第164話 薔薇と女王と上機嫌な男
行幸に出る前の最後の休日に、私は一部の親しい廷臣と侍女を引き連れ、バラ園でピクニックをすることにした。
本日のピクニックには、秘密枢密院の3人と、オックスフォード伯を初めとするサロンの常連貴族、ラドクリフ、ディヴィソン君といったごく身近な人間だけを同伴させた。場所的に、そんなに大勢は連れて行けない。
そんな中、さも当然のように私をエスコートするロバートは、やたらと上機嫌だった。
「いやー、実にすがすがしい。今日という日は、何と晴れやかな日だろうか! あの黒くて湿気た男をロンドンから遠ざけたのは英断です、陛下。どうです、雨雲まで英仏海峡を渡り、大陸へ移り住んだようだ」
どうやら、ウォルシンガムがいなくなってせいせいしているらしい。
空を仰いでみると、確かに見事な快晴である。
それが原因かは分からないが、新任フランス大使の出立を見送ったのは、つい3日前のことだ。
「今頃ウォルシンガムは、海の上でしょうね。船旅で雨が降っては大変だから、英仏海峡もこれくらい天気が良かったらいいけれど」
「大丈夫でしょう。宮廷に着けば、すぐにセシルに報告が届きますよ。フランス宮廷には噂通り美女が多かったとか何とか」
「…………」
そういえば、フランス宮廷には、カトリーヌが擁する美女スパイ集団、遊撃騎兵隊がいたか。
ロバートの軽口に、そんなことを思い出す。
まぁ、まさかあのウォルシンガムが引っかかるまい。まさかまさか。
だいたい、秘密情報部長官として、遊撃騎兵隊の存在を警戒していないわけがないし。むしろ逆に利用してやるくらいだろう。
……逆に利用?
深く考えないでおこう。
バラ園を散策する一行の中には、セシルの親戚で里子の1人、 覗きの子……もとい、ロバート君もいた。
アンに年の近い友達がいないので、遊び相手にと、よくセシルに連れてきてもらっているのだが、今年13歳になる気さくな少年には、アンもよく懐いていた。面倒見の良いお兄ちゃんという感じだ。
「わぁ」
広い1つ目の庭園を抜け、バラのトンネルを前にすると、アンが感嘆の声を上げた。
「アン、上ばかり見て歩いていると危ないわよ」
どこかで聞いた台詞を口にする。
「はい、女王陛下」
お行儀良く返事はするが、やはり足下が危ういアンに、小さい方のロバートがさりげなく傍についてやってくれた。よしよし。出来る子。
などと偉そうに大人ぶっていたくせに、私も、もう何度も来ているというのに、ついつい足下への注意が疎かになった。
「ひゃっ」
薔薇の天井に目を奪われている間に、石畳のくぼみらしきところにつまづいてしまう。バランスを崩して前のめりになった私を、すかさず隣にいた大きいロバートが抱き留めた。
「陛下、お気を付け下さい」
「ありがとう、ウサギさん」
如才ないロバートに礼を言って離れようとするが、身体が動かなかった。物理的に。
「ロバート……?」
いつまでも離そうとしない相手を困惑して見上げると、鳶色の目がうっとりと見つめてくる。
「――貴女を腕に抱くと、薔薇の芳香が一層かぐわしく薫った気がします。俺の恋しい人は花の精だったのか……」
「ち、ちょっと……?!」
周囲の目もお構いなしに、離そうとしないどころか逆に抱き寄せてくる男を、見苦しくない程度に引き離そうとするが、なかなか手強かった。
ええいっ、調子に乗るな!
