第161話 ブリテン島の天秤
その噂が流れ込んできたのは、それから1週間ほど経った頃。
「メアリーの夫候補にアンジュー公が挙がっている……?」
最初の出所は、もっぱら噂好きの女官たちである。
すぐにウォルシンガムに、秘密情報部の情報網を通じてその噂の信憑性を確認させたところ、フランス宮廷内でもそういった噂がかなり出回っているが、カトリーヌ自身は、公式には何も発言していないとのことだった。
それは、当然と言えば当然だった。彼女は今、イングランド女王に息子との縁談を真剣に持ちかけているのだから。
だが、転じて国内のメアリー側では――
「メアリー・スチュアートの次の結婚相手に最も有望視されているのは、アンジュー公だと考えられます」
ウォルシンガムがメアリー陣営の周辺を探ったところ、そのような報告が上がってきた。
どうやら、リドルフィの陰謀計画が進行している頃から、メアリー側の陣営はフランス王弟にも秋波を送っていたらしい。
亡命先にフランスを選ばなかったのもメアリーだったはずだが、犯罪者同然に国から追われて逃げ込むのはプライドが許さないが、王弟殿下の妃として迎え入れられるならオッケー、という感じか。
カトリーヌと違って、マリコの思惑を見透かすのは簡単だ。行動は読めないが、動機は分かりやすい。
問題は、そんな元息子嫁の性格を知り尽くし、その単純な動機をも利用するであろうカトリーヌの方だった。
「メアリー側からの打診を受け取り、カトリーヌもまんざらではないようです。これは、フランス宮廷内での噂と、メアリー側が受け取った印象なため、カトリーヌ自身の本心がどこにあるかは定かではありませんが」
「…………」
その情報から分かるのは、カトリーヌが、少なくともメアリー側やフランス宮廷の周囲の人間に、「まんざらではないように見せかけている」ということだけだ。
私室で受けたウォルシンガムの報告に、裏を探りつつ、私はテーブルの向かいに座っていたセシルに意見を求めた。
「どう思う? セシル」
「これは、フランス宮廷内で広く噂されていることではありますが――」
「何?」
「カトリーヌの野心は、我が子全員に王冠を戴かせることだと、言われています」
「……聞いたことはあるわ。高名な予言者――ノストラダムスから、王子達が全員王になる、という予言を受けたと」
このノストラダムスは、おそらく21世紀日本でも知らぬ者はいない、20世紀末に多大なるお騒がせをかましたあの有名なノストラダムスだ。
長年不妊に悩み、ありとあらゆる治療に手を出したカトリーヌは、その一巻として占星術にも傾倒し、今ではすっかりノストラダムスに心酔していると聞く。
カトリーヌがその予言を支えに、息子達全員に王冠を与えることに執着しているというのは、噂の範疇を出ないにしても、妙に説得力があった。
「……カトリーヌの目的が、本気で3人目の息子を王にするためのものだとしたら――イングランド女王とスコットランド女王のうち、可能性を高い方を選ぼうとしてもおかしくはないわよね」
私もカトリーヌの立場に立って思案を巡らせていると、セシルが自分の意見を口にした。
「最悪の場合はそれも考えているでしょうが、カトリーヌがメアリー・スチュアートの求婚に心を傾けているように見せているのは、イングランドを追い詰めるためのものではないかと、私は考えます」
「ビンゴよセシル。私もそう思う」
開いていた扇子を閉じ、同じ結論に達した宰相を見返す。
女としてのカトリーヌの本音を推察すれば、犬猿の仲にあるメアリーを、溺愛する息子の嫁にはしたくないはずだ。
メアリーの性格を熟知している彼女は、フワンソワ1世時代に味わった屈辱と不快を繰り返すことは、出来れば忌避したいだろう。
だが、彼女はマリコと違って政治家だ。
カトリーヌに泣きつきたくないからからフランスへの亡命を拒んだマリコと違って、そんな本音は微塵も表には出さない。
メアリーとアンジュー公が結婚すれば、相当にイングランドにとってはやっかいなことになる。
その事態を避けるためには、私は積極的に、アンジュー公の結婚相手に名乗り出なければいけない。
カトリーヌは私に、メアリー・スチュアートをフランスに渡したくなければ、それを阻止するために息子と結婚するよう、圧力をかけてきているのだ。
「――あの女は、ブリテン島の2人の女王を天秤にかけている」
直立し、会話を聞いていたウォルシンガムの呟きに、私は黙って頷いた。
カトリーヌは、本気で、イングランドを愛する息子のものにするつもりだ。
例え、私がアンジュー公との結婚を断ったとしても、メアリーをキープしていることによって、カトリーヌは、少なくとも息子にスコットランド王位を与えることができる。
