第166話 両性具有者の島
イングランドの夏は来るのは遅いが、去るのは早い。
日に日に涼しさが増してくる8月の下旬には、1ヶ月半ほどの夏休みが終わり、ロンドンに帰ってきた私は、今度はグリニッジ宮殿に移って通常業務に戻った。
この4年間で年に数回、ロンドン近郊の城に宮廷を移動しているが、そろそろ一周しそうだ。
ヘンリー8世が、新たに城を作ったり、臣下から強奪……もとい献上してもらうことが好きだったらしく、エリザベスは国中に多数の城を相続していた。
私の代に入ってからは、必要な修理や改築はしているが、今のところ新たに城を作るつもりはない。そんなところに使うお金はないし、歴代の王たちが遺してくれたもので十分足りている。
というか、その辺を維持するだけでも結構お金がかかるので、一部使わない城は、経済力のある人間に賃貸したりもしている。荒れ果てさせるよりは、その方が城も嬉しいだろう。あ、家賃収入おいしいです。
7月の末には、ウォルシンガムから無事フランス宮廷入りしたとの報告が届いていた。
ウォルシンガムがセシルから任されていた私の執務の補佐は、今はディヴィソン君とハットンの2人体制になっている。
なんだか一気に執務室の雰囲気が爽やかになったのは気のせいだろうか。
実際、グリニッジ宮殿に移ってから、私の執務中に、執務室に顔を見せる人間が増えた。
執務室だと大勢の目につかないので、ちょっとしたお願いをしたりゴマをすりに来るのにちょうどいいようだが、今まであまりそういう訪問客がいなかったことを思うと、どれだけウォルシンガムがあの顔で、入り難い空気を作っていたのかという話だ。
確かに仕事に集中できて、効率は良かったけども。
「いやー。空気が清々しい。実にさっぱりしている。やはり黒くて湿気たものを部屋に置くのはよくない!」
そのうちの1人、ロバートが今日も似たような時間に、警備を抜け出して顔を見せに来ていた。
黒くて湿気たものがいなくなってから2ヶ月近く経つが、よっぽどせいせいしているのか来る度にそんなことを言っている。実は寂しいのか。
「ウォルシンガムから定期報告はあるけど、今のところまだ、大きな進展はないようね。アンジュー公がなかなか会ってくれないみたいで、さすがのあいつも結構苦労してるんじゃないかしら」
ロバートの話を聞き流しながら、書類に署名をする筆を進める。
「きっとフランス宮廷の居心地が良くて、長居したくてそんなことを言っているのでしょう」
そうなんだろうか。
華やかなフランス宮廷にウォルシンガムが馴染んでいる姿もいまいち想像つかないのだが、世界各国でスパイとして潜伏していたくらいだから、きっと問題なくこなしてはいるのだろう。
私の方はというと、送り出す時はそうでもなかったのだが、実際いなくなってから、寂しさというか、妙な違和感を感じた。
なんか足りないというか。斜め後ろがすーすーするというか。
思えば、私の即位以来、ウォルシンガムが傍にいなかったことはほとんどなかったのだから、それも仕方がないのかもしれない。
きっとこれも、時間が経てば慣れていくことなのだろう。
「あいつも外国大使にありがちなように、現地のフランス女でも捕まえて結婚してしまえばいいんだ」
その一言には、つい筆が止まった。
それはまったく考えてなかった。
……いやいや。別に良いだろう結婚したって。
ウォルシンガムだってもう30歳だ。出世もしたことだし、家庭を持ってもおかしくない。ウォルシンガムと家庭という言葉がまったく結びつかないが。
騎士は一代限りの叙勲なので、世襲とかそういう面倒臭い問題は発生しない。臣下の結婚は自由意志だし、高位貴族や侍女たちと違って、別に私の許可を取らないといけないと決まっているわけじゃない。
一時停止したままそんなことを考えていると、署名を待っていたディヴィソン君がおずおずと声をかけてきた。
「あの、陛下……?」
「な、なによ!? 別にウォルシンガムが結婚したって私は何も……」
「えっ、長官が結婚するんですか?」
「え、しないわよ。じゃない、知らないわよ。っていうか、その辺はあなたの方が耳が早いでしょうが。そういう話があったらちゃんと教えなさいよね。黙ってするとかなしだからね。別に反対とかしないから!」
「はぁ……それは勿論、お伝えしますけど」
意気をまく私に、ディヴィソン君が不思議そうに見返してくる。
そんなやりとりをしていると、サー・ウィリアム・セント・ローが部屋に訪れた。
「失礼します。レスター伯を迎えに来ました」
「ロバート、お迎えが来たわよ」
いるかいないかすら確認せず、端的に用件を述べた護衛隊長に、私も机の裏に隠れているロバートをあっさり引き渡した。
「悪いわね、セント・ロー」
「仕事ですから」
「陛下、また夕方にお迎えに上がります!」
「仕事です」
「陛下、この哀れな囚われ人は、明朝、誰よりも早く拝顔の栄に浴せるよう……」
「仕事です」
「陛下、この恋に捕らわれた男は、次に太陽が昇るよりも早く、その黄金の髪をそよがす優しい風となって、恋しい人が眠る傍らに……」
「仕事として、全力で阻止します」
「頼むわ、セント・ロー」
「陛下ぁぁぁぁっ!」
「お仕事頑張ってね、ウサギさん」