後ろから突き刺さる同伴者達の視線が痛い。ロバート君と並んで前を歩いていたアンまで、立ち止まって振り返っていた。これは教育上よろしくない。
「ロバート、もういいから離して」
「俺のせいではありません」
「は?」
噛み合わない会話に聞き返すと、ロバートは私を抱きしめたまま囁いた。
「俺の頭はこの手を離せと命じているのですが、俺の腕が応じようとはしない。手足が頭に逆らうなど、あってはいけないことなのに……」
「その通りよロバート」
「痛っ」
聞きわけがないという手を、思いっきり扇子で叩いてやった。
「手足が頭に逆らうことなどあってはならない、本能は理性によって律されるもの、民衆は神の法によって治められるものです。さぁ、行きましょうみなさん」
厳しい口調で突き放して、男の横を通り過ぎる。
後ろをぞろぞろとついてくる同伴者たちから、かすかな囁きや笑い声が漏れた。
女王にすげなくされた伯爵の姿に、周りの溜飲は下がったようだが、ここで私がロバートを甘やかしていれば、また嫉妬ボルテージが膨れ上がったところである。
まぁ、この程度ではへこたれないタマだから雑な扱いも出来るのだが、すぐ調子に乗るから困る。
すれ違いざま、私の後ろにいたセシルが、手をさする男に呆れたように囁いた。
「人前で調子に乗るからです」
その通り!
※
薔薇に囲まれた庭園の池に浮かぶ、小さな島に建つ四阿で、私はかねての希望通りピクニックを始めた。
こんな晴れた日の昼下がりに外を散策していると軽く汗ばんだが、水場は涼しかった。
イングランドの夏は、日本に比べると大分過ごしやすい。
暑いのは確かだが、湿気が少なくカラッとしていて気持ちが良い。
特にこの季節は晴れていることが多いので嬉しくなる。
「こうしてると日陰は涼しいわね~」
「ええ、風が吹くととても心地よいですわね。ロンドンは夏が短いので、いつもこの時期が恋しくなります」
私の傍に侍ったレディ・メアリーが、大きな扇子でゆったりと風を送ってくる。
夏場といえど、短いスカートをはくわけにもいかないので、暑さ対策に出来るだけ薄手の軽い生地を使って、上は肩を出したベアトップのドレスに、薄手のショールを羽織っている。日本より過ごしやすいとはいっても、暑いことは暑い。
「レディ・メアリーも、息子さん連れてくれば良かったのに」
レディ・メアリーには8歳になる息子がいるのだが、これがもう、まさに紅顔の美少年という感じで、ものすごく可愛い。超絶かわいい。びっくりするほどかわいい。
なんというか、ダドリー家の美形遺伝子のすさまじさを実感する。
おまけに、叔父の身体能力と母の聡明さを受け継いだような、賢くてスポーツ万能なお子様だ。
そんな、将来有望なフィリップ・シドニー君に久しぶりに会いたかったのだが、レディ・メアリーは首を横に振って答えた。
「ワタクシは陛下のお世話をする身ですから。それに、フィリップに陛下が夢中になると、愚弟が機嫌を損ねるので面倒です」
「なるほど」
8歳の甥っ子に嫉妬する叔父というのは、確かに身内的には見たくないかもしれない。
四阿は、ちょうど屋根を覆うピンクのつる薔薇が満開で、零れるように枝垂れ咲いていた。
木漏れ日の隙間から昼下がりの陽光が帯になって注ぐその下で、ちょうど、顔と同じ位置にあった大きな薔薇の1つに、アンが吸い寄せられるように近づいた。
「アン、不用意に触ったらだめよ、棘があるから」
可愛いアンが怪我でもしたら大変だ。
言ってから、これもまたどこかで聞いた台詞だと気付く。
「はい、女王陛下」
聞きわけのよい返事が返ってくるが、目の前に紐をぶら下げられた猫のように、少女はその薔薇にじっと見入っていた。
「アン、花は殿方から頂くものです」
物欲しそうなアンに、レディ・メアリーの悪戯っぽい助言が入る。おおっ、婦人教育だ。
私も乗っかった。
「それもそうね。誰か、気の利いた男はいないのかしら」
周りの男たちに聞こえるように言うと、サッと、四方八方から薔薇を携えた手が伸びてきた。
すかさず女王に跪いて薔薇を捧げてきた貴族男性が6人。目にも止まらぬ早業だ。
「……私じゃなく」
素早いなお前ら!
