第169話 親愛なるクマさんへ
夜の楽しみが出来てウキウキしながら仕事をこなし、仕事をこなし、仕事をこなし、終わった頃には、とっぷり日が暮れていた。
今日はのんびりお風呂に入りたかったので、出来るだけ早く帰りたかったのだが、やっぱり無理だった。くそぅ。
「おかえりなさいませ、陛下。今日も遅くまで……お疲れでしょう」
「ただいま。本当にね……でも今からでもお風呂に入るから! あら……? アン?」
寝室に戻るとキャットの労いを受けたが、いつも真っ先に駆け寄ってくる少女の姿がない。視線を巡らすと、ソファに腰かけた少女が、フランシスを膝の上に抱いたまま、熱っぽい顔でぼんやりとしていた。
「どうしたのアン。体調が悪いの?」
「陛下、おかえりなさいませ。夕方から熱っぽくて、今日はもう寝るようにと勧めたのですが、陛下がお戻りになるのと待つと言ってきかなくて……」
慌てて駆け寄ると、傍らで心配そうに寄り添ってやっていたレディ・メアリーが答えてくる。
額に手を当てると、確かに少し熱い。
「微熱ね。風邪かしら。しんどい? アン」
「……へいか、おかえりなさいませ……」
私が話しかけると、アンが潤んだ目を向けて、回らない舌で迎えてくれる。
その身体をぎゅっと抱き寄せると、間に挟まれたフランシスが少女の膝を飛び降りた。
「痛いところはない?」
頭を撫でながら優しく尋ねると、少女は力なく首を横に振った。
「アンは良い子だから、ちゃんと毎日手洗いもしてるにねぇ」
覗き込む私に、少女は黙ってコクンと頷いた。
汚い水でやると逆効果なので、濾過された上水道の通ったロンドン市内に限って、私は公に手洗いを推奨していた。
この時代のヨーロッパには、小学校の保健体育で習う程度の、基本的な衛生学の知識も知られていない。
これはキリスト教が医療を神への冒涜と見なしたからであり、古代ローマやギリシア時代に発展した医学は、中世の間低迷した。このルネサンス期に、古代文化の復興が着目され、学者レベルでは科学や医学の発展が著しいが、民衆レベルでは、未だ迷信やまじないが重宝され、過った療法が蔓延しているのが現状だ。
私とて専門的な医学の知識があるわけではないのだが、それでもビックリさせられることは多い。
特に、出産での母子の死亡率の高さが気になり調査したところ、分娩環境に気を配っている上流階級ですら、産婆や助産師が消毒もしていない手で赤子を取り上げていると知った時は発狂ものだった。
なんせ、菌という考え方がない時代だ。学者たち相手に殺菌だの感染だのと説いてもなかなか通じず、話が進まなかったので、伝家の宝刀「女王命令」を発動し、助産師と産婆に対し、赤子を取り上げる際には必ずアルコール消毒をすることを義務づけ、これに違反した者は罰する条例を発布した。
つべこべ言わず、とりあえずやれ、である。
私も偏屈な学者たちを納得させるだけの、立派な論文をかけるほど専門知識があるわけではないし、何よりもそんなものを書いて彼らを承伏させる時間も手間も惜しかった。
結果が出るようになれば、理屈がどうであれ受け入れられるはずだ。
正しい理論を知ることは勿論大切だが、新しい説を広く浸透させるには時間がかかる。
とにかく現状起こっている問題を解決したいので、力業で実践を先行させ、理論は後からついてこいという戦法である。
絶対君主という立場は、こういう時に便利だ。これが一医者の立場だったら、この問題を解決させるだけで一生を使い果たしかねない。
「暖かくして早く寝なさい。明日はお休みしていいから」
「でも……」
「女王命令よ」
「はい……」
この年齢で責任感の強い侍女が、しょんぼりながらも従順に頷く。
「そうだ、寝る前にジンジャーティー作ってあげる」
そう言って笑いかけると、アンが子どもらしい笑顔見せた。
生姜に砂糖とはちみつやシナモンを混ぜて煮立てて作るジンジャーシロップは、私の数少ない得意料理(?)だ。
仕事で、ジンジャーをテーマにした新商品の開発に携わったことがあり、生姜の効用を調べているうちに、ついでにジンジャーシロップに手を出したらハマった。色々使い道はあるようだが、私はもっぱらお湯で割ってジンジャーティーにして愛飲している。
香りも良く、血行促進、リラックス効果もある、寒い冬にはもってこいのドリンクである。
