第167話 フランス大使の受難
しばらくは良いペースで処理が進み、集中していた私は、ふと、気になる箇所があって顔を上げた。
「ねぇ、クマさ――」
斜め後ろを振り返りながら視線を上げたところで、大きな翠色の瞳とかち合う。
「……ッ」
っていないし! 英仏海峡の向こうだし!
セルフ突っ込みし、驚いたように目を丸くして見返してくるハットンから視線を引きはがす。
机にかじりついて書類に目を落とすものの、全く頭に入らなかった。
いやいやいや、ウォルシンガムがいなくなったのって、昨日や一昨日じゃないし!
今更何言ってんの私!
なし! 今のなし!
自分で自分にびっくりする。ハットンは何も言わなかったが、それが余計にいたたまれない。先生に「お母さん」と呼びかけてしまった小学生のようないたたまれなさだ。
「陛下、長官なら今フランスにいますが」
逆隣にいたディヴィソン君が、流せばいいのに大真面目に突っ込んでくる。
「わ、分かってるわよそんなのっ! ク、クマさん……ウォルシンガムから、情報部の方に何か連絡はあった? って聞こうと思ったの。どうなのディヴィソン君」
「はぁ」
我ながら無理やり過ぎる繋げ方をしてみる。ディヴィソン君は曖昧に頷きながら、私の質問に答えた。
「どうもフランス国内では、この春にサンジェルマンの和議で信仰の自由を認めて以降、急速にカトリック教徒の中でユグノーへの悪感情が広がっているようです。地方を中心にカトリック教徒によるユグノーの虐殺事件が頻発し、それに報復するユグノーとの諍いが絶えず、むしろ和議以前より両者の緊張感が高まっているとも言えます」
政府がプロテスタントに妥協したことにより、国民の大多数を占めるカトリック教徒が反発し、逆に治安が悪くなっているということか。完全に負のスパイラルに陥っている。
この分だと、再び何かをきっかけに第3次の抗争が勃発してしまってもおかしくない。確か、ユグノー戦争は相当長い間断続的に続いていたはずだが、きっとこういう状態が続いていたのだろう。
ユグノー戦争は、宗教戦争と政争が複雑に絡み合った、非常にやっかいな内戦だ。よその国が下手に首を突っ込んでいい問題ではないが、虐待されているユグノーたちを見殺しにするというのも、プロテスタント国家としていかがのものかという面もある。かといって宗教の為にフランスに喧嘩を売るわけにはいかないし、そんなことをすれば、スペインもここぞとばかりにイングランドを潰しにかかるだろう。
難しい問題だった。
「そう……で?」
「え?」
私が促すと、ディヴィソン君は目を瞬かせた。
「ええと……以上です」
おお、そうか。
なんとなく拍子抜けしてしまう。
ここでウォルシンガムならば、客観的な情報を提供した後、すかさず自分の意見を述べ、議論に入るのだが、ディヴィソン君の報告は、本当に報告のみで終わった。
別にそれで仕事に不足があるわけではないが、なんとなく違和感がある。
「……いいわ。ありがとう」
だいたいウォルシンガムは、こういう場合ユグノーに同情的で、割に過激な主張をしてくるのだが、それに対し私が反論することで見識が深まるという効果があったりする。奴と口喧嘩をするには頭を使う。
どうにかして私を言いくるめようと、色々ねじ込んでくる男に苛々することもあるのだが、ないならないで何となく物足りないものだ。
……と、いう風に、いちいち比較して違和感を感じている自分に気付いて苛つく。
くそぅ。
ウォルシンガムめ! いっつもアイツが私の後ろにいたからだ!!
