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第162話 手放す or 手放さない


 ひらり、ひらり。


 1枚、1枚。


 赤い薔薇の花弁が散っていく。


 ゆらり、ゆらり、と水面で揺れながら、ふわり、ふわり、と甘い香りで浴室を満たしていく。


(手放す……手放さない……)


 湯気に煙る浴槽に身を沈め、手近なところに浮かんでいた薔薇の花弁を手持ちぶさたにむしっていると、ふと、そんな占いがしてみたくなった。


(手放す……)


 子供の頃、こういう花占いもどきで遊んだ時、気に入らない方の結果が出たら、よく茎まで数えて帳尻を合わせたものだ。

 結局、大抵の悩みというのは、悩みながらも答えは決まっているものなのだろう。


(――手放さない)


 最後のひとひらをお湯の上にひらりと落として、私は溜息をついた。浴槽に散らされた薔薇に茎はない。


「……なんちゃって」


 後から湧いた気恥ずかしさを、それだけ音に出してごまかす。

 占いに頼るような生き方はしたことがない。きっと、これからもすることはないだろう。


「何か御心を病むことがございますの? 陛下」


 憂鬱な私の様子を察したのか、湯船の傍らに控えていたレディ・メアリーが聞いてくる。

 

「珍しく早起きなどなされて、朝から湯汲みをされるなどおっしゃるものですから」


 早く起きたというより、あまり眠れなかったという方が正しい。色々と考え事をしていると、なかなか寝付けなかった。

 寝不足の頭をすっきりさせるために、朝風呂に入ることにした。


「ちょっとね……大事な決断をしようと思って」


 言った後、一旦頭まで沈み込んで体勢を入れ替える。背後にいたレディ・メアリーと向き合う形になった。


「大事な決断? ついにご結婚をお決めに?」

「結婚? まさか」


 全く想定外のことを言われ、つい本音で全否定してしまった。

 さすがに、レディ・メアリーも驚いたように目をまたたかせる。


「陛下、まさか本当に、全く結婚をお考えになっていらっしゃらないとでも?」

「う……」


 きっちり拾われ、再びブクブクと浴槽に半分くらい顔を沈める。失言だ。

 私が結婚に対して否定的なのは今更だが、こういう問答から流れ込む説教には、もはや耳にたこができているので、最近は曖昧に受け流すようにしていたのに。


「全くっていうか……ほとんどというか……基本的には考えてないというか」

「まぁ」

「だって、女王が結婚するって難しいでしょう。相手が外国の人でも、国内の人間でも、争いの種になるし」

「それはそうですけれど……」


 もはやこちらも言い飽きた理由を口にすると、レディ・メアリーは、それ以上私に結婚の重要性を説くようなことはしなかったが、代わりに、溜息混じりに呟いた。


「ならば、陛下のその芸術的なプロポーションをご覧になれる殿方は永劫いらっしゃらないということですわね。それももったいのうございます」

「いや、芸術的かどうかは知らないけど……そういうことになるわね」


 入浴を侍女達に付き添われるのはいい加減慣れたが、あまりそういう話で盛り上がるのが得意ではない私は適当に流した。察したレディ・メアリーが話を変えてくれる。


「でしたら、一体何にお悩みになっていらっしゃいましたの? 花に悩みを託すくらいですから、てっきり恋の患いかと思いましたわ」

「こいのわずらい……?!」


 私が?!


 驚き過ぎて声がひっくり返った。その辺に浮かんでいた薔薇の花を両手に掴む。

 さっきのは手元にバラが浮かんでいたので何となくやってみたくなっただけだ。特に意味はない。


「ま、まさか! どこにそんな要素があるのよ。そういうんじゃなく、もっとなんというか……そう、仕事の悩みよ。それ以外に何があるっていうの」


 この4年間、仕事の悩みから解放されたことなどついぞないが、自分の慣れ親しんだ環境を変えるというのは、また別の種類の覚悟が必要だった。


「重要な仕事をね、ある男に任せたいんだけど……それが本当に正しい判断なのか、空いた穴をどうやって埋めるのかとか、考えると眠れなくて。でも、とても大事な1歩だと思う。国にとっても、相手にとっても」

「ならば、陛下にとってはどうですの?」

「私?」


 それは、あまり考えていなかった。

 レディ・メアリーの問いに促され、私は答えを探した。


「それは……」


 どうすることが最善か。

 一晩中考え抜いて、結論は出ている。

 それでも思い悩むことがあるとすれば、それは多分、自分本位な執着というか、惰性というか、そういう種類のものだ。

 なんというのかな、こういうの。


「…………」

「陛下?」


 答えを探して、湯の中にブクブク潜り込む。


 ……そう、甘え、だ。


 ちょうどいい言葉が思い浮かんで納得する。

 そう気付くと、一気に迷いが晴れた。


 水面に浮上して息を吸うと、薔薇の香りが強く薫った。


「……人事に私情を挟み込む必要はないでしょう。強いて言うなら、国家のためになることが、私のためになることよ」


 甘えは成長を阻害する。気持ちひとつで乗り越えられるもので、まず考慮に入れる必要のないものだ。

 水音を立てて湯船から上がり、私は濡れた髪をかきあげた。

 よし、塞ぎ虫、駆除完了。


「ありがとう、レディ・メアリー。スッキリしたわ。今日は、散歩をしている時間はなさそう。礼拝が終わったら、謁見までの間にセシルと話をします。部屋を用意して声をかけておいて」

「かしこまりました」


 レディ・メアリーが髪の水気を取りながら、私の指示を了解する。


 熟考せよ。ただし、決断すれば即実行せよ。

 

