第170話 ノストラダムスの予言
「アンはまだ熱が下がらないの?」
「ええ……」
朝、着替えながらレディ・メアリーに問うと、彼女も心配そうな顔で頷いた。
アンの体調不良が発覚したのは一昨日のことだが、翌日になっても回復せず、昨日は1日休ませた。今日も、ずっと床に伏せっている状態だ。
「医者も、ただの風邪だろうとは言っていたのですが……日に日に熱が上がっていて」
「そう……アン……」
ここまで高熱が続くとなると、インフルエンザとか、そういう病気かもしれない。
心配でたまらなかったが、その日、私はずっと傍についてあげられるような状況ではなかった。
9月7日は、私の29歳の誕生日だ。
心情的には、今更祝ってもらうような年齢でもないのだが、国を挙げた一大イベントである以上、公務はしっかりとこなさねばならない。
後ろ髪を引かれる思いで、ギリギリまでついてやっていたアンの枕元を離れ、朝から市内をパレードし、外国大使達の祝辞を聞いて、午後からは私室で臣下たちのお祝いを受けた。
慣例通り臣下たちから贈呈されるプレゼントがてんこ盛りになった頃、ディヴィソン君の口添えで、珍しい来訪者があった。
ウォルシンガムの家で、留守を守っていた執事長が謁見を求めてきたのだ。
主人――つまりウォルシンガムの命で、フランスから送られてきていたプレゼントを届けに来たらしい。
短い祝いの言葉以外は特に伝言も手紙もなかったようだが、フランスで流行の髪飾りやアクセサリーといった小物を、箱に詰めてたくさん贈ってきてくれた。
ヨーロッパでもっともファッショナブルな国と言えばやはりイタリアで、それらの流行を積極的に取り入れているのがフランスだ。イングランドはどう頑張っても海を隔てている分、流行の品もすぐには手に入らない。
せっかくフランスにいるのだから、現地で最新の流行のものを、というウォルシンガムの意図は嬉しかったが、あの年中黒尽くめのブレない男が、フランス貴婦人たちの最新ファッションをチェックして、細々と買い集めてくれていたのかと思うと、ちょっと面白い。
「ありがとう、すごく嬉しい……」
現地で頑張っているウォルシンガムの姿を想像できてほっこりし、執事長にお礼をいうが、その言葉は英仏海峡を隔てた本人にまでは届かない。
そう思った時、ハッと気付いた。
こ、これは……!
手紙を書く絶好のチャンスではないか!
書くネタがあるし、個人的にお礼の手紙を出す分には不自然でもない。よしよし、これはいける。
お礼に何か贈ってあげたいけど、何が欲しいか分からないから、そこはセシルに聞くとして。
我ながらナイスなアイディアに、さっそく今日、手紙を出そうと心に決める。
だが――
夕方になって、事態が急変した。
「陛下! アンが……!」
アンの病状が悪化した。看病をしていたレディ・メアリーからの報せに、私は青ざめ、寝台に横たわるアンのもとに駆けつけた。
「アン! アン、しっかりして!」
その日は夜通し、つきっきりで傍にいたが、高熱が続き、ついには譫言を言い始め、アンは何度も意識を失った。
何人もの侍医が原因が分からないと匙を投げた。7歳の少女に、それは死の宣告に近かった。
「アン……どうして……!」
突然のことに、頭が真っ白になった。
食事も喉を通らず、一睡もできないまま3日が過ぎた。
こんな時、何も出来ない無力さに打ちのめされる。原因不明の病という敵を前に、頼る先も見つからずに、気持ちだけが空回りした。
礼拝堂に通う日々が続いた。
神様。神様お願いです。何でもしますからアンを助けて下さい。
私の傍には、1番近い肉親のヘンリー・ケアリーが遣わされた。おそらく、思い詰めた私が妙な行動を起こさないよう、見張り役も任されているのだろう。人前で取り乱さないよう気を張るだけでも神経が削られ、今は出来るだけ出歩かないようにしていた。
「……っ」
1人、王室礼拝堂で祈りを捧げている時、腹部に痛みを感じ、私は背中を丸めた。
……お腹痛い。気持ち悪い。
「うっ……」
「陛下……!?」
軽い吐き気に襲われ、口元を覆う。
腹部を押さえてうずくまった私に、ケアリーが慌てて駆け寄った。
「陛下、顔色が……」
「大丈夫……多分、寝ていないだけ……」
こんなの、アンの苦しみに比べたら。
そう思うと、堪え切れない涙がこぼれた。
「……どうして……どうして、あんな小さな子が、あんなに苦しまなきゃいけないの……っ」
「…………」
「うぅ……っ、アン……アン……!」
一度あふれ出したものはとめどなく流れ、私は床に崩れ落ちて泣いた。傍らに膝をつくケアリーの気配を感じたが、女王にあるまじき醜態を晒していることは分かっても、どうにも出来なかった。
「神様……神様アンを助けて……」
「…………」
藁にも縋る思いで泣きながら祈る私の傍で、ケアリーが絞り出すような声で囁いた。
「……陛下、町医者ですが、腕の良い医師を知っています」
「……!」