言わずと知れたこの生姜。漢方や香辛料にも利用されている優れものだが、実は16世紀のイングランドでも、薬効を認めたヘンリー8世がペスト対策としてジンジャークッキーを国民に食べるように推奨したため、親しまれていた。これは、こっちに来てから知った話だ。
とはいえ、本当にペストに効き目があるのかどうかは知らない。免疫を高めたりする効果は期待できるので、摂って損はないだろうが。
「うちの子も体調が優れなかったのですけど、陛下に頂いたジンジャーティーを飲んで、ぐっすり眠ったら元気になりましたわ」
「季節の変わり目だからね、気を付けないと。レディ・メアリーも飲む? 確か、この前作ったのがまだ残ってたはず……あ、あったあった」
「喜んで頂戴します。すぐにお湯を沸かして持ってきますわね」
棚を探る私にホクホク顔で頷き、レディ・メアリーが厨房に向かった。
身体が内側からホカホカするので、寒い時期に自分で作って飲み出したのだが、せっかくなので周りにも勧めたところ、好評を博し、瞬く間に宮廷人に広まった。就寝前のジンジャーティータイムが流行して、冬場の宮廷の生姜消費量が増加したほどだ。
レディ・メアリーが運んできたお湯と特製シロップをカップに注ぎ、3人でローテーブルを囲んで束の間のティータイムに浸る。
「ふぅ……あったまるー。これから、またこれが活躍する季節になるわねー。本当は夏場も飲んだ方が健康にはいいんだけど」
「陛下は本当に、博識でいらっしゃいますこと」
気持ちがほぐれて呟いた台詞に、レディ・メアリーが感心してくる。
「いやまぁ、ほら。本とか読んでるとね、色々書いてるし……アン、もう眠たい?」
軽くごまかして隣の少女を振り返ると、飲みかけのカップを手にしたままうつらうつらしていた。
「ほっこりしたら眠くなっちゃったのね。もう寝なさい。今日は、遅くまで待っていてくれてありがとう」
今夜は部屋までアンを連れて行って、寝かしつけた私は、自分の寝室に戻り、おもむろに便せんを取り出して机に向かった。
「手紙……」
セシルに勧められた時はとっさに断ってしまったが、ずっと頭の片隅には引っかかっていた。
さて……
試しに書いてみようと思ったのだが、1行目からつまずく。
なんて書き出そう。
四角張った内容なら定期の進捗確認で十分だし、私的なお手紙なのだから、少しくらい可愛げがあった方がいいだろうか。
現代では筆無精を極めていた私も、この時代に来てから、さすがに手紙を書く機会が増えた。とはいえ、完全にプライベートな手紙と言えば、マリコとのやり取りくらいだ。あれは、ほとんどこちらから発信することがなく、マリコの怒涛のような愚痴や自慢に返信するだけだったので楽だった。
目的のない手紙ほど書きにくいものはない。
少し考えてから、とりあえず筆を進めてみることにした。試しに。
『親愛なるクマさんへ
お元気ですか? 私は今日も元気です……』
うわ、芸のない書き出しだな-。
便箋を握り潰す。
いや、別に奇抜さを求めているわけじゃないんだけど。
あまりにも定型文過ぎると、義務で出しているようで、それだったら仕事の定期報告で十分というか。
そもそも近況報告っているのか? いらないよね。自分のことばっかり語るのもアレだよね。
かといって、ウォルシンガムに何を聞こう。お元気ですか? 仕事上手くいってますか? これ完全に上司が仕事の進捗詰めてるよね。プレッシャーだよね。
便せんを握り潰す。
新しい1枚を取り出し、宛名までを書く。
だいたい、その辺の報告はセシルを介してマメに上がってくるし。もっとプライベートで聞きたいこと……あいつのプライベートって何だ? 普段、仕事以外何してるか知らないぞ。
プライベート……
エ、遊撃騎兵隊の魔の手に引っかかってませんか……?
聞けない。
試しに書いてみるがこれはない、と思って便せんを握り潰す。
……もうやめようかな。
筆を握ったまま1行も進まないまま白い便せんを睨みつけていた私の脳裏に、ふと諦めが過ぎる。
新しい1枚を取り出しながら反省し、問題点を探り出す。
無理に体裁を整えようとするからいけないんだ。
ここはもっとこう、素直な気持ちをだな……
あ、会えなくてさびしいです……?
