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第163話 ウォルシンガム、発つ


 いつも通り午後に執務室に入ると、いつも通り書類が山と積まれていた。

 今からこれらの案件を、ウォルシンガムの説明と助言を受けつつ、時に議論を交わしながら判子を押したり押さなかったり突き返したり破り捨てたりする作業の始まりである。


 もっと官僚任せにしてしまうこともできるが、私の知らないところで事が運ぶのは心配なので、基本的には、どこかの段階で私の耳に入るようにしている。

 それにはウォルシンガムの、神業的に素早い案件の仕分けが不可欠だった。


 いつも通り黙って礼をしてくる黒衣の男を前に、今朝のレディ・メアリーの言葉が蘇る。


 私にとってどうかって?


 そりゃあ、困るさ。とても。


 毎日の仕事のリズムみたいなものが出来ていたし、お互い、過去の議論の蓄積があるから、暗黙の了解の内に進められるものもある。

 相手の癖や考え方を知っていれば、注意すべき点や信頼を置ける点も見えてくる。

 

 ……だが、いつまでもこの男にそんな雑用をさせているわけにはいかない、という気持ちもあった。


 セシルと相談した結果、後任にはハットンとディヴィソン君を置くことにした。


 第一秘書代理の代理……と言い出すとややこしくなるが、私の執務周辺のウォルシンガムのやっていた業務を分担してこなしてもらうことになる。1人では到底、今の作業効率を維持できないだろうという話になったのだ。


 勿論私も、新米君達の仕事をチェックしなければならないので、作業量は大幅に増える。

 2人とも出来る子だと思うので、慣れてくれば、大いに私の助けになるだろう。

 しばらくは我慢の時だ。


 組織で、あまり出来る人間がドンと上に座っていると、下が伸びないのも事実だ。

 今回の人事は、下の子を育てる良い機会にもなるだろう。



 さてどの辺で切り出そうか。



 とりあえずペースが崩れては困るので、先に大方仕事を終わらせてからの方がいいだろうか。

 でも、私がもやもやを抱えたままだと気が散って集中できないかもしれない。


 適当に。タイミングを見計らって。


 退職の相談を上司に切り出す時のような座りの悪い感じにそわそわする。


 別に左遷ではないのだけど、何となく言い出しにくい。

 どちらかというとキャリア的には栄転だろう。フランス宮廷の外交官ともなれば、外交の花形だ。


 いつもよりそっと席に座った私に、傍らの定位置で、ウォルシンガムが案件の山から書類を選び出した。


「まずはこちらを……」


 そう言いながら私の前に書類を並べ出した男の動きが、ピタリと止まった。


 …………


 あれ?


 しばらく紙面に目を落としながら説明を待っていたのだが、なかなか始まらないので、机に手を突いた体勢のまま動かない男を振り返る。結構近い。


「ウォルシンガム?」

「……いえ、失礼しました。ロンドン市議会の方から要望が上がっています」


 妙な間があったのはそれだけで、その後は淡々と事務処理が続いた。


 私の集中力が切れ、ちょっとした中だるみに入る時間帯。1度大きく伸びをした後、私は横目でウォルシンガムをうかがって、神妙に話を切り出した。


「ウォルシンガム、話があるのだけど」


 私の声音に何かを察したのか、ウォルシンガムが改まって聞き返してくる。


「……何でしょうか」

「フランスへ行ってもらえないかしら、スロックモートンと入れ替わりで」

「私をフランス駐在大使に?」

「ええ」


 頷き、私は傍らに立つウォルシンガムを見上げた。


「あなたが一番よく分かっていると思うけど、今、フランスとの国交はとても微妙な局面を迎えてるわ。フランス側からアンジュー公との結婚の打診を受けているけど、私の結婚に対する姿勢は知っているでしょう。外交官としてあなたに求めるのは、私の代理として私の結婚交渉を利用し、結婚を伴わない同盟にこぎつけること」


 言いながらも、随分な無理難題だと感じた。

 だが、それはこの男が、自分ならばこうする、と述べたことでもあった。


「あなたが適任だと思うの」

「ならば、お命じください」


 万感の思いを飲み込んで、必要なことだけを伝えた私に、ウォルシンガムは自らの胸に手を当て、淡々と答えた。


「そのようなお顔をなさらずとも、ご命令とあらば、可能な限り正確に遂行します」


 意外な一言を付け加えられ、困惑する。出来るだけ、仕事モードで話したつもりだったのだが、何か滲み出てただろうか。


 私……どんな顔してた?


