第159話 薔薇と女王と不機嫌な男
風の気持ち良い時期には、川辺を散歩するのも魅力的なのだが、昨今の物騒な事情から、それは見通しが良すぎて危険だということで却下され、私はリッチモンド宮殿の広いバラ園を歩くことにした。
イングランドの初夏といえば、やはりバラの季節だ。
リッチモンド宮殿は、エリザベスの祖父のヘンリー7世が建てた宮殿で、王のお気に入りだったらしい。たくさんの美しい庭園や、珍しい種の樹木を揃えた果樹園などは特に有名で、散歩コースには事欠かない。
その中でもバラ園は、女官達の勧めで、1番見頃な時期に最初に見た方が良いと言われていたので、大事に取っておいた。
なので、今日が初めてのバラ園散策である。
白い小ぶりのバラに覆われた小さな門をくぐり、1歩庭園に足を踏み込めば、その先には、宮廷お抱えの庭師たちが丹念に育て上げた、数万本のバラが、美を競い咲き誇っていた。広場の中央を飾る噴水では、天使像が微笑みながら、抱えた壺から水を零している。その水飛沫が水面を跳ね、朝日を反射してキラキラと輝くその周囲を、時計を模して12等分に区分けされた、12種類のバラが縁取っていた。
その噴水を中心に、四方に伸びる幅広の散歩道を挟んで、背の低い花壇がシンメトリーに配置されている。
整然と広がるその空間全てに、色とりどりの満開のバラが、立派な頭をもたげていた。
華やかで優雅な花も、これだけ物量が揃えば壮観だったが、夢のような光景から少し目を離し、視線を上げると、近衛兵の赤い制服が見え、見通しの良い庭園のそこかしこに、屈強な男たちの警備の目が光っていた。
色々台無しである。
「なんっか窮屈なのよねぇ。このろくに羽も伸ばせない感じ」
「陛下はお立場の割に奔放過ぎます。じきに行幸に出掛けられることになりますが、羽を伸ばし過ぎてむやみに羽ばたかぬようになさって下さい」
「…………」
私の愚痴に、斜め後ろから余計に窮屈な応答がある。
不満を顔に表したまま振り返ると、相変わらず影のように控える男と目が合った。
「隣並んでよ」
言うと、ウォルシンガムは黙って1歩前に出て、私と肩を並べた。
こんな場所を、1人で歩くのもなんとなく寂しい。冬のイルミネーションを1人で見に行くのと同種の寂しさだ。いや、わざわざ独りで見に行ったことはないけど。
私が命じないと隣を並び歩くことすらしない男だが、いないよりはいた方が話し相手にもなる。
「だって、忘れてるかもしれないけど、元々なんの変哲もない一般庶民だったのよ、中身は。いきなり四六時中衆人環視の目に晒される立場になって、腹の底で何考えてるか分からない連中と毎日駆け引きして、よくストレスでぶっ倒れずに頑張ってる方だと自分でも思うわ」
その辺、誰も褒めてくれないので自画自賛しておく。
「…………陛下は」
「ん?」
考え込むような沈黙の後、口を開いた男を見上げると、肩を並べている分、いつもより近い距離で目が合った。
「貴女は……その、以前の世界で、スパイでもやっていましたか?」
「は?」
思わず、目が点になった。
スパイって何? 忍者? CIA?
「なわけないでしょう。そんな裏稼業みたいなの、フィクションの世界でしか見たことないわよ」
21世紀にも、きっとそういう職業はどこかに存在していたのだろうが、普通に生活していたらまずお目にかかることはない。
「私は健全な陽の当たる人生しか歩んできてませんから」
「確かに……貴女はそうなのでしょうね」
何、そんなしみじみと言われても。
なんでまたウォルシンガムに、そんな素っ頓狂な質問をされなければならないのだろう。私なんかしたっけ。
「失礼、つまらぬことをお聞きしました」
こっちの疑問を置いてきぼりにして、勝手に自己完結する。
まぁ、いいんだけど。
そんな妙な会話をしながら広場を抜けると、アーチ型のバラのトンネルが出迎えてくれた。
「うわぁ……」
すごい。なんだか御伽の国に行けそうだ。
確かにこれは、満開の時期に初めて見る方が感動が大きい。女官達のオススメの理由が分かった。
トンネルに入り、花天井に目を奪われながら上の方ばかり見て歩いていると、心配性な男に忠告される。
「陛下、御足元にも目を――」
「目」
「……御意」
はなから足元を見る気がないので、隣を歩くウォルシンガムの腕を掴んで目に任命する。
さほど長くないトンネルを、上や横をきょろきょろしながらゆっくりと通り抜けると、今度はさっきの広場とは趣向の違う、ちょっとした迷路のような庭園が待っていた。この庭を設計した人間の、飽きさせない工夫が感じられる。
個人的な好みでいえば、一目で数万のバラが一望できた先ほどの広場よりも、背の高い生垣に囲まれ、次に曲がったところにどんな光景が待ちうけているか分からない、こちらの空間の方が、冒険のようでワクワクできた。
こう視界が悪いと、警備をしている人間の姿が見えないのもいい。多分、庭園のすぐ外側には控えているのだろうが。
角を曲がる度に、オブジェや水場、四阿などが顔をのぞかせ、自然とテンションが上がっていく。
私は、池の真ん中に浮かぶ小さな島に立つ、緑の葉に覆われた四阿を指差した。
「ねぇねぇ、この季節、あんなところでピクニック出来たら楽しいと思わない? 椅子とテーブルを運び込んで」
「よろしいのでは」
興味なさそうな相槌だな!