さっきの失敗の気恥ずかしさもあり、ここにはいない男に内心八つ当たりしてみる。
今頃フランス宮廷でどうしているのやら……
まさかと思うが、遊撃騎兵隊に引っかかってたりしないだろうな。
~その頃、秘密枢密院は……
視線を感じ、ウォルシンガムが顔を向けると、広いホールの真反対から、やけに綺羅を飾った一団が近づいてきた。
その場にいた人間が、次々と首を垂れ傅いていく。
容姿に優れた青年だけで構成されたその集団の中央を歩くのは、ブルネットの巻き髪を靡かせた鳶色の目の若い貴公子――王弟アンジュー公アンリだ。
そもそもウォルシンガムがフランスに来た最大の目的は、名目上、この男と女王の結婚交渉を進めることだった。しかしながら、フランス宮廷の事実上の支配者カトリーヌ・ド・メディシスに『愛らしい目』と呼ばれ、甘やかされ放題に育った王弟殿下は、噂に聞く以上の気まぐれな人物で、何度面会を打診しても無視され、まだ直接話をする機会は与えられていなかった。
乗り気なのは母親だけで、当の本人は、はるかに年上の女性との結婚話にうんざりしているとの噂もある。
当面、イングランド女王の婚約者候補と見なされるその王子は、一見して、貧弱な兄王とは対照をなしていた。およそ17歳とは思えぬ発育した体躯を持ち、よく日に焼けた精悍な顔には、自信と高慢さが溢れている。
「はじめましてだな、イギリス大使殿」
「これは、アンジュー公爵」
跪いて首を垂れたウォルシンガムを、アンジュー公は王族らしい横柄さで見下ろした。
「噂はかねがね聞いている。1度ゆっくり話がしたいと思っていた」
「……光栄に存じます」
何度も申し込みをしていたのにこの言い草だ。
皮肉の1つも出そうになるのを飲み込み、大人しく受け取っておく。
まさか顔を合わせるだけで、1ヶ月近く足踏みをさせられるとは思っていなかった。
「兄上がとてもお前を評価していた。あの人のヒトを見る目はあてにならないと思ったが、逆にいえば、あの曇った眼にも映るほどに際立って見えたということだろう」
「我が身に余るお言葉でございます」
特に感動もなかったが、礼儀として謙遜する。
「顔を上げろ」
命じられ、黙って顔を上げると、若い王子が興味深げに覗き込んできた。
近くで顔を見るのは初めてだが、なるほど噂に聞く通り、不健康に青白く、死んだ魚のような目で玉座に座るシャルル国王に比べ、肌艶も良く、若さに溢れた溌剌とした美貌が目を引いた――だが、卑しい。
「イタリア人の血は?」
「いいえ」
不躾な質問だったが、実際、イタリアに滞在し諜報活動を行っていた時は、よく現地の人間に間違われた。それを利用し、イタリア人になりすまして彼らのコミュニティに潜入したこともある。
この時の縁で、マキャヴェリの『君主論』に触れ、機密文書の暗号解読の研究に没頭したことが、その後のウォルシンガムの人生の指針を定めたと言っていい。
「母上と気が合いそうな顔をしている」
それは、カトリーヌがイタリアに故郷を持つ故にそう言ったのか――はたまた、別の意味か。
「母上は俺にイングランド女王と結婚して欲しいらしい」
「…………」
「理由が分かるか? 若く美しいメアリーにフランス宮廷に戻ってこられるのが怖いからだ。フランソワ兄上のように、俺が王妃の言いなりになるのも怖いのだろう。行き遅れの年増女が相手なら、俺が魅了されることもなく、母上の地位は安泰だ」
随分な軽口だったが、それはある程度、カトリーヌの本音を暴いたものでもあるのだろう。
とはいえ、単純にこの男は、2人の女王を選べる立場にある己に優越を感じているだけだ。
「立て」
子どもっぽい挑発に顔色1つ変えずにいたウォルシンガムに、アンジュー公が顎をしゃくって命じた。
言われるままに立ち上がると、視線の位置が逆転する。
「デカいな、俺よりデカいか」
感心したように言いながら、じろじろと見上げてくる。
「背の高い男は好みだ。やっぱり、イングランド人にしては黒いな。アッチも立派そうだ」
「…………」
若い公爵の不快な冗談に、さすがに眉を顰めると、すぐ目と鼻の先まで顔を近づけたアンジュー公が、ぐいと胸倉を引き寄せ、強引に唇を重ねてきた。
「……っ」
突き飛ばさなかったのは、賞賛すべき理性だろう。相手は腐っても王族だ。
ホールにはアンジュー公の付き人の他にも大勢人がいたが、脈絡のない王弟の行為にも、驚く者は誰もいない。
それどころか、普段、まるで威厳ある態度を崩さない英国大使が目を丸くしているのを面白がっているかのような忍び笑いが、そこかしこで起こった。
彼の嗜好は、宮廷では知らぬ者はいない。どころか、パリの市民でも知らぬ者はいないほどだった。
この手の噂ほど当てにならぬものはないが、実際に目にしては、信じる他ない。
「どうした、俺の愛の口づけを受け、何も感じないのか」
気が済んだらしいアンジュー公が、唇を離し、勝ち誇った顔で見上げてくる。
「……激しい怒りを感じます」
手の甲で口を拭い、低い声で答えたウォルシンガムが憎しみを込めて睨みつけると、アンジュー公が声を上げて笑った。
「ハハハハッ! イイ顔だ。ゾクゾクする。しばらく楽しめそうだな」
「――失礼します」
無礼を承知で背を向けたウォルシンガムに、アンジュー公が追い打ちをかける。
「帰りたがっても無駄だぞ。うちの英国大使には、出来るだけ長くお前を置いておいて貰えるよう女王陛下に伝えさせよう」
哄笑を背に受けながら、ウォルシンガムは早足にその場を離れた。