「ドイツ人の亡命者で、もとはフランス宮廷に宮仕えしていたとの噂もあります。もしかしたら……」
涙に濡れた顔を上げた私に、ケアリーが励ますように続ける。
可能性があるのなら、どんな小さな希望にでも飛びつきたかった。
「成果を挙げれば、多額の報奨と爵位を約束します。無理矢理でも連れてきなさい」
「……すぐに連れてきます。ただ……」
頷き、ケアリーは顔を曇らせた。
「誰か……そうだ、ハットンとディヴィソンを連れて行ってもいいですか?」
「構わないけど……どうして?」
「その男について、色々噂を聞いたんですが、結構、面倒臭い男なんですよ――」
理由を聞いたら確かに少々面倒くさい人間だったが、そんなことに構っている余裕はなく、私はケアリーと彼が指名した2名に、すぐにでもその医者を連れてくるように命じた。
~その頃、秘密枢密院は……
その日ウォルシンガムは、宮廷を追放されたという医師の話を小耳に挟んだ。
「バーコット……?」
聞いたことのない名前だ。
その話の提供者は、フランス宮廷に赴任して3年になるというドイツ特使だった。外交官同士の情報交換や化かし合いも、業務の範疇た。
現在、ウォルシンガムは、己が来仏する以前の宮廷事情――特にカトリーヌ・ド・メディシス周辺の情報を集めていた。
「素姓の方はよく知られてないが、町医者で評判になっていたところを伯爵が引き立て、パトロンとして支援していたところ、噂を聞きつけた王室に引き抜かれて、2年前に宮廷侍医になった。それが、半年くらい経った頃、事件が起こったんだ」
「事件?」
「シャルル9世の体調が思わしくなく……まぁこれは、別段珍しいことじゃないんだが」
ウォルシンガムより20歳は年配の特使が、顎を撫でながら情報を提供してくる。
マルティン・ルターを生み出し、宗教改革の火付け役となったドイツ諸都市だが、1555年のアウクスブルクの和議によって、カトリック国家との全面闘争は終結した。
以後、断絶していたカトリック諸国とのパイプ役として赴任した前任の後を受けて、彼が渡仏したそうだが、不幸にも時を同じくして、フランス国内でも宗教対立が表面化した。
現在進行形で続く、フランス内乱の根底にあるのは、宮廷内の権力争いだ。
宗教闘争を利用して権力抗争を続けるフランス宮廷で、猫の目のように変わる権力者と政府の方針に振り回され、肩身の狭い思いをしていたらしいドイツ特使は、真っ先に新任のイングランド大使にコンタクトを取ってきた。
ウォルシンガムが把握している限りでは、彼は前任のイングランド大使スロックモートンとも、懇意にしていたと記憶している。
「カトリーヌがそのバーコット医師に王を診察させたところ、医者はその日のうちに宮廷を追われた」
「宮廷を?」
「真相は分からないが、カトリーヌの不興を買ったのは確かだ。まぁ、十中八九、この国にとって不吉な進言をしたんだろう」
ドイツ特使が遠回しに示唆したのは、この宮廷で、誰もが薄暗い気配を感じながらも口にしない未来だった。
病弱なシャルル国王の死――という。
「それからだ。カトリーヌの、アンジュー公贔屓が露骨になったのは」
「…………」
その言葉に、ウォルシンガムは眉根を寄せた。
我が子の死を宣告され、憤ったカトリーヌが医師を追い出したというところまでは分かる。支配者の意に反した進言をした者が寵を失うのは、よくあることだ。
だが、それをきっかけに愛情を傾ける先が、健康な弟の方に偏向したというのは――
「獣は弱い子を見捨て、強い個体だけ育てようとすると言いますが、なるほど、誠に理に適っている」
「……なかなか良い返しだが、大きな声ではやめておけよ」
ある種の賞賛を交えたウォルシンガムの皮肉に、年配の特使はそう忠告しながらも、愉快そうに笑った。
「カトリーヌがノストラダムスから受けた予言は知っているかね?」
「4人の息子は全て王になるというものでしょう――噂では」
「そう。だが、ノストラダムスは4人の息子が全員王になるとは言ったが、4つの国の王になるとは言っていない」
「……なるほど」
実際、フランソワ1世が夭折してシャルル9世が後を継いだことで、カトリーヌの4人の息子のうち2人は、すでに王になったことになる。
ノストラダムスの予言と、そのバーコット医師の不吉な診断が重なり、カトリーヌは、己の息子の早死にを信じたに違いなかった。
もしや、シャルル9世の結婚を急ぎ、腰の重いイングランド女王の婚約者候補にアンジュー公を宛がったのは、その辺りの不安も絡んだものではなかったのか。
シャルル9世が独身のまま死ねば、ヴァロア朝は断絶の危機に陥る。残るのはソドムの三男と、まだ7歳の、こちらも決して健康とは言い難い幼い末弟だけだ。
彼らが全員、跡継ぎを遺さずに世を去れば、男子の王位のみを認めるサリカ法に基づき、王位はブルボン家の若い当主が継ぐことになる。
それは、ヴァロア朝の――カトリーヌ・ド・メディシスの――終焉だった。




