケアリーと、同じく何も聞かされずに呼ばれたらしいディヴィソンだけで、女王本人の姿はなかった。


「去年の春先に、俺が陛下とカール大公のお忍びに同伴したことは覚えてるか?」

「はい。あの時は、宮廷中が大騒ぎになって大変でした」

「……うん、ああ。俺もあの後、ひどい目にあった……」


 色々思い出したのか、げんなりするケアリーが話を続ける。


「実はその時に、街で強盗に襲われて怪我をした少女がいて、お忍びだっていうのに陛下が飛び出しちまって」

「あの方らしいです」

「ほんとそれな。それでもまぁ、医者に診せるってんで、手近な人間捕まえて町医者を紹介させたんだ」

「今から行くのは、その時の?」

「ああ」


 ケアリーが頷くと、横で会話を聞いていたディヴィソンが参加した。


「その人が貴族嫌いだから、僕らを連れて行くことにしたんですか?」

「そういうこった。誰にでも頼める仕事じゃないから、女王に近いあんたたちがいいと思ってな。ハットンだけだと貴族っぽく見える恐れがあるから、ディヴィソンも隣にくっつけとけば、良いあんばいに金持った庶民階級の依頼人らしく見えるかなと」

「それはどういう意味でしょうか……」

「気にすんな。別に田舎臭いお人好しっぷりが滲み出てるとか言ってねーから」

「アレ。今ハッキリ聞こえた気が……」


 ディヴィソンが腑に落ちない顔で呟く。ハットンは気になっていたことを質問した。


「そこまでして女王陛下に引き合わせたいような人物なのでしょうか? 城へ連れて行くとなると、結局どこかでバレると思うのですが」

「陛下には、どんな手を使っても連れてこいと言われている。それに、俺も前はたまたま身分を明かさずに診て貰えたが、ありゃたまげた名医だぜ。一体なんでこんな下町で町医者やってんのかと嗅ぎ回ったら、どうにもきなくせぇ。元はフランス王宮に仕える宮廷侍医だったとか」

「ええっ?」


 ディヴィソンが目を丸くして驚く。

 

「本人が酔っ払った時に嘯いているだけだから信憑性は半々だが、いわれのない罪で追放されてロンドンに流れ着いたって話だ」

「それで、貴族嫌いですか」


 ようやく話は繋がったが、どうにも謎が多い。


「でも、うさんくさくないですか、それ。酔っ払いの町医者なんでしょう。しかも流れの」

「ダメ元だ」


 心配するディヴィソンにも、ケアリーは開き直ったように言い切った。


「そいつが昼間の大衆食堂で、錬金術師と喧嘩騒ぎを起こしてた男だと気付いた時には、確かにうさんくさせーと思ったが」

「いや、うさんくさいですよそれ。ただの輩じゃないんですか」


 ディヴィソンが常識的な突っ込みを入れるが、ケアリーは大真面目な顔で続けた。


「宮廷侍医云々なんて話はいかにもホラっぽいが、実際そいつが怪我人の治療をしていた時のことを思い出すと、あながち嘘でもないような気がした」

「…………」


 そう言われてしまえば、実際に見ていない人間からすると黙るしかない。

 何にせよ、女王の命令ならば、連れて行く以外に選択肢はなかった。


「もうこれしかねぇんだ。なんとか助けてもらわないと……あのままじゃ、陛下の方が壊れちまう……」


 思い詰めた顔で呟くケアリーに、瀕死の床に臥す愛娘を想う女王が、どれほど心を痛めているかを推し量る。


「僕も信じます。アン様は絶対に助かる。ハンズドン男爵、なんとしても、そのバーコット医師にアン様を診てもらいましょう!」

「……ああ」


 重苦しい空気を払拭するように、ハットンが明るく言い切ると、それまで難しい顔をしていたケアリーが、ようやく笑みを見せた。


「もうすぐだ。この路地の角を曲がれば……」


 ケアリーの案内を受け、辿り着いたのは、到底彼らのような身なりの人間がうろつくにはそぐわない、薄暗い路地裏だった。


「ここ……?」

「ここ」


 信じがたいように確認するディヴィソンに、ケアリーが肯定する。


「ここは……エールハウス……でしょうか?」


 ハットンも、不思議な気持ちで目の前の店を見た。

 外観は、小さく古びれた居酒屋(エールハウス)にしか見えないが、確かに入り口の前に吊り下げられた看板には、上から巻き付けた布に、適当な字で『診療所』と書かれていた。


「俺も最初なんじゃこりゃと思ったが、どうも聞くところによると、ロンドンに流れ着いたそいつが、タダで診療してやる代わりに人の家を転々と世話になってるうちに、口コミで評判が広がったんだと。で、跡継ぎがいなくて引退するつもりだったこの店のオーナーが場所を貸してくれたらしい」

「へー……じゃあ、やっぱり腕の良い医者なんですね」


 周囲が良くしてくれるということは、それだけの人物なのだろうと気を取り直し、ハットンは店の入り口の前に立って深呼吸をした。


「じゃあ、俺はここで待ってるから。これだけ狭い場所じゃ、声は聞こえる。何かあったらすぐに俺も入るから、頼むぜ」


 鍔広の帽子をかぶり直したケアリーが、声をひそめ、若い2人に託す。


「ごめんください」


 ハットンが意を決してノックをするが、返事はない。


「ごめんください。入りますね」


 仕方がないのでそのままドアを押す。古い木の扉が、軋んだ音を立てながら開いた。


「うわ、酒臭っ」


 店に入った途端、ハットンの後ろにいたディヴィソンが、鼻をつまんで呟いた。

 狭い店の中は、アルコール臭が充満していた。

 入って左手奥がカウンターになっていて、右手にテーブルが2つ3つ置ける程度の空間がある。

 まず最初に目についたのは、カウンターの奥の棚を占拠する大量の酒瓶だった。


「やっぱり飲み屋なんじゃ……」


 ディヴィソンがそう呟きたくなるのも無理はない。


 店内に視線を巡らせると、本来テーブル席がある場所には簡素な寝台が置かれ、壁には何に使うのか分からない奇妙な道具がかけられていた。部屋の隅には、空き瓶が山のように積まれている。


 そして、その店の奥――1番入り口から遠いカウンター席で、乞食のようなぼさぼさの頭の男が、酒を飲んでいた。


 怪しい。




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