第148話 神の御心とは
イザベラの意志を確認した翌日、それとなく親側に話を持っていったが、そちらも予想通り好感触で、私はこの縁談を進めることを決めた。
だが、トマスに戻ってきてもらわないことには、話も何もあったものではないので、その2日後、女王の再三の出仕要請に従わなかったノーフォーク公に対し、忠誠心にかけてロンドンに帰ってくるように命じて、使者としてロバートを立てた。
「陛下、お寂しい思いをさせてしまいますが、しばらくの間、お傍を離れることをお許し下さい」
「大丈夫よウサギさん、気を付けてね」
出立の日、見送りに出た私の手を握り、ロバートが真剣に心配してくる。
ノリッジは真っ直ぐ行けば、馬で3日程の距離だ。10日間も出仕禁を喰らってたことを思えば何てことはないのだが、特命を帯びたロバートの別れの挨拶は大袈裟だった。
悲劇的な調子で別れを惜しんだ後、嵌めていた白い手袋を片方脱いで、差し出してくる。
「せめてもの慰めとして、こちらを。寂しい夜に俺を思い起こす縁としてください」
「ありがとう……」
死にに行くわけじゃないし、もらっても……とも思うのだが、一応礼を言っておく。
私にはいまいちピンとこないのだが、思い人(恋人だけでなく、家族とかも)の身につけているものを、縁として手元に置きたい、というのは、かなり一般的な感覚らしく、求婚者たちの特使からも、主人へ送るために私のナイトキャップが欲しいだの、ハンカチが欲しいだのガーターが欲しいだの、散々くれくれをされた。
ハンカチくらいならともかく、ナイトキャップやガーターを人にあげるのも微妙だなーと思いつつ、断る理由もなければ、断れるような相手でもないため、頼まれたらあげるようにはしているのだが、そんなものもらったところで嬉しいのか? と純粋に疑問である。
そういえば、戴冠式で私がウェストミンスター寺院に入場する時に歩いた青いカーペットも、私が歩いた後、ちぎって記念に持って帰る人が群がり、結局欠片も残らなかったと聞いたし、物に対して見出す価値観が、私の感覚とは大分違うのだろう。
……現代で言えば、有名な野球選手のサイン入りバットとかをありがたがる感覚に近いか?
でも、実際、それも飾るところなかったら邪魔だよな……
「陛下…………」
「何?」
手袋を受け取りつつ色気も何もないことを考えていると、ロバートが分かりやすく期待を込めた眼差しを向けてきた。
「何か頂けないのですか?」
「何かって何?」
「何でもいいのでください」
なんだそれは。
「うーん……今、何も持ってない」
実際、人にあげられるようなものは何も持っていなかったのでそう答えると、ロバートの手が頭に伸びた。
「では、こちらを」
小さな髪留めを1個、抜かれてしまった。大粒の真珠が1つ付いているだけのシンプルなものだ。
「そんなんでいいの?」
別に使い道もないと思うが。
「勿論」
物好きな男は、抜き取った真珠の髪留めに軽くキスをして、懐にしまってしまった。
まぁいいか。
「五月祭までには帰ってきます。陛下のダンスのお相手をするのが俺の使命ですから」
そう言い残したロバートは、帰還命令とともに、イザベラとの縁談を携え、従者と替え馬を連れてノーフォーク州へと向かった。
それから3日間は、一日千秋の思いでロバートとトマスの帰りを待った。
いつ、反乱軍が蜂起するともしれない今、早くトマスを危険な立場から離れさせたいという思いが募る。
大丈夫、大丈夫。
今、出来るだけのことはした。
これでトマスがロバートの説得に応じてロンドンに戻り、イザベラとの縁談を承諾すれば、彼が今後、メアリーを取り撒くカトリックの陰謀に巻き込まれる危険性はなくなる。
セシルは、すでにトマスが例の陰謀に関わっている可能性を疑い、慎重になっているようだが、彼の立場を考えると、それは当然のことなのだろう。
それも、トマスが帰ってきたら丸く収まる話だ。
頼むぞ、ロバート。
彼らの帰りを待つ間、私は願掛けのつもりで、もらった手袋を腰紐に挟んで持ち歩いた。
~その頃、秘密枢密院は……
ロンドンを発って3日後、レスター伯ロバート・ダドリーは、女王の使者としてノリッジのノーフォーク邸を訪れた。
ロンドンの屋敷でも彼を迎え入れた初老の執事――執事長のバニスターに丁重に案内され、豪奢な貴賓室へと通される。
部屋には、すでに目的の人物――ノーフォーク公爵トマス・ハワードが賓客を待っていた。
