第160話 女傑の罠
去年の秋に、シャルル9世が突然私の求婚者に名乗りを上げ、始まった英仏の結婚交渉は、依然として、遅々として進んでいなかった。
これは、私のやる気がないというのもあるが、フランスの方も、正直それどころではなくなっていたというのがある。
昨年から、カトリーヌがスペイン王の使者と会談を持つなどして、ユグノーの警戒心を煽ってしまった結果、今年に入ってユグノー軍が、危険なカトリーヌからシャルル9世を奪い取ろうとして奇襲をかけ、それをきっかけに第二次宗教戦争の戦端が開かれてしまったのだ。
サン=ドニの戦いで国王軍が勝利をしたのも束の間、ユグノー軍によってオルレアンとブロワの街が陥落し、そのままパリを包囲されて形勢が逆転した。
そしてついに、この春、和平勅令が公布され、プロテスタントに対して信仰の自由と権利が与えられた。
この激動のフランス情勢の間に、フランス側の婚約交渉意志が萎えまくっていた理由は、無論、国内世論がプロテスタント国家との結婚に対して逆風を巻き起こしていたと……いうのは、あの王家にとってはあまり関係なく、もっと内輪揉め的な原因だ。
先のサン=ドニの戦いで国王軍は勝利を収めたのと引き替えに、司令官のモンモランシーを失った。
この勇猛で高名な軍人は、カトリーヌの政敵でもあったのだが、相変わらず情け容赦のないカトリーヌさんは、モンモランシーの葬式も終わらないうちに、空いたポストに溺愛している息子のアンジュー公を座らせ、国王軍の指揮を一手に握らせたのだ。
シャルル9世はまだ18歳、1つ下の弟アンジュー公は、まだ17歳という若さだ。
内輪揉めというのは、母のこの弟贔屓に、兄のシャルル9世が嫉妬し、初めて摂政と国王が対立したというものである。病弱マザコンとはいえ、シャルル君も血気盛んな男の子。自分が軍の指揮権を握って、戦陣に立ちたいという思いがあったらしい。
それが国王代理総司令官という形で、嫌いな弟に名誉も実権も奪われ、それなりに自我も自意識も芽生えていた青年が母親に反発したとしても、おかしなことではない。
まぁ、要するに親子喧嘩である。
その煽りで、母子のコラボレーション技である私への求婚は完全に棚上げをくらっていた。
別にいいんだけど。
むしろ、あるようでないような感じで、形だけの交渉が続いているくらいの方が、楽で良い。
……などと思っていたのだが、事態は急展開を見せた。
シャルル9世が、神聖ローマ皇帝の娘エリザベートと結婚したのだ。
何ですと?
午前中の謁見で、駐英フランス大使が、きまり悪そうに伝えた内容は、ウォルシンガムが非公式にキャッチしたという情報と同じもので、その信用性が確認されたが、シャルル9世の突然の結婚発表は、イングランド宮廷を驚かせた。
何といっても、去年の秋に突然私に求婚してきて、だらだらとはいえ、婚約交渉が続いていた相手である。
なに私、急に振られた?
向こうから勝手に言い寄ってきて、ちょっと考えさせてと言っているうちに、知らない間に別の女とくっついていたとか、そんな状況である。
カトリーヌとシャルル9世の間で意見の相違があったとか、急遽ハプスブルク家の援助が必要になったとか、色んな憶測や噂が飛び交ったが、そのあたりの内輪でのごちゃごちゃしたやり取りの真相は知りようもない。
この失礼極まりない対応に、イングランド政府は憤慨したが、事態は意外な方向に転がった。
結婚報道のすぐ後、カトリーヌ側から公式に、奇妙な打診があったのだ。
カトリーヌは今回の非礼に対する謝罪と共に、王弟のアンジュー公との結婚はどうかと勧めてきた。
カトリーヌと故アンリ2世の間に生まれた3人目の王子、アンジュー公アンリ・アレクサンドル・エドゥアールについて、セシルはこう評した。
「アンジュー公は17歳ですが、病弱な兄たちに比べ非常に健康で溌剌としており、カトリーヌ・ド・メディシスの7人の子供達の中で、最も優れた男子であるともっぱらの評判です」
カトリーヌは子だくさんで、上から故フランソワ2世、現王シャルル9世、三男アンジュー公アンリ・アレクサンドル・エドゥアール、スペイン皇太子妃エリザベト、次女マルグリット、三女クロード、末弟アランソン公エルキュール・フランソワと続く。
これだけ聞くと、王家に嫁いだ女としては言うことのない多産ぶりで、さぞかし夫とも仲が良かったのだろう思えるが、噂を聞くところによると、貧相なイタリア商人の娘の結婚生活は悲惨極まりない。
14歳でフランス宮廷に嫁ぎながら、同じ歳の夫は、40を過ぎた未亡人の愛人に夢中で、実質的に愛人が宮廷を支配してるわ、長年不妊に悩み後継者が産めないことで白い目で見られるわ、しかも情勢の変化で、彼女が嫁いだことでのフランス側のメリットがなくなるというコンボで針のむしろ状態。
いつ離婚されてもおかしくない立場に追い詰められ、ありとあらゆる不妊治療を試みた成果が、王子4人王女3人というのだから、まさに根性であろう。
王の子を産むことだけが、人生を逆転させる唯一の手段だったカトリーヌさんは、今では息子を依存させ摂政として実権を握り、フランスの頂点に君臨している。
そんな並々ならぬ根性と執念の女から持ちかけられた縁談話は、随分と下手に出たものだった。
アンジュー公はシャルル9世の1つ下だが、兄に比べてずっと健康な美男で、また公爵という立場であるため、婿入りもさせやすく、よりイングランド側の希望に添うのでは、という提案から始まり、結婚の条件も今まで以上にこちらの希望を考慮する、という申し出まで付加されていた。
ほとんど動きの見えなかった名ばかりの結婚交渉を打ち切り、今度は弟のアンジュー公を推薦するので、真剣に取り組みたいというカトリーヌの意思表示は、一見、国内外の政策の失敗により情勢が逼迫したフランス側が、イングランドに擦り寄って挽回しようとしている――ように見える。
私も、最初はそう受け取った。
「少し……不気味ですね」
「やっぱり、セシルもそう思う?」
セシルの呟きに、私も同じ不安を抱いていた。
相手は、あのカトリーヌだ。
謁見が終わった後、1度セシルと私室に引っ込み、私たちはこの話題について意見を交換した。
「エリザベス女王とシャルル9世との結婚交渉が、不備に終わることが高い確率で予測できること。カトリーヌがアンジュー公を溺愛していること。フランスにとってイングランドとの同盟の必要性が増していること――これらを踏まえれば、カトリーヌがシャルル9世の婚約交渉を打ち切り、アンジュー公にイングランド王位を与えるため、本腰を入れてもおかしくはないとは思いますが……」
考えるように、唇に指で触れたセシルの、眼鏡の奥の眼差しがすがめられる。
「まだ何か裏があるような……」
その時はまだセシルの予感でしかなかったが、すぐに私たちは、それがかの女傑の罠の1つでしかないことに、気付くことになる。