 気になって仕方がなかったが、聞くに聞けなかった。





 1度決まってしまえば、事は早急に進められ、ウォルシンガムに伝えた翌日には正式に辞令を出した。

 スロックモートンにも速やかな帰国を命じ、7月の初旬には入れ替わりでウォルシンガムがフランスへ発つことが決定した。


 7月に入り、夏の行幸の準備が着々と進む中、ウォルシンガムの渡仏準備も進められた。


「では、行って参ります」

「ええ、気を付けて。ウォルシンガム」


 ついに出立の日になって、しばらく引き継ぎや旅支度のために私の傍を離れていたウォルシンガムが私室に顔を出した。

 私たちも、じきにイングランド南部へと宮廷ごと移動することになる。予定では、1ヶ月半ほどの行幸だ。


 外交官に正確な任期はないが、一般的には3~5年くらいが目安になる。勿論、社会情勢によって、長くもなれば短くもなる。

 そんなに長い間行ってしまうなんて、何だか実感が湧かない。

 物寂しさはあったが、子どもじゃあるまいし、本人のキャリアアップにもなることなのだから、前向きな気持ちで送り出すことに決めていた。


 ウォルシンガムのため――というのは、さすがに恩着せがましくなるので本人には言っていないが、フランス大使として実績を上げてもらえば、彼を国政でより重要な位置に引き上げるステップになる。

 今のウォルシンガムの立ち位置は、確かに遊撃として動かしやすいと言うメリットはあったが、いつまでもこれだけ能力のある男を、平で遊ばせているつもりはない。人材不足のイングランド政府にそんな余裕はない。


 さすがにそこまでのキャリアプランは本人には話さず、とにかく今は、目の前の与えられた任務を全うしてもらうことにする。


 すでにハットンとディヴィソン君が、私の執務の補佐という部分では引き継ぎを始めており、いくつかの彼らの手に余る仕事はセシルに戻した。

 新設の秘密情報部自体は、本部がどこにあろうとウォルシンガム自身が中核であることに変わりはないので、フランスに駐在しながら引き続き業務を続けることになるが、ロンドンでの情報収集や人材のバックアップは、ディヴィソン君が任されるらしい。