メアリーの性格を考えれば、スコットランドの統治権すらフランスに与えてしまいかねない。そうなればカトリーヌは、イングランドの反宗教改革の旗頭となるメアリー・スチュアートと、イングランド侵略の足がかりとなるスコットランドを手中にできる。
どちらに転んでも、カトリーヌは、息子にイングランド王位を戴かせるシナリオを描いている。
「しかしながら、フランスとて闇雲に国外に侵略戦争をしかけられるほど余裕のある状況ではない。国内の憂慮と国外の圧力に挟まれ、出来ることなら事を構えずに、イングランドと結びたいのは山々でしょう」
今の時点ならば、手に入れるのがたやすいのはスコットランド女王の方だろう。
だが、現時点で実質的な権力を持たないメアリーを手に入れたとして、今度はその王位の正統性を盾に、現スコットランド政府を相手に王権を奪取するという一手間が待っている。
スコットランドとフランスの国力差を考えれば、フランスが本気を出せば不可能なことではないが、ウォルシンガムの言う通り、内外に火種を抱えている国情を考えると、簡単なことではないはずだ。
「……あなたならどうする? ウォルシンガム」
恐らくはこの国で最もフランスの事情に精通している男に、私は意見を求めてみた。
「私なら、カトリーヌ・ド・メディシスと接触を試みます」
ウォルシンガムは私の質問に、迷うことなく答えた。
「結婚交渉を隠れ蓑に、英仏の秘密条約を結ぶ交渉を進めます。カトリーヌがここに来てイングランド女王と息子の結婚を進めようとしているのは、無論アンジュー公に王位を与えたいというのもありましょうが、陛下の持つイングランドという持参金を当てにする必要性が増してきたからでしょう」
イングランドも決して余裕があるわけではないが、反宗教改革を掲げ大規模な戦争を続けているスペインや、宗教対立による断続的な内紛に悩まされているフランスも、財政的な課題は抱えている。
「現状、両国にとって、スペインが共通の強大な潜在敵国であるという認識は変わらない。餌となる結婚交渉をちらつかせて距離を縮め、かの大国を牽制するための同盟を結ぶ交渉のテーブルへと持ち込むには、悪くない機会かと」
虎穴に入らずんば虎児を得ず、とでも言うような強気な戦略だ。
だが、先に結婚を伴わない同盟を結んでしまえば、この食うか食われるかの緊迫した状態からは、多少脱却できるだろう。
とはいえ、難しい交渉である。
この複雑な目的を理解し、あのカトリーヌ・ド・メディシス相手にいかに虚々実々の戦いを繰り広げるか。
現在のフランス駐在大使はスロックモートンだが、彼に対応できるだろうか。
スロックモートンは、メアリーとスコットランド政府の和解交渉のために、一時的にスコットランドに派遣したが、私の即位以来、もう4年もフランス大使を務めている。
フランス宮廷をよく知っている半面、無視できない人間関係やしがらみも出来てきているはずだ。
どの国も駐在大使が定期的に変わるのは、大使が、完全にその国の人脈に取り込まれてしまい、自国に対して不利益な行動を起こすような事態を防ぐためだ。
実際、私も極力外国大使に対しては、親睦を深めることで、こちらに好意的な行動を取ってくれるよう信頼関係を築くことに腐心している。逆のことは当然、相手の国の方でも行われていると考えるべきだろう。
そういう意味でも、そろそろフランス大使は『替え時』なのかもしれない。
「そうね……少し、考えるわ」
一瞬、ある考えが過ぎったが、すぐに決めるには難しい問題だったので、1度整理して、よく考えようと思った。
※
「お帰りなさいませ、女王陛下」
「ただいま、アン、フランシス」
今日はセシル達との会議が長引いて遅くなってしまったのだが、アンはまだ起きて、私の帰りを待っていた。
いつものように寝室で迎えてくれた少女を、腕の中のフランシスごと抱きしめる。
普段なら、アンに今日あった出来事などを聞くのだが、本日はフランシスに用があった。
「フランシス~。今日何の日か分かる~?」
狭い額を鼻先でくすぐってキスをした後、文字通り猫なで声で質問すると、黒猫は金色の目でジッとこちらを見つめ返した。
そんなフランシスの目の前に、用意していた赤い首輪を見せびらかす。
「じゃん、新しい首輪! フランシス1歳のお誕生日プレゼントねっ」
「わぁ」
無反応なフランシスの代わりに、アンが目を輝かせる。
そうなのだ。
今日は、フランシスがうちの子になってから丸1年の記念すべき日だった。
実際は拾った時点で(多分)生後1ヶ月くらいだったのだが、正確な生まれた日が分からないので、うちの子になった日を誕生日ということにした。
拾った時は、首輪にすら負けそうな貧弱な栄養失調児だったので、身体が大きくなってからつけ出したのだが、見た目の可愛さ優先で赤いシルクのリボンをつけていたら、すぐにボロボロにされてしまった。
今回は反省して、太めの糸で編んだものに上からコーティングをかけている。
