第145話 女王、破門される
翌日。
悪報は突然、嵐のようにやってきた。
それは、ちょうど朝の謁見が一通り終わり、私が玉座を立とうとしたタイミングだった。
正面の扉口に、2人の見知った男――ロバートとウォルシンガムが姿を現したのだ。
謁見の間を立ち去ろうとした来訪客達の注目を集める2名は、何かを小声で言い合いながら入ってきた。
私とセシルは動きを止め、不思議な気持ちでその2人を眺めた。様子がおかしい。
「おい、どうしたらいい? こんなこと、陛下に何とお話しすれば……!」
「そのようなことにお悩みになられなくて結構。私が話しましょう。この顔には悪報が相応しい」
近づいてくるとそんな会話が聞こえたが、ロバートの方は青ざめて動揺しており、ウォルシンガムはいつも以上に厳しい態度で突き放した。
「何? 何なの?」
その、いつも以上に厳しい表情で、ズカズカと近づいてきたウォルシンガムが、衝撃的な『悪報』を、私に告げた。
「今朝、ロンドン主教の屋敷の門に、こちらの勅書の写しが釘付けられていました。2枚目は英訳の文章です。ラテン語の読めない市民が理解出来るようにと、わざわざ付けたのでしょう」
彼が手にしている2通の文書は、確かにそれぞれラテン語と英語で書かれているようだった。
「それは……?」
「ローマ教皇による、貴女の破門状です」
「破門!?」
思わず声が大きくなり、私は慌てて口を押さえた。
「『イングランドのエリザベスは、王位僭称者、悪魔の召使いである』――よって、『イングランド女王を僭称するエリザベスとその罪深い配下の者たちは異端者であり、あの女が制定した法律に従うことを禁止する。尚、主の御心に背き、悪魔の使いに服従する者はこれを破門する』と」
はいいっ?!
ウォルシンガムが要約して伝えた内容に愕然とする。
固まる私の隣で、セシルがいささか信じがたい様子でウォルシンガムに確認した。
「悪戯ではないのですか? こちらには何もそんな話は……」
「残念ながら、イタリア大使館に確認したところ、2週間前に、イングランドにも本物の勅書が届いていました」
「2週間前? 何故そんなに長い期間、大使館に保留されていたの?」
私が真っ先に感じた疑問には、当然ウォルシンガムも確認を取っていたらしい。
「郵便の仕分けを担当する者が見落としていた、と回答されました。思うに、先に政府に告知すると情報を秘匿される恐れがあるため、このコピーがロンドンに貼り出されるのを待ってから届けるよう、教皇庁に圧力をかけられたのでは」
「実行犯の身元は分かっているの?」
次の質問に答えたのは、守馬頭のロバートだ。
「名はジョン・フェルトン。ロンドン在住のカトリック教徒です。密かに国内に持ち込まれた廃位勅書の写しを無断で公開した罪で逮捕し、尋問にかけています」
「1番の問題は、この勅書を最後まで目を通せば、エリザベス女王を排除する者は必ず神の御心に叶い、天国への道が開かれるという内容がはっきりと読み取れることです」
実行犯の証言などは、もはや彼にとって重要ではないのか、ほとんどかぶせるようにして畳みかけてきたウォルシンガムの台詞には、確かに、前後の会話を吹っ飛ばすほどの衝撃があった。
「これは、カトリック教徒に対し、女王の暗殺を合法化したも同然です」
はぁぁぁぁぁっ?
「本当に宗教ってなんなのー!?」
教皇のタマゴ頭にタマゴを投げつけたい気持ちで、私は枕を壁に向かって叩きつけた。
勿論、寝室に引っ込んでからの暴挙である。
アンには教育上よろしくない光景なため、今は、女官はキャットしか部屋に入れていない。
ベッドが危険地帯と化しているため、フランシスは彼女の膝の上に避難していた。
人を暗殺するのが神に奨励されるってどんな理屈だ! そしてそれがまかり通る意味が分からん!