って彼女かぁぁぁぁ! 書けるか!
途中まで書いて、手紙を握り潰してポイ捨てる。
が、例のごとくゴミ箱には入らず、レディ・メアリーが拾おうとするのを、慌てて制して自分で捨てた。
なんとなく見られたくない。
変に意識すればするほど文面がおかしくなって、思考が別の方向に向かい出す。
そもそも女王が一外交官に理由もなく個人的な手紙出すって変じゃない? あやしくない?
周りから特別扱いし過ぎとか思われたりしないだろうか。
気にし過ぎな気もするが、周囲から妙に勘ぐられたりしないだろうか、とかまで考え出すと、結局書けなかった。
~その頃、秘密枢密院は……
深夜、ランプを手元に置き、まだ机に向かっていたセシルは、今日届いた嘆願書に目を通し終えた後、一息をついた。
おもむろに、傍らに置いていた手紙を手に取る。
定期報告書と合わせて、ウォルシンガムからセシル宛てに届いた私書だ。
女王への報告は、冷静に客観的意見を述べた形で書かれていたが、セシル宛の個人的な手紙の方は、上奏の可否をセシルの判断に任せている分、赤裸々な実情が、私情を交えて綴られていた。
アンジュー公は女王にふさわしくないソドムの男であり、毎夜お気に入りの寵臣を寝室に侍らせ、不潔な饗宴に耽っている。
以前などは、真昼間にドイツ特使と宮廷を移動している時に、突然エリザベス女王の扮装でウォルシンガムの前に飛び出し、「これで仕える気になるか」とふざけられた。
さらに悪いことには、公が主催した宴の席で、巨体の醜女にエリザベス女王になりきらせ、自らは臣下になりきり、膝をついてその女の美しさを讃えるという滑稽劇を披露した。
あの男に女王への畏敬の念はなく、また結婚の意思もない。
ただ立場的には、イングランドという莫大な持参金を持つ花嫁は抗いがたい魅力があり、カトリーヌはこの結婚を強引に推し進めようとしている。
……等々、具体的に並べられた公の行状は、到底女王にそのまま伝えられるような内容ではなく、セシルの判断で奏上は控えていた。
女王への幼稚な侮辱に、ウォルシンガムが怒りを抑えている様が目に浮かぶようだ。
『おそらくは見目で言えば、美男好みの女王陛下も納得される器ではありますが、中身が下劣過ぎます。分別もなければ思慮もなく、また道徳観念もありません。フランスの宮廷は洗練されていると聞きましたが、宮廷内の公序良俗は乱れ、公爵が女王の勅命を受け正式に派遣されたフランス大使にふざけてソドムを持ちかけるなどという到底信じがたい悪行にも、面白半分の目で眺めて笑っているだけです。この宮廷は、あらゆるものが腐敗してます。私情を申し上げれば、一刻も早く清廉なる忠臣らと清純にして高潔な我が女王の住まう宮廷の空気を吸いたいところですが、この婚約交渉を隠れ蓑に共戦条約の締結に向け尽力を尽くす間は、祖国への忠誠を胸に耐え忍ぶ覚悟です。何か、あの方を思い起こすよすがとなるものがあればいいのですが……』
非常に憤慨した様子で綴られた内容から、潔癖なウォルシンガムがソドムの公爵の誘惑に対し嫌悪感をあらわにしていることが伺えた。
女王がウォルシンガムの貞操を心配しています、と書き送ったら、おそらくあの男は憤死するだろう。
ポロリと漏らした、らしからぬ弱音に、彼がかなり精神的に参っている様子が見て取れる。
「ふむ……」
この手紙を読んで、苦境に立たされる可愛い後輩のために、セシルも一肌脱いで、女王に手紙を送ってみてはどうかと勧めてみたのだが……
ハンカチなり手袋なり、身につけているものを何か1つでも、一緒に贈ってやれば励ましになるのでは、と提案したかったのだが、その前段階で拒否されてしまった。
遠く離れた親しい者によすがを贈るのも、手紙を綴るのも、彼らにとってはごく一般的なことだが、彼女の感性では何か特別な意味があるのだろうか。
昼間の女王の不可解な反応を思い出すが、その心情は、時のイングランド宰相にも計りかねた。