黒猫には赤い首輪という理想があるので、今回も赤だ。近くでよく見ると、明るいオレンジ色の糸で細かい柄を編んでいるのが分かる、なかなか凝った代物である。
「アン、ちょっと抑えててね」
「はいっ」
逃げないようにアンにだっこされている間に、首に巻いていた赤いリボンを外してやる。
ワンポイントの赤がなくなると、耳の先からしっぽの先まで見事に真っ黒だ。顔の真ん中で黄金の目だけが輝いている。
1歳と言えば、猫的にはもう立派な大人だ。あんなに可愛かったフランシスも、オスらしく顔が横に広がり、すっかりふてぶてしい面構えになっている。かわいくないところがかわいい。
首回りをいじられている間、フランシスは逃げる様子もなく、不満そうにも喜んでいるようにも見えない顔つきで、私を見上げていた。
その内じっとしていられなくなってくると思うので、今のうちに手早く新品の首輪をつけてやる。
脱走した時に、宮殿に迷い込んできた野良猫と間違われて放り出されては困るので、よく音の鳴る鈴と、表にチューダーローズの彫られた金色のメダルをつけている。
メダルは迷子札になっていて、裏には名前と住所が刻まれていた。
「……『女王付ネズミ捕獲長 フランシス』……『住所:女王の寝室』」
気になったらしいアンが、メダルを裏返して刻印を読み上げる。
ネズミ捕獲長の肩書きは、女官達とのほんの遊び心から始まったものなのだが、実は、正式な政府の役職としても採用されている。
任務は、女王に害を為す恐れのある小さい害獣や害虫の駆除。
基本的に勤務場所は女王の寝室か私室なので、そう頻繁に出動任務があるわけではないのだが、元野良の野生を発揮して、狩りは得意ならしいフランシスはなかなかのヒットマンだった。
猫によっては獲物を獲ると飼い主にわざわざ見せに来る子もいるようだが、どうやら手柄を見せびらかしたがるタイプではないらしく、捕獲した獲物は、息の根を止めた後はそのままクールに放置だ。
そのため、私の目に彼の仕事が止まることは少ないのだが、フランシスが成長してからは遭遇率が減ったことを考えると、陰で密かに活躍してくれているのだろう。どこかのフランシスのように。
「はい、もういいわよフランシス。よく我慢したわね」
首輪をつけ終わってそう言うと、フランシスはアンの腕をすり抜けてベッドの上に飛び乗った。
新しい首輪の感触が気になるらしく、しきりに後ろ足で首元を掻いている。
涼やかな鈴の音がリズミカルになった。
「いいじゃない。似合ってるわ」
「はい! すごく可愛いです!」
満足した私の隣で、アンが喜ぶ。
「よしっ、アン。ベッドでゴロゴロしましょーか」
「はいっ」
「陛下、せめて着替えてからなさって下さい」
「はーい」
キャットにたしなめられて大人しく従い、寝間着に着替えた私は、そのままベッドにダイブした。
真似してアンもベッドにダイブし、2人でゴロゴロし出す。あまりお行儀の良くない遊びに、キャットは少し呆れつつも、母親のような目で見逃してくれる。
「アンつかまーえたっ」
「きゃーっ」
ふざけてアンを後ろから羽交い締めにすると、少女が笑いながら悲鳴を上げた。
「アンのほっぺたやわらか~」
「フランシスの肉球の方がふにふにですっ」
子ども特有のもちもちのほっぺたをつついて堪能していると、アンが反論してくる。
そのフランシスはというと、邪魔にならない枕元で、じっと2人のゴロゴロを見守っていた。
手を伸ばせば届くところにある頭を撫で、喉をくすぐってご機嫌を伺ったところで、前足を片方握って肉球をふにふにした。家猫なフランシスの肉球は柔らかく、何ともまろやかな感触だ。
「うーん、甲乙つけ難い……」
両手で猫の肉球と子どものほっぺたをふにふにしていると、両方にすり抜けられた。ちっ。
「陛下、そろそろ……」
「そうね。アンはもうお休みなさい。今日は遅くまでお疲れ様」
まだ私が寝るには早いが、子どものアンには就寝時間だ。
「いつもフランシスを守ってくれてありがとう」
頭を撫でてお礼を言うと、アンが恥ずかしそうにはにかんだ。
「おやすみなさいませ、陛下」
「おやすみ」
ベッドを降りると、きっちりスカートの裾を引いて一礼し、大人らしく去っていくアンが退室するのを見送る。
扉が閉まった後、私はうんと伸びをした。
「さて、私はもう一働きするかしら」
「陛下、お休みにはならないので?」
「少し考えたいことがあるの」
キャットに答え、私は机に向かった。
いつもなら本を読みながらベッドでゴロゴロするのだが、今日は、寝る間を惜しんでも考え抜きたい事があった。というか、それなりの結論を出さなければ、気になって眠れない。
それに、出来れば、あまり決断を引き延ばしたくはなかった。
多分、ずっとそのことばかり考えてしまうだろうから。