「権力の行きつく先は腐敗しかねーのかー!」
もう一発。
勢いよく飛翔し、固い壁に激突して柔らかいフォルムをひしゃげさせた枕が、ずるずるとベッドの上に墜落する。
「あーもー! あったまきたー!」
広いベッドの上に座っていた私は、勢いよく背中から倒れ込み、拳を突き上げた。
私はキリスト教徒じゃないから、カトリックだろうがプロテスタントだろうがどっちでもいいけど、分裂したくなった気持ちはよっく分かるわ!!
「……気は済みましたか」
「一応ね!」
しばらくゴロゴロじたばたした後、冷めた眼差しでその様子を眺めていたウォルシンガムに声をかけられ、身体を起こす。
ちょっとスッキリ。
とてもじゃないが平静でいられず、1度頭を冷やしてから状況を理解しようと、説明係にウォルシンガムを連れて寝室に戻った私は、謁見用のドレス姿のまま、ストレス発散に枕を私刑にかけていた。
乱れまくった髪を手で押さえながら、私は残りの不満を、口を尖らせてぶちまけた。
「こんな理不尽ってあったもんじゃないわよ! 普通に考えておかしいでしょ。何だって人殺して天国にいけるのよ。一周回って斜め45度ぶっとんでるわ」
まあ、異端審問とか火刑とかが流行っている時代だから、現代的な道徳や倫理観を求めるのは難しいのかもしれないが、教皇が名指しで、露骨に神様のカサを着て信者動かそうとしているのが、もはやチープな悪役みたいでいただけない。
やるならせめて、もうちょっとオブラートに包んで上手くやれ、と言いたいが、これでもホイホイ動いちゃう人達がいるのが現実なんだろうなー。
ああ腹の立つ!
「お気持ちは分かりますが、これが教皇庁の現実です。そこに神はなく、ただ、神の代理人を語る俗物が、我が物顔で聖書を独占し、迷信を蔓延らせ、人々を惑わし搾取している」
……うん。まあだからといって、過激すぎる清教徒も同じくらいやっかいなんだけどさ。
当然のようにアンチ教皇なウォルシンガムの台詞に、逆に冷静になって私は文句を引っ込めた。
「でも、何だってこのタイミングなわけ? 私なんか悪いことした?」
そりゃ、向こうにとっては存在自体が都合の悪い女だろうが、それなら国王至上法や礼拝統一法を成立させた時や、スコットランドとエディンバラ条約を結んだ時など、いくらでも待ったをかけるタイミングはあったはずだ。
私の暴れっぷりを見ても顔色1つ変えないウォルシンガムが、淡々と答えてくる。
「前教皇ピウス4世は、去年の始めに、英国国教会のローマ・カトリック復帰要請を拒否されたことで、女王の破門を決意したと言われています。ですが、その時点ではまだ、ハプスブルク家との縁談が進んでおり、反対が強かったため、保留されていました」
そのピウス4世が死去し、新しい教皇としてピウス5世が選任されたのは、去年の秋だ。
「ピウス5世は、前任者に比べ、国際情勢や政治問題への配慮よりも、反宗教改革への情熱が勝っている男です。その上、去年の暮れから今年にかけ、メアリー・スチュアートがイングランドに亡命し、囚われたことにより、国内のカトリック勢力が刺激を受けていることに好機を見て、破門に踏み切ったと考えられます」
そうか、メアリーか。
何となく納得しそうになるが、やっぱりしっくり来ない。
いくら私を潰したがっている教皇とはいえ、それだけでは理由が弱くないか?