 その日、私は日課の散歩を取りやめて、セシルを小会議室に呼び出した。





「セシル、色々考えたんだけど」


 小会議室の卓を2人で囲み、寝不足で疲れ気味の目元を抑えながら、私はセシルにある提案をした。


「スロックモートンと入れ替えで、ウォルシンガムをフランス大使に任命しようと思うの」


 その言葉に、セシルは一瞬目を見開いたが、無言のまま私の説明を待った。


「スロックモートンも、もう4年目だし、カトリーヌが本腰を入れ出した今回の結婚交渉で、こちらに有利な立ち回りをするのは難しくなってくると思うの」


 スロックモートンはよくやってくれていたが、長期の滞在で、フランス宮廷のしがらみに絡め取られてしまうのは、避けがたいことだ。

 定期報告の内容を読み返してみても、徐々に主観がフランス寄りになっているのは感じていたし、今までのところはそれで問題がなかったが、今後、イングランド政府が――というか私が駐仏大使に求める交渉は、それでは困る。


「メアリーをフランスに渡すわけにはいかない――というのは、政府の共通の見解と考えていいわよね? セシル」

「はい。先日枢密院委員たちと話しましたが、その点について意見が割れることはありませんでした。かといって、イングランド女王がフランス王弟との婚約を進めることに、全枢密院委員が賛同しているかというと――」

「割れたってことね。そうでしょうね。けれど、少なくともポーズとして結婚を前向きに考えなければ、メアリーがフランスのものになる……カトリーヌの天秤に乗る形にならざるを得ないけど、スペインを牽制するためにも、交渉を持つのは必要なことでしょう」

「ええ。その点で、アンジュー公との結婚に反対している人間も、婚約交渉を進めること自体には強く反対は出来ないようでした」


 この辺りは、カトリーヌの思惑通りだろう。

 だが、カトリーヌ側に思惑があるように、こちら側にも思惑はある。そして、ある程度は共有できる思惑もある。


「ウォルシンガムはフランスに滞在していた経験もあるし、フランス語は勿論、ラテン語、ドイツ語、イタリア語、スペイン語も話せる。何より、彼は私の結婚交渉の利用の仕方をよく理解している」

「先日、ウォルシンガム自身が提案していた、アンジュー公との結婚交渉を隠れ蓑に友好同盟を結ぶというものですか。確かに、陛下のご意向に添って、その任務を遂行できる者があるとすれば、彼以外にはいないでしょう」


 単に、出来るだけ有利な条件を引き出してアンジュー公との縁談をまとめろと言う指令であれば、他の人間でも遂行できるだろうが、縁談自体をブラフとして利用するとなると、人事にも詐術が必要になる。


 スパイの親玉の出番だ。


 私の話に、セシルは静かに頷いた。


「良い判断かと思います。スペインとの対立が激化傾向にある今、フランスとの関係は非常に重要になってくる。若年の国王はともかく、狡猾なカトリーヌ・ド・メディシスと渡り合うのは骨が折れる。彼以上の適材はいないでしょう」

「それに、彼のキャリアの為にもいいと思うの。ウォルシンガムの卓越した外国語能力と、豊富な海外経験は、常々外交官向きだと思っていたから」


 優秀な人材を適所に配置して能力を発揮させてやるのは、人を使う側の義務だ。

 そう思っていながら、なかなか実行に移せなかったのは――


「よく手放す決断をされましたね」

「……なにそれ」


 さらりと言われ、私は軽くセシルを睨んだ。

 それを、セシルはいつものように微笑んで受け止めた。


「いえ、陛下の日々の実務の中で、ウォルシンガムに負うところは大きかったように思いますから」

「う……」


 そうなのだ。


 いないと多分、私の仕事の効率がガクンと下がる。


「で、でも。いつまでもアイツに細々とした事務ばかりやらせておくわけにもいかないし」

「ほう?」


 おっとあぶねぇ。


 滑らしかけた口を押さえる。これはまだ、セシルにも話せない。


「正直迷ったから、セシルに反対されたら考え直そうかとも思ったんだけど、このまま進めてしまっていいかしら?」

「陛下がご決断なされたのでしたら、よろしいのでは」


 私の最終確認に頷いた後、セシルは微笑んで付け足した。


「それとも、反対した方がよろしかったでしょうか」

「いや! そ、そーいうんじゃないけど! 一応ねっ。何か抜けがあっても困るしっ」


 だいたい自分で決めてはいたのだが、セシルの太鼓判のあるやなしやでは安心感が違う。


「時期はいつになさいますか?」

「本人が了承したら、すぐにでも。タイミング的には、アンジュー公との結婚交渉を推進するために新任の大使が派遣されたとするのがいいでしょう」


 動くなら早く動いた方が良い。後手は、この場合は悪手だ。


「そのことは私から伝えた方が?」

「ううん。どうせ、午後には会うし、私から直接話をするわ」


 決まった話を知らんぷりして、一緒に仕事をするというのも気持ち悪い。

 直接伝えた方が、伝わりやすいこともあるだろう。


「では、お任せいたします――ウォルシンガムを異動させるとなると、彼のこれまで務めていた仕事をどうするかという問題ですが……」

「そうなのよね。その辺は、もともとはセシルの管轄の仕事だから、いくつかセシルに戻すのか、誰か別の人間に代理をさせるのか、考えていかなきゃいけないんだけど……」


 そこからは、ウォルシンガムを異動させる前提で、具体的な人事異動の相談が続いた。ウォルシンガム本人の人事はあっさり決まったが、その穴を埋める人材となると、逆にこちらの方が議論が白熱した。

 

「……では、大まかにはそういう方向で。陛下、そろそろご準備を」

「そうね。うわ、もうこんな時間?」


 つい長話になってしまい、気が付けば謁見の時間が迫っていた。

 私は急いで寝室に戻って、支度を進めることにした。





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