「突然姿を消したので、驚いた」
「……ああ。少し、急な仕事が入った」
「一言くらい言付ける暇はあっただろう。友達甲斐のない男だ」
「…………」
通された貴賓室で儀礼的な挨拶をかわした後、重くならない程度に一言物申すが、公爵は硬い表情で黙ってしまった。
「……貴方がロンドンを離れている間に、大変なことが起こった。もう聞いているか、ノーフォーク公。女王陛下が破門された」
「ああ、聞いている」
これには一応の返答があったが、そこから会話を広げるつもりはないらしい。随分と愛想のない応対だ。
「ヨーロッパ中が混乱するぞ。それに、破門状を読んだが、あの文面は、教皇が女王の暗殺を奨励しているとも取れる。この国は、陰謀に飲み込まれるかもしれない」
「…………」
「ノーフォーク公、俺が今回女王の使者として訪れたのは、貴方をロンドンへ連れ戻すためだ」
「俺を?」
「何度もあった女王の呼び出しを無視しただろう。あまつさえ、断りもなしにノリッジへと帰った」
反応の芳しくない相手に対して様子を探るのを止め、ロバートは本題を切り出した。
「陛下が、最後に話した時の貴方の様子を心配している。友情に誓って事実は話していないが、ご自分の言葉が悪かったのではないかと気にしておられた」
「……またロンドンに戻って、結婚の許可を請えと、それだけを伝えにわざわざ貴殿がノリッジまで来たのか?」
「違う」
皮肉めいた男の言葉を否定する。
「陛下が、閣下の忠誠心を賭けて、ロンドンに戻ってくるように命じておられるのは確かだが、メアリーとの結婚についてはお考えを変えられた」
「何?」
「イザベラを知っているだろう。グレート・レディーズの1人だ。今年20歳になる。彼女との縁談を、女王が直々に推薦されている」
「何だと?」
これには、さすがに公爵も驚きを見せた。
「彼女は女王の縁戚で、覚えもめでたい。しかもあの家は家督を継ぐ男子がいないため、彼女が女子相続人となっている。どうだ、悪くない縁組だろう」
ノーフォーク公爵は過去に2度結婚しているが、いずれも有力な女子相続人との縁組であったため、莫大な財産と領土を継承している。
ノーフォーク公が、メアリー本人にどこまで執着しているかは分からないが、以前に話を聞いた分には、政略的な意図が強い結婚であるように思えた。
先方との兼ね合いもある故、即断は難しいかもしれないが、彼も自分の立場と現状を鑑みて、より安全で実りのある相手を選ぶという意味では、一考の余地はあるはずだと思ったのだが――
「どういうつもりだ?」
予想以上に困惑の表情を見せた後、ノーフォーク公は、怒りに近い語調でロバートを問い詰めた。
「何を企んでいる?」
「企んでいる……?」
そう責められるのはいささか不本意だったが、企んでいるとすれば、それは今後、彼がメアリーを担ぎ出そうとするカトリック教徒たちの陰謀に利用されるのを防ぐというものだ。
だが正直に、その目的を口に出すのは憚られた。
聞きようによっては、彼が陰謀に関わることを決めてかかっているように取られかねない。
相手の機嫌をとるつもりで、ロバートは別の理由を口に出した。
「陛下も女性だ。気に入りの男を、実際に妹に与えるとなると惜しくなったのでは」
「あの方が、そんなことを?」
「女性は感情的で嫉妬深い生き物だ。そうだろう」
公爵が求めたのは、女王の未練だったはずだ。女らしい嫉妬の1つも女王が持っていたことを仄めかせば、彼も多少は溜飲が下がるのではと思ったのだが――
「他人にくれてやるのが惜しくなった男を、自らの女官に下げ渡すのか!」
逆に怒りを煽ってしまった。
他人の反感を買うのは得意だが、共感を得るのは不得意な男は、意図せず彼のプライドを逆撫でしてしまったらしい。
「っ!? お、おい! ノーフォーク公?!」
内心、反省する暇もあればこそ、突然剣を抜いた相手に、ロバートは狼狽した。
「ごまかすなよレスター伯。貴殿は嘘が下手だ。これは女王のお考えではないだろう。誰だ、セシルか?」
抜き身の剣を突きつける相手に青ざめると、公爵もまた白い肌を青ざめさせ、鬼気迫る顔で女王の使者に詰め寄った。
壁際まで下がり、ロバートは殺気立つ男に向かって、必死の弁明を見せた。
「違う! 確かに、陛下もご納得された結果だ! 俺も、閣下の安全を思うなら、これ以上、メアリーと関わるべきではないと……!」
「貴殿もあの男に丸め込まれたのか。宮廷は、女王は、あの男のものか!」