「でも、今になって『エリザベス破門しました-。さあ、みんな潰しにかかってくださーい』って言ったところで、具体的にどれだけの人間が動き出すか分からないし、そもそも、先にこっちに警戒されたらやりにくくない? ……あ」
言いながら、何かが繋がった気がして、私は声を上げた。
「気付きましたか」
私の表情の変化を見て、ウォルシンガムが察する。
「チャールズ・ベイリーが握っていたリドルフィの暗号。そこに書かれた、スペインと国内のカトリック教徒の共謀――これらは全て、事前にローマ教皇の『お墨付き』があっての計画でしょう」
「なら、リドルフィの陰謀を裏で糸を引いていたのは、ローマ教皇……?」
「破門状の到着を遅らせ、ロンドン市民に大々的に女王の破門が知らしめるよう仕組んだのも、国内のカトリック教徒を煽り立て、北部の反乱に勢いをつけるためと考えれば、全てが繋がります」
強大な真打ちに顔を強ばらせた私に、ウォルシンガムが鋭い眼差しで切り込んだ。
「そして、もう1つ――繋がる糸があります」
「もう1つ……?」
「メアリー・スチュアートとノーフォーク公爵の婚約です」
「それは……!」
咄嗟に否定しそうになって、私は慌てて口を噤んだ。
「破門状が密やかに発布されたのは、今年の2月25日。翌週にはサー・ウィリアム・セシルの暗殺未遂事件があり、反セシル派の貴族の大部分が処分を受けました。その最中の3月6日に、ノーフォーク公爵が3年ぶりに出仕し、1週間後には陛下の元に直接、メアリーとの婚約話が持ち込まれた」
タイミングがいい、と言いたいのか。
確かに、トマスはメアリーとの結婚許可を取るためにロンドンに帰還したと考えられるし、その結婚話が進んだ時期は、教皇の破門、そしてリドルフィの陰謀が進行していたと思しき時期と重なる。
「でも……ちょうど国内でメアリーの処遇が落ち着いた頃という意味では、結婚話が立ち上がってもおかしくない時期だし、陰謀にメアリー自身が関わっていなくても、教皇派が彼女を祭り上げたがるのは確実でしょう」
トマスがメアリーと結託して、私を追い落とすために国内の反乱軍の糸を引いているとは、思いたくなかった。
感情的な部分はオブラートに包み、否定材料を並べた私に、ウォルシンガムは探るような眼差しを向けたが、ふと、その黒い双眸を逸らした。
「いずれにせよ、破門状が公開されたということは、決起の時は近いと考えられるでしょう――陛下、お覚悟を」
「…………」
膝の上でドレスを握り、その言葉を受け止める。
反乱軍を待ち受けるための包囲網は、特命を受けたサセックス伯によって、密やかに準備が進められていた。
「……出来れば、犠牲が出る前に、速やかに解決したいと願っています。ウォルシンガム」
暗に、早く首謀者の名を突き止め、反乱を未然に阻止してくれと頼んだ私に、ウォルシンガムは短く答えた。
「……私もです」
恭しく礼をし、立ち去る黒い背中を目で追いながら、どことなく落ち着かない気持ちでいた私の膝に、するりと黒猫が乗ってきた。
~その頃、秘密枢密院は……
ウォルシンガムが女王の寝室を出ると、廊下で深刻な顔で待つセシルとレスター伯、ハットンの姿があった。
朝のニュースを受け、寝室に引きこもってしまった女王を心配する3人が、ウォルシンガムの顔を見るなり、口々に聞いてくる。
「女王陛下のご様子はいかがでしたか?」
「このような事態に陥り、怯えていらっしゃるのでは……」
憂い顔のとセシルとハットンの隣で、ロバートが自分の胸を抱き締め、芝居がかった声を出した。
「おかわいそうに……俺がお側に侍って、お慰めして差し上げねば――」
「いや、怯えてはいらっしゃらなかったが、怒り狂っていらっしゃった」
「……そうですか」
ウォルシンガムの報告に、少し安心したらしいセシルが頷くが、横で仮想女王(空気)を抱きしめていたロバートの動きが止まった。
「どうしました、レスター伯。陛下をお慰めに上がるのでは?」
ウォルシンガムが冷めた眼差しで促すと、ロバートが再起動し、前髪を掻き上げて答える。
「……いや、今日のところはよしておこう」
そそくさと去っていく男の背中を見送り、ウォルシンガムは先程の『怒り狂った』女王の姿を思い出していた。