とりあえず、先着順で全員から受け取っておく。ちなみに1着がロバート(大)で2着がサセックス伯爵だった。隣り合った2人が、薔薇を差し出しながら至近距離で睨みあい、火花を散らしている。
年齢は同じくらいなのだが、どうもこの2人は性格が合わないらしく――合うとも思えないが――サセックス伯爵が枢密院委員に任じられ、同格になってからは、よくこうやって睨み合う光景を目にすることが増えた。
女王に薔薇差し出し隊の中には、ちゃっかりアンの父親のオックスフォード伯爵も参加していた。こういうところは抜け目のないお茶目な男だ。
そんな貴族たちの見栄の張り合いやご機嫌取りには、勿論、ハットンやディヴィソン君ら中産階級たちは空気を読んで参加しない。上流階級のお遊びを遠巻きに眺めているが、内心はもしかしたら呆れているかもしれない。ここにウォルシンガムがいたら、間違いなく呆れているだろう。
アンも、突然女王の周囲に湧き出てきた男たちに目をパチクリさせていたが、キャットが後ろから少女の肩を抱き、優しい声で解説した。
「殿方が女性に花を捧げることは、敬意と愛情の証です。このように、女性は優雅な余裕と寛大な感謝の心を持って花を受け取るけれども、決して自分から軽々しく花を捧げてはなりません。これが貞淑で高貴な女性の在るべき姿です。分かりましたね、アン」
「はい」
なにやら、私をだしに情操教育を始めている。
「アンは誰から欲しい? ハットン?」
手渡された薔薇を束にまとめて愛でながら、冗談交じりに聞くと、少女の顔がみるみる真っ赤になった。
おぉ? これは。
可愛らしい反応に、さっそくハットンを目で呼ぶが、お気に入りの優しいお兄さんが近づいてくると、少女はふるふる首を横に振り、背を向けて近くにいた小ロバートに指図した。
「ロビン、取って」
「俺かよ!」
言いやすい方にいった!
いかにも「お前でいいや」みたいなぞんざいな扱いに、ロバート(小)が声を上げる。
あ、でもなんか、すごい気持ちわかる。
意識してない相手の方が言いやすいというか。
でも、そんなことばかりしてると春が遠のくぞ、アン。私のように……
「ったく、しょーがねーな……」
「ロバート、態度が悪いですよ」
いかにも渋々というような態度を取る養い子を、セシルがたしなめる。とはいえ悪い気はしないのか、小ロバートはそばかすの散った鼻をこすりながら、小さなお姫様のわがままに、とびきり綺麗に咲いている薔薇を選んで手折り、丁寧にとげを取って手渡した。
「ほら」
「ありがとう」
受け取った花を、アンが自分で頭にさそうとしたので、ロバート(小)がかがんで髪飾りのようにつけてやった。
微笑ましい光景に、周囲の大人達も和む。
ところが、事件はそのしばらく後に起こった。
薔薇の髪飾りが気に入ったアンが、嬉しそうにその場でくるくる踊っていたのだが、みんなに可愛い、似会うと褒めそやされ、自分でも見たくなったのか、ひとりで四阿から離れ、小島の縁に身を乗り出して、水面に映る自分の顔を覗き込んだのだ。
「アン、いけない。危ないから戻りなさい」
気付いた私が声をかけると、反射的に振り返ったアンの頭から、ロバート(小)からもらった薔薇が滑り落ちた。
「あっ……」
「アン! 危な……!」
落ちた薔薇に手を伸ばそうとして、前のめりになった少女の身体が傾ぐ。
次の瞬間、水飛沫を上げて水辺から姿を消した娘に、私は悲鳴を上げていた。
「アン!」
「陛下、身を乗り出しては……!」
椅子を蹴立て、水辺に駆け寄った私を、ロバートの腕が強引に引き止める。
大きな波紋を描いた水面が波立ち、小さな手が見えたかと思うと、苦しげにもがく少女が顔を出した。血の気の引く思いがした。
「アン! 誰か……!」
助けて――!