叫び、ノーフォーク公が大理石の床に剣を叩きつける。
残響が耳に残る中、ロバートは壁に背をつけたまま、固唾を呑んだ。
「…………」
息を切らし、床に転がった剣を睨みつけていた公爵が、静かに背を向ける。
「帰ってくれ。これ以上、話すことはない」
「ノーフォーク公……」
とりつく島もない背中に拒絶され、ロバートは肩を落とした。
「……分かった。だがイザベラとの縁談を断るにしても、貴方はロンドンに戻らなければならない。これは女王命令だ」
「黙って帰れと言っている」
「ノーフォーク公!」
ロバートは苛立った。
剣を抜いた暴挙といい、気のおけない友人であるということを差し引いても、女王の使者に対してこの態度は、いささか度を過ぎている。
「よく考えろ、ノーフォーク公。彼女は女王だ。そして、貴方はまだ王ではない!」
「黙れ!」
「…………」
部屋に響き渡るほどの一喝を受け、ロバートは互いの間に横たわる深い溝を知った。
その正体が何かまでは分からないものの、彼が到底手の届かない場所に立っているように感じ、ロバートは黙って応接の間を出た。
部屋を出ると、影のような静けさで、執事長のバニスターが待機していた。
無表情な礼を受け、丁重に屋敷の外へと送り出されるが、ロンドンの私邸を訪れた時は随分愛想が良かったのに比べ、いっそ不気味なほどのよそよそしさに違和感を感じた。
「俺は女王の使者だ。1度断られたからといって、簡単に諦めるわけにはいかない。また来る」
別れ際に、そうバニスターに伝えるが、やはり彼は無表情に慇懃な礼で答えただけだった。
翌日も、ロバートはノーフォーク公の屋敷に訪れた。
連日の訪問だったが、些細な変化があった。昨日は女王の使者を丁重に迎え入れた、執事長の姿がなかったのだ。
扱いまで悪くなっているのか。内心毒づきながら、別の若い召使いに案内され、主人が休んでいるという奥の間へと向かう。
扉を開け、中に入ると、こもった熱気が顔に纏わり付いた。
(暑い……?)
4月も半ばを過ぎたというのに、暖炉には真冬のように火がくべられていた。
「ノーフォーク公?」
その燃え盛る暖炉の炎を正面にして、椅子に座っている男は、間違いなくこの屋敷の主であるトマス・ハワードだったが、その背中からは、まるで別人のように、生気が感じられなかった。
漫然と炎を眺める男が、振り向くことはない。
明らかに、昨日とは様子が違った。
一晩頭を冷やし、心境の変化があったのだろうか。
期待を胸に、ロバートは暖炉に向かう背中に話しかけた。
昨日の反省を生かし、説得の方法を変えることにした。
「ノーフォーク公。縁談の話は、この際置いておこう。だが、友人として、正直に助言させてもらう。もしまだ迷っているようなら、メアリーとの結婚を考え直したらどうだ。それか、延期でもいい。今は時期が悪い、分かるだろう?」
問いかけるが、返答はない。
「メアリーはカトリック教徒だ。イングランドの王位継承権を持っている彼女と、閣下が今、結婚すれば、国内の教皇派をむやみに刺激することになりかねない。陛下のお命が危うくなる。いや、勿論、閣下の忠心を疑っているわけではない!」
これは大事なことなので、念を押してフォローしておく。
「例えお2人に悪心がなくとも、破門状に惑わされた教皇派が、そういう凶行に及ぶ可能性があるというだけだ。だが、陛下の身の安全が、国家の安全である以上、あらゆる危険性は遠ざけるのが、忠臣の役目だ。そうだろう」
捲し立てるが、まるで聞こえていないような公爵に苛立った。
「おい、聞いているのか、ノーフォーク公」
「……ってくれ」
「何?」
「帰ってくれ。今は、誰とも話をしたい気分じゃない」
振り向かない男からようやく引き出せた台詞の虚しさに、溜息をつく。
「じゃあ、どんな気分なんだ?」
「神の御心とは何かを考える気分だ」
「…………」
冗談とも思えぬ台詞に返す言葉をなくし、ロバートはしばらく立ち尽くしたが、やりきれぬ気持ちのまま頭を掻いた。
「なるほど……そのような神聖な時間に邪魔をして悪かった。だが、祈るならば礼拝堂の方が気分が出るのでは?」
「…………」
皮肉にも反応はなく、諦めて踵を返す。
まさかこんなにも、この特命を遂行するのに手間取るとは思わなかった。
計りきれぬ公爵の心境に頭を抱えながら部屋を出ると、行きにいたはずの召使いの姿がなかった。