「……陛下は『オン』のときは非常に冷静であらせられるが、『オフ』のときは手がつけられないじゃじゃ馬になることがあるからな……」
熱した鉄もそのうち冷める。しばらくは放っておくのが吉だろう。
呟いたウォルシンガムを見上げる視線に気付き、目線を落とすと、大きなエメラルドの瞳とかち合った。
「ハットン、しばらく委員会の方は、貴方に任せることになるかもしれません」
「分かりました。頑張ります」
素早く察し、笑顔で答えてくるクリストファー・ハットンとは、救貧法制定のための調査委員会で共に活動する同僚だった。
完全に周りからは、顔とダンスの才能で選んだとしか思われていない抜擢だったが、こういう人材を見る目は卓越した女王の期待通り、頼もしい活躍を見せている。
相変わらず、女王の魔法でもかかっているのかと思うほど美少年然とした姿のハットンだが、彼も今年で19歳だ。
20歳を過ぎれば、庶民院議員として選出してもいい頃合いだろう。その推薦は、ウォルシンガムが行うつもりだった。
「……少し背が伸びましたか」
若干、目線を落とす角度が変わったことに気付き、口に出すと、ハットンが顔を輝かせた。
「はい! 分かりますか? まだまだウォルシンガムさんには届きませんけど!」
届くつもりでいるのだろうが。
いまだ頭1つ分以上違う少年の飽くなき野望に内心驚くが、そこは言わないでおいてやる。
若干、小児趣味の気が疑われる女王は『伸びるなー』と呪いをかけていそうだが、男の夢に水をかけることもない。
少しウキウキした足取りでハットンが去った後、残された2人は一転して物騒な話題へと移った。
「……これで、陛下の命を狙う者たちには、これ以上ない大義が出来ました」
「ええ」
セシルの静かな言葉に同意する。
イングランド女王の敵は、カトリック教徒だけではない。
むしろ、一部の過激な教皇派を除けば、宗教上の寛容を望んでいる女王に対し、国内のカトリック教徒が不満を持つ理由は少ない。
神に忠誠を誓うか、女王に誓うか。
妥協を許さない究極の選択を迫る教皇の宣言は、純朴な信徒達には混乱を引き起こすだけだろう。
真にこの宣言に喜びを見出すのは、己の利益のために女王の失脚を望む者たちだ。
「……もっと早く破門状を入手することが出来ていれば、このような形で国民に公開されることは、未然に防げたのですが」
今回の件で、反省点があるとすればそこだった。
海外から送られてきた手紙は、大使の公嚢でイングランドに到着し、大使館から連絡係に渡され、受取人へと届けられる。
「今回のように、大使館で重要な情報の隠匿がなされるようなら、郵便物からの情報集約を強化しなければならないでしょう。サー・ウィリアム・セシル、これは貴方の権限で足りますか」
情報は金よりも価値がある、というのがウォルシンガムの信条だった。
貴重な情報を得るためには、いくら金を払っても払い過ぎることはないが、かといって、金で買える情報だけが全てではなかった。
時には、何よりも権力が物を言う。
「許可します。不審な郵便物の秘密開封の権限は、国王大権に属しますが、クロムウェル時代に国王第一秘書に委託されているため、問題ありません」
ウォルシンガムの要望に、セシルは迷うことなく答えた。
「クロムウェルの失脚以降、第一秘書に集中し過ぎた権力を切り崩していく努力は続けられていましたが、郵便物の開封権限については、誰もその重要性に気付かず、有効に利用されることもなければ、この権利を個人の手から剥奪しようとする国王も議会もありませんでした。これについては、過去の権力者たちに感謝しなければなりませんね」
詰めの甘い前任者達を痛烈に皮肉り、宰相が微笑む。
「ウォルシンガム、貴方には、今まで以上に負担をかけることになりますが……」
「何も変わりはしません。私の仕事量が跳ね上がるというだけです」
今回の破門宣言により、これまで水際で止めてきた陰謀とは比にならない数の企みが跋扈することは、容易に想像出来た。
大部分が、取るに足りない、子どもの遊戯のような穴だらけの計画だとしても、数が増えれば煩わしいのは確かだ。
足を踏み出し、ウォルシンガムは拳で側面の壁を殴った。
「……蜘蛛1匹見逃してたまるか」
静かな決意を込めて呟き、女王の寝室の前を後にする。
彼が殴りつけた白い壁には、小さな蜘蛛の潰れた死骸が1つ、貼り付いていた。