私が叫ぶ前に、大きな水音を立てて誰かが飛び込んだ。見ると、いち早く少年――ロビンが池に飛び込み、溺れる少女の傍まで泳いで、沈んだ身体を水面まで引き上げた。
「ロバート!」
「行けます!」
セシルが水辺に駆け寄り声をかけると、ロビンが力強い声で断言し、器用にアンを抱えたまま陸地まで泳いで戻った。
最後は大人達の力を借りて身体を引き上げると、水を飲んでしまったのか、少女が激しく咳き込んだ。
「アン……!」
「この馬鹿! なにやってんだ!」
ロバートの腕を振り払い、たまらず駆け寄ろうとした私の目の前で、ロビンが溺れた少女を怒鳴りつけた。
その声に、打たれたように身をすくめたアンが、気弱な声で反論した。
「だって……お花が……」
「そんなもん、他にもたくさん咲いてるだろうが! ちょっとは考えろ!」
「……っ」
正論で怒鳴り返され、アンが口をつぐむ。
「花くらい何十回でも何百回でも取ってやる! だから、危ないことするな!!」
「ごめん、なさ……っ」
激しい剣幕に、謝ろうとしたアンが、声を詰まらせて顔を歪めた。
「ぅ……うわぁぁぁぁん!」
「……!」
すると、いきなり、堰を切ったように泣き出した少女に、今度は叱りつけた少年の方が言葉を失う。
「アン!」
今までに見たことがないほどの大泣きを見せる少女に、私は駆け寄って強く抱きしめた。
「アン! 良かった、無事で……! ごめんなさい、私が悪かったの。こういう危険があることを考えないで、こんな場所にあなたを連れてきてしまって」
こんな事態になって、後悔があふれ出す。こんな素敵な場所でアンが笑っていたら、きっと似合うだろうというような、軽々しい気持ちだった。
親ならもっと、子どもの安全を考えて動くべきだった。
「そんなっ……へいかっ、アンが、アンが悪いのです……っアンがちゃんとしなかったから……っ」
「すぐに宮殿に戻りましょう。早く着替えて温かくしないと、風邪をひいてしまうわ」
「すぐに用意させましょう。陛下もお戻りになってお着替えください」
泣きじゃくるアンを抱きしめる私の肩にキャットが手を置き、優しく促す。私のドレスも池の水で汚れてしまっていたが、そんなことはどうでも良かった。
まずは濡れ鼠になった少女を手持ちの布に抱きくるめると、実父のオックスフォード伯が名乗り出て、娘を抱き上げて宮殿へと運び込んだ。
「あ、あの……」
思わぬハプニングに騒然とする中、ずぶ濡れの少年が、申し訳なさそうに謝罪してくる。
「陛下、申し訳ありません。御前でアンを怒鳴りつけるようなことをしてしま……っ!?」
「ありがとうロビン!」
「へ、へいかっ?!」
「アンを助けてくれてありがとう、ロビン。あなたは立派な騎士です!」
小さなヒーローの頭をひしと胸に抱き、感謝の言葉を連ねる。あの場で、誰よりも先に行動を起こした勇気も、アンのことを思って叱りつけた剣幕も、どれも全部、いくら感謝してもし足りない。
「覗きの子なんて呼んでごめんねーっ」
「…………」
これからはアンの騎士ロビンと呼ぼう。もうこの2人が将来結婚しても許す。いや、選ぶのはアンだけど。
力の限り抱きしめていると、腕の中の少年が動かなくなった。
「陛下……その……」
様子を見守っていた保護者のセシルが、言いにくそうに声をかけてくる。
「その年頃の少年に、あまり過激な行動は……」
「へ?」
気付いて腕を離すと、いつの間にか大人しくなっていた少年は、顔を真っ赤にして、すっかりのぼせ上がってしまっていた。
これは私が悪い。