「困難な仕事を任せることになりますが、あなたなら必ずやり遂げると信じています。主のご加護が、あなたの旅路を祝福しますように」

「主のご加護が、我が君主の御代をあまねく照らしますように、アーメン」


 最後に祈りを捧げて彼を祝福し、海の向こうの大陸へと旅立っていく男の背中を見送る――予定だったのだが。


「…………」

「どうしたの?」

「いえ……」


 向かい合ったまま、動かない男を見上げる。


「…………」


 口を濁したものの、見下ろしてくる男は、やはり動こうとはしない。

 何かを待つような時間に、なんか忘れてることあったっけ? と考えてしまう。

 お金とかはちゃんと渡してるし、必要な書類も全部用意したし、引き継ぎも完璧なはずだし……


 思いつかず、首を捻っていると、ウォルシンガムが躊躇いがちに口を開いた。


「陛下、出来れば……」

「?」

「その……」


 なんだなんだ。

 基本ズケズケ物を言う男がこれほど言い淀むという珍しい現象を、不思議な気持ちで見上げる。


「いえ、何でもありません」


 しばらく葛藤するような間の後、結局そう言って黙ってしまった。


「行ってまいります」

「いってらっしゃい」


 背を向けて去っていく男を、今度こそ見送る。


 私室の扉が閉まった後も、しばらくその場に立ったまま見送っていると、再び扉が開いて、セシルが入ってきた。


「セシル、さっきちょうど、ウォルシンガムが出発の挨拶に来てたところよ」

「ええ、そこで会いました。あまり元気がないようにも見えましたが、課せられた重責を思うと、なかなか意気揚々と、というわけにはいかないのかもしれませんね」

「そうね……苦労をかけるけど、頑張ってもらわないと」


 私の前ではあまり暗い表情は見せていなかったが、やはり気が重い部分はあるのだろう。それでも、あの男ならば最善を尽くしてくれるはずだ。


「ところで陛下、ウォルシンガムに、何かお渡しはされましたか?」

「何かって何を?」


 さらりと聞かれ、きょとんとして聞き返すと、セシルが眼鏡の奥の目を丸くした。


「別離の餞別に、何か、身につけているものなどを……」

「えっ、何でっ?」


 意外そうに言われて、こっちが意外だ。


「だって、私が普段身につけてるもので、ウォルシンガムが使えそうなものなんてないし……」

「いえ、そういう実用性の問題ではなく。長く離れるわけですから、何かよすがとなるものをお渡しになっても良かったのでは」

「えー……」


 思わず気乗りのしない返事をしてしまう。よすがねぇ……

 どこかのロバートのように手袋を脱いで、「これを私と思って大事にしてね……」とかやれと? 想像するとむずむずした。 


「もしくは、陛下の肖像画などでも……」

「え、いる? それ。邪魔じゃない?」

「…………」


 肖像画となると、小さい物でも結構重たい。引き出物でもらう写真入りの盾と同レベルでもらって困りそうな代物である。

 だいたい、別に欲しがられてもいないのに自分の肖像画を贈るとか、自意識過剰な気がして、私にはハードルが高い。それも異性の部下相手にとか、何か勘違いしてるみたいで抵抗がある。

 それとも、この時代の貴婦人には、標準装備されてるスキルなのだろうか。


 あ、お守りとかなら、私でも……と一瞬思ったが、いやでも、さすがにキリスト教徒にお守りはなぁ。

 一神教だし、プロテスタントは偶像崇拝を禁じている。

 かといって、ウォルシンガムが欲しがりそうなものも見当がつかない。何か欲しいものがないか聞いても、いらんと言われるし。


 などと、うだうだ考えていると、何かを諦めたらしいセシルが、扉の方を眺めやり、遠い目をした。


「ウォルシンガムが、フランスで心穏やかに過ごせれば良いのですが……」

「そうねー。頑張って欲しいわよねー」


 私も一緒に遠い目をした。







~その頃、秘密枢密院は……



「ウォルシンガム、今日発つのだろう。陛下へのご挨拶は済んだのか」

「ええ」


 女王の私室を出て、バーリー卿と挨拶を交わした後、馬車を待たせてある出入り口に向かっていたウォルシンガムを、偶然通りがかったレスター伯が引き止めた。さっきまで柱の陰に隠れていた気がしたので、意外に待っていたのかもしれない。


「情深い陛下のことだ。さぞかし別れを惜しまれたのだろう」

「そのようなことは」

「目に涙を浮かべ、名残惜しそうにされながら、それでも笑顔で見送ろうと健気な努力をされるも失敗し、泣き笑いになってしまったのを隠すように後ろを向いてしまった可憐な背中を抱きしめたくなったりしたのだろうけしからん」

「貴方が普段どういう妄想を抱いているかはよく分かりました」


 そうは言いつつも、思った以上にあっけらかんと見送られて、肩すかしを食らった気分になったのも事実だ。ならば一体何を期待していたのかと掘り下げていくと、レスター伯を笑えなくなりそうなので自粛しておく。


 出来ればよすがになる物くらい、何か託してくれても良かったのではないかと思うが、そのような分不相応な不満を抱くのは不敬だ。与えられることを求めてはいけない。

 女王が己をフランスに送り出す決断をすることに胸を痛めていたように思ったが、これも勘違いだろう。身の程を知るべきである。


 ウォルシンガムの冷めた突っ込みも聞き流し、レスター伯は別れの挨拶という名目の自慢話を続けた。良く口の回る男である。


「実に羨ましい。いや羨ましいなどということはない。俺も命の危険を冒して、ノーフォーク公の反乱を止めるため陛下の御意を携えてノリッジへと向かおうとした際には、あの方の髪を飾る美しい真珠を1つ賜ったものだ」

「…………」

「過酷な旅路も、あの方の加護を受けた髪飾りを握り締めれば、自然と身が軽くなった。心折れそうになった時も、あの方の温もりを求めて口づければ、再び勇気が湧いてきた――」

「そろそろ行ってもよろしいですか。馬車を待たせておりますので」

「ああ、すまん。引き止めたな。俺も意外に、貴殿を送り出すのが名残惜しいらしい。駐在大使ともなれば、数年はその辛気くさい顔を拝まずに済むだろうと思うとな……つい、顔がにやける。だがしかし心配だ」

「心配?」


 この男に心配してもらえること自体を驚くべきか、この男に心配されるような要素があることに驚くべきかは微妙なところだ。


「貴殿は口数が少ない割には、目上の人間に対しても余計な一言が多過ぎる。陛下やこの俺が寛大な心を持って受け流してやっているから良いものを、フランス宮廷ではくれぐれもその性質を自覚し、注意するのだな」

「心に留めておきます」


 棒読みで答え、忠告通り『余計な一言』を飲み込んで、ウォルシンガムはイングランド宮廷を後にした。





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