案内もなしか、と対応の悪さに舌打ちしたくなるが、歓迎されていない雰囲気はひしひしと感じた。
宮殿といっても差し支えない広すぎる屋敷を、1人歩き続けるのは、憂鬱だった。任務を全うできないまま手ぶらで帰るわけにもいかないが、頑なな公爵の心を溶かすだけの突破口も見つからない。
このままでは、女王に約束した、五月祭までに帰れないかもしれない。
そろそろ女王が不足してきて、ロバートは肌身離さず懐に入れていた真珠の髪飾りを弄んだ。
彼女はちゃんと、手袋を持ち歩いてくれているだろうか。
「バニスター様ぁー?」
すると、よく声の響く廊下の先から、女性の声が聞こえた。
姿は見えないが、何度となく執事長の名を呼ぶ声が響く。
なるほど、昨日の今日で出迎えに来なかったから、応対のレベルを落とされたのかと思ったが、どうやら不在だったらしい。
ならば帰りの案内がなかったのも、客対応を指示する人間がいなかったからだろうか。
不在なら不在で、普通は代行を置くなりして、仕事が回るようにするものだが。
「ねぇ、バニスター様は?」
やや声が近づいたところで、女の呼びかけが、誰かに話しかけるものに変わった。
「見てないわ」
「朝からいらっしゃらないの」
ロンドンで会った時とは随分様子が変わっていた執事長のことが気にかかっていたので、ロバートは声を頼りに廊下を曲がり、距離を近づけて聞き耳を立てた。
「いつから?」
「郵便を受け取りに行くと、外に出たっきりよ」
角を曲がったところで、扉のない部屋――おそらく台所――に向かって話しかけている女の姿が見え、慌てて身を引っ込める。
「おかしいわね。何も言っていらっしゃらなかったけど」
「ねぇ、まさか、政府に捕まったんじゃあ」
(政府に?)
急に入ってきた別の女の台詞に、疑問を感じる。
どうやら台所にいる何人かの女が、会話に参加しているようだった。
「どういうこと?」
同じ疑問を、違う女が問う。
そこで、答える女のトーンがやや落ちた。意識して耳をそばだてる。
「実はね……ほら、先日、スペイン大使とロス司教がいらっしゃったじゃない」
(スペイン大使とロス司教?)
唐突に出てきた登場人物に首を捻る。
ロス主教は、まだ分かる。メアリーの代理人である男が、彼女の夫となるかもしれない人物のもとを訪ねるのは理屈がかなった。だが、スペイン大使は……
「その日は、バニスター様がお話をしていたのだけど、どうやら本当みたいなのよ」
「だから、何がよ?」
「だから……ついに、北部のカトリック貴族がスペイン軍と手を組んで、この国にカトリックを復活させるんですって。スペイン大使が、興奮気味に話していたのを、聞いちゃったのよ」
(なっ……!)
思わず上げそうになった声を飲み込み、ロバートは改めて周囲の気配を確認してから、壁に貼り付くようにして会話に集中した。
「メアリー女王と結婚した暁には、旦那様がイングランドとスコットランドの王になられるんですって」
「そんなことになったら、この国は、また宗教が変わるのかしら?」
「今の女王陛下くらい、寛容でいらっしゃった方が、下々の者としては過ごしやすいのだけど……」
「偉い方々には、色々思うところがあるのでしょう。それより、旦那様が王様になられたら、私たちの給金も上がるのかしら?」
おしゃべりな台所女たちの反応は、かなりずれているように思えたが、宮廷貴族たちの派閥争いなど、片田舎に住む彼女たちにとっては、文字通り雲の上の出来事なのだろう。
降り注いでくる現実を受け止めることしか出来ない人間からすると、そういう感想にもなるのかもしれない。
全く寝耳に水の話だった。
いや、もしかしたら、政府のごく一部の人間――主にセシルあたり――は、すでに何かを掴んでいるのかもしれない。
思い当たる節もなくはなかったが、謹慎処分を喰らって以降、もともと低かった女王の精霊からの信頼も一向に回復せず、彼らが何やらコソコソやっている話にも、首を突っ込ませてもらえなかったのだ。
「すぐに陛下に知らせなければ……」
足早にその場を去り、屋敷を出たロバートは、すぐにロンドンへと戻ることを決めた。
行きに3日をかけたところを2日で戻り、ロンドンに近づいたロバートは迷った。
このことが宮廷で公になれば、ノーフォーク公爵の失脚は免れない。
なんとか、彼が罪を犯す前に止めることはできないか。
考えた末、ロバートは宮殿には戻らず、女王に宛ててある嘆願書を書いた。