賑やかに去っていく守馬頭と護衛隊長を手を振って見送る。
1人減って静かになった執務室で、新米補佐を傍らに置いて仕事を再開した。
「ハットン、これどういう意味?」
「それは……ええと……」
「いいわ、後でセシルに聞くから」
「すみません……」
「いいのよ。ただ、専門家の説明が必要な物は別に仕分けしておいてもらったら助かるわ。後であなたも同行して一緒に聞いておいて」
「はい、分かりました」
国内の事案について、報告書だけで読み取れない内容を補佐に聞いて判断材料にするのは私の日常だったが、よく考えれば、多岐にわたる分野の質問をして、すぐ答が返ってくるような異常な情報量は他に求めるべくもない。
私も便利さに慣れ過ぎてしまっていたようだ。
無い物ねだりは出来ないので、個々の能力の向上を図りつつ、どうやって今あるものの中で効率的に回していくかを考えなければいけない。
ウォルシンガムの時は、私の方が新米女王だったので、教えてもらうことの方が多かったが、今は教える方だ。
初めのうちはどうしても手間も仕事の量も増えるが、それは元から覚悟していたことだ。忍耐強く頑張るしかない。
……ふぅ。
ウォルシンガムは今頃、フランスで元気にしているだろうか。
~その頃、秘密枢密院は……
駐仏イングランド大使サー・フランシス・ウォルシンガムは、フランス宮廷内でもひときわ目立つ存在だった。
知性を湛えた鋭い眼差しは、およそ庶民議員出身の30歳とは思えぬ威厳を滲ませ、筋張った長い指を胸の前で揃えて、堂々とスペイン語で意見を述べる姿は、相対する者をたじろがせた。
傑物と名高いイングランド宰相バーリー卿ウィリアム・セシルの、懐刀とも噂される男。
彼の際立った有能さは、エリザベス女王がいかに臣下に恵まれているかをまざまざと見せつけ、若いフランス国王の嫉妬心をかき立てた。
「兄上が随分と悔しがっている。ああいう腹心がいれば、己もエリザベス女王のように賞賛され、今のような屈辱を味わずに済んだのにと、臣下たちに当たり散らしているようだ。周りが駄目だから自分が馬鹿にされるのだ、とな。あの人はすぐに何でも人のせいにする」
「ご自身に自信がないのでしょう」
嘲りの混じった王弟の台詞に、傍にいた側近の1人が追従する。
フランス宮廷を闊歩する17歳の王弟――アンジュー公アンリには、彼の寵を受ける若い友人たちがつき従うのが常だった。
「鏡を見れば真実がそこに映っているというのに。誰があんな、貧相で女のようにヒステリックな子供をまともに相手をする? この宮廷で生き残りたいのならば、母上の顔色さえ伺っておけばいい――それか、俺だ」
「王太后様は、シャルル国王陛下よりも殿下を愛しておられますから」
「それはそうだ。どうやら母上は、海に浮かぶ宝箱を俺に授けたいらしい。随分固くて古い鍵がかかっているようだが、こじ開ければ黄金が山となっていると聞く」
「イングランド女王は大層吝嗇で、相当の金を貯め込んでいると聞きます。そして、大使の話では立派な宮殿を数多く持ち、街は清潔で民は豊かに暮らしているとか」
「母上は喉から手が出るほど欲しいのだろう」
「殿下は興味がおありではないと?」
「宝箱の中身には興味があるが、鍵に興味があるかといわれると難しいな」
アンジュー公は、肉感のある唇を卑しく歪めた。
「女には興味がないが、年増の、それも潰瘍持ちの醜女にはもっと興味がない」
フランス宮廷には、海の向こうの小島の女王を直接見た者はほとんどいない。それでも、何かと話題になりやすい、三十路前で未婚の、男勝りな女統治者についての噂は、面白おかしく飛び交っていた。
「駐英大使は、エリザベス女王は二十歳の乙女に見えるほどに若々しく、知性と美貌と威厳を兼ね備えた英国一の才女であると報告しておりますが」
「どこまで信じる?」
「話半分かと」
「甘い、十分の一以下だ」
寵臣たちが揃って笑った。際立った美貌を着飾り、高慢な女のような目で周囲を見下すその特異な集団を――フランス宮廷の人々は、『両性具有者の島』と呼んでいた。
「この結婚に乗り気な母上ですら信じていない。本当に生娘かどうかも怪しいとな。あの女は美男好みで、若く美しい男を侍らして喜んでいると聞く。それだけは気が合うかもしれないな」
再び笑いが起こり、アンジュー公は上機嫌で、手近にいた青年の顔を引きよせた。
人目もはばからず口づけようとしたところで、視界の端に、この華やかな宮廷では逆に目立つ黒衣の男を捕らえ、顔を向ける。
「――で、あれが噂の英国大使か」
その男は、英国人にしては浅黒い肌と、イタリア風の髭を蓄えた彫の深い顔立ちをしていた。その目を引く容姿と、庶民出らしからぬ泰然とした佇まいは、当然のように宮廷の婦人たちの好奇の的となったが、耳を澄ましてみても、浮いた話というのは1つも聞こえてこない。熱心なプロテスタントだという話だが、この宮廷で誘惑に屈せぬ男というのは面白かった。
少々好みからは外れるが、からかい甲斐はありそうだ。
「いい男じゃないか、フランシス・ウォルシンガム」
そろそろ会ってやろうと思っていたところだ。
「あばずれ女にはもったいない」
アンジュー公アンリ・アレクサンドル・エドゥアールは、獲物を見つけた肉食獣のようにペロリと舌を出し、指を舐めた。