更に先に進むと、そこだけ幅の広がった道の真ん中に、彫刻の施された石柱が立っていた。蔓薔薇に覆われた古めかしい感じが、とても雰囲気があって惹かれた。
引き寄せられるように近づいて、目の高さにある大きな赤いバラを覗き込む。
朝露を受けた花弁が宝石のように輝き、思わず触れたくなるが、手を伸ばした途端ウォルシンガムに注意された。
「棘がありますので、不用意に触れぬようになさって下さい」
ちっ。
思わずふくれっ面になる。過保護め。
「必要ならば私に申しつけて下さい」
必要って……
事務的な口調で付け足されるが、必要かどうかと言われたら、日課の朝の散歩でバラの花を手折る必要性はどこにもない。
というか、そういうのって必要性の問題か?
色気も何もあったものではない。まぁ、私が言えることでもないけど。
色々突っ込みどころはあるが、別にロマンチックな会話を期待していたわけではないので、大人しく手を引っ込め、私は適当に話題を変えた。
「結構、贅沢したい時にバラ浮かせて薔薇風呂とかしちゃうんだけど、これだけあったら遠慮しなくてよさそうね」
ここのところずっと胃が痛い話が多くて、疲れが溜まっている気がするので、意識してハーブやアロマでリラクゼーションを心がけているのだが、やっぱりストレス解消には、お風呂でリラックスするのが一番だ。
「ああ」
すると、ウォルシンガムが腑に落ちたように言った。
「貴女からよく薔薇の香りがするのはそのせいですか」
うぐっ。
思わぬ指摘に、オベリスクを一周していた足が止まる。
「他の貴婦人方の香水の匂いほどきつくはないので、好ましく思っていましたが」
私も、この時代の香水は匂いがきつくて苦手なので、つけていない。
お風呂に入るのが一般的でなかった頃は、体臭をごまかすために匂いの強い香水をつける習慣があったようだが、風呂ブームが席巻した昨今のイングランド宮廷では、その必要性は減っている。
……はずなのだが、香水文化だけはそのまま残ってしまったらしく、特に年配のご婦人を中心に、匂いの強い香水をつける女性は多い。
とはいえ、ウォルシンガムにそんなことを言われたのは意外だった。
そういえば、事務仕事中とか、傍らに控えていること多いもんな。
あの距離だと、やっぱ結構匂いって分かるもんなのか。
全然意識していなかったので、何か今更恥ずかしくなってくる。
「何か?」
私が立ち止まったことに気付いたウォルシンガムが振り返ってくる。
「何でも……」
逆回転してオベリスクの裏に回り、目と鼻の先にある大輪のバラに顔を近づけて匂いを嗅いでみる。
大丈夫。いいにおい。
……って、何を確認しているのか私は。
「またかくれんぼですか」
柱の裏で気を落ち着かせているところを、無遠慮に覗かれる。
「ちょっとクマさん! まだ10数えてないわよ!」
「そのような遊びは午後にでも女官となさってください」
私のごまかしにも、ウォルシンガムは淡々と応えた。
「ところで陛下。本日、フランス大使が謁見を希望してきているようです」
「あら、久しぶりね。向こうもそろそろ本腰入れてくるのかしら?」
真面目な話題を振られ、私もこれ幸いと思考を切り替えた。
「どうでしょうか。大使も、本国の意志がはっきりしないため、攻めあぐねいていたようですから」
「大使も色々大変よねー、上が優柔不断だと」
「それを貴女が言いますか」
「スロックモートンも大変だと思うわ~」
「同情します」
今頃くしゃみをしているかもしれない自国のフランス大使に同情を示しつつ、石柱を離れて、再び薔薇の庭園を歩き出す。
「で、それがどうかしたの?」
「少し、気になる情報が入っています――」




