第143話 蚊帳の外
ロンドンにも春が訪れ、表面上は、宮廷でも平和な時間が流れていた。
3月から5月にかけては、キリスト教の祝祭日が目白押しで、ちょっとしたゴタゴタなどは祝いの空気に飲み込まれてしまう。
特に、復活祭はキリスト教最大の祝日で、春分の後の、最初の満月の次の日曜日に行われる。今年は3月29日だった。
その翌日の月曜日も休日で、この日、私は、親しい廷臣や大使たちを連れてピクニックに出かけた。
と言っても、人間関係やバランスを考えると、選りすぐったところで百人規模の大所帯だ。プラス、彼らの従者たちがくっついてくるので、実情は女王陛下御一団の誉れあるご行幸状態である。
貴重な休日を移動で潰すのもつまらないので、少し上流に足を伸ばしたところから、テムズ川を船で下ることにした。
珍しいほどよく晴れた空の下、無数の小船がテムズ川に浮かび、イースターのお菓子をふるまわれながら、宮廷人たちがピクニックを楽しむという華やかな光景が繰り広げられる。
ちなみに、その中にセシルとウォルシンガムの姿はない。誘ったのだが、仕事があると断られてしまった。休日なのに。
ロバートやヘンリーも、休日といえども私の護衛という任務があるため、別の舟に乗って哨戒したり、川辺の市民たちに目を光らせたりと忙しそうだった。
そんな中、私はあえて小さな船に乗り、グレート・レディーズとアン、ハットンを乗せて、麗らかな休日の昼下がりを満喫していた。
女だらけの中でも、普通に馴染んでいるハットンはさすがだ。
勉強ばかりだと息が詰まるから……と、連れ出したアンは、こんな日にまで紙とペンを持ちこんで、なにやら熱心に文字を書いていた。
その様子を、ウサギ型の菓子パン(結構リアル)をかじりながら眺めていると、
「出来た!」
パッと顔を上げて、文字の並んだ紙を掲げたアンは、それをそのまま、隣に座っていたハットンの膝に押し付けた。
「はい、ハットンこれ読んで」
「わわ、結構長い文章ですね。アン様がんばりましたね。鍵は前のと同じですか?」
「ううん。当てて!」
「えっ、当てるんですか? それはちょっと難しいなぁ……ヒント下さい、アン様」
「えっとね、6文字で、アンの好きなもの!」
「好きなもの??」
私や目上の人間の前では、年に似合わぬお行儀の良さを見せるアンも、気さくで面倒見のいいお兄さんハットンには、子供らしい甘えを見せる。
ちなみに、アンはメイド・オブ・オナーという女官の地位についているので、ハットンよりも立場が上になる。
これは私の身の回りの世話をしてくれる女官の一般的な地位で、貴族の子女が多い。
「エリザベス……じゃ字数が合わないし……うーん、ちょっと待ってください。考えますから」
最近、アンは暗号に凝っている。
私がウォルシンガムから聞きかじっただけの知識で、アンに遊び半分に教えてやったのがきっかけだが、この子の方がどっぷりと暗号遊びにはまってしまったのだ。
私はというと、スパイという響きに何やらロマンを感じ、女王が暗号解読にも精通しているとか格好良くない? と安易な妄想を膨らませて取り組んでみたのだが、すぐに飽きてしまった。
互いに共有している秘密の鍵と暗号化の法則で、メッセージを交換し合うというくらいならワクワクするのだが、不明な鍵を探して暗号を解読せよ、などというミッションを言い渡されると、地道にそれっぽいものを推測で当てはめていくしかなく、気が狂いそうになる。
こういう地道で根気のいる作業は、私には合わないかもしれない。
「降参? 降参? ハットン」
「まだです。うーん……もう1回ヒント下さい、アン様」
「動物!」
「アン様が好きな動物……」
「ふふふ。何でしょー」
紙とペンを手に、頭をかきながら唸っているハットンの悩み顔を見ながら、アンはウキウキと目を輝かせている。
すでにアンの作成する暗号は、初心者の私が当てずっぽうで解読できるレベルを超えているので、こういう遊び相手はハットンに任せている。
あれだ。夏休みの宿題ドリルについていけなくなって、親戚の現役学生にバトンタッチするお父さんの気分だ。
ハットンで手に負えなくなったら、もはやプロのウォルシンガムに託すしかない。
語学の才能に恵まれている子だと思っていたが、もしかしてアンは理数系なのだろうか。
「……計り知れないわ、この子の才能は……」
「ぷっ……」
真剣に呟くと、隣でイザベラが噴き出した。
「なによ、イザベラ」
「ご、ごめんなさい。陛下が、あまりにも真剣な顔でおっしゃるものですから……」
口元を隠すが、目が笑っている。
きっと親バカと言いたいのだろう。うん、自重しよう。
「ヒツジさんはすっかりアンのお気に入りね」
2人の微笑ましいやり取りを眺め、私は目を細めた。
「暗号で手紙をやりとりするなんて、まるで恋人同士みたいで、心が躍りますわね。少しアンが羨ましいです」
おやおや。
この2人を見て、恋人同士という単語は思い浮かばなかった。
なかなか女子力の高い発想に、私は彼女に聞かねばならないことがあることを思い出した。
「そういえば、イザベラはもうすぐ誕生日よね。いくつになるのだっけ?」
「今年で20歳になります」
「もう20歳かー、早いわね」
最初に出会った時は、16歳だったはずだ。
小柄で、屈託のない明るさを持つイザベラは、出会った頃から変わらず、20歳になった今も、少女のようなあどけなさを残している。
「そろそろ結婚も考えなきゃね」
「そんな、結婚なんて、まだ私は……」
実は先日、彼女の親から、遠回しに夫の選定を希望されていた。
グレート・レディーズは、宮廷内の女性としては最高位の官位に位置する。
私は彼女たちの保護者であり、住み込みで私に仕える彼女たちの永久就職先を斡旋する役割も任せられていた。
「陛下だって独身でいらっしゃるのに」
「私は、まぁ……」
処女王ですから?
「とりあえず、参考に聞かせて。どんな人が良い? 好みは?」
「……年上で、寡黙な方が良いですね」
「へぇ」
「ミステリアスで、少し異国の雰囲気があるような……」
「え、外国人がいいの?」
国内で、良い家柄のところを、と思っていたので、意外な希望に驚く。
「いえ! そういうわけでは!」
聞き返した私に、イザベラは慌てて否定した。
「外国の方ではなく、英国人がいいです。国家のために忠誠を尽くし、ストイックに1つのことに打ち込む姿に憧れます」
……ん?
胸元で手を組み、うっとりと語り出すが、なんだか随分具体的になってきている。
「でも、その方の目に私が映ることなどなく、たった1人を見つめる眼差しが私を切なくさせるのです。けれど、あの方もまた報われない想いを抱えているのだと思うと、決して交わることはなくとも、同じ気持ちを共有できている気がして……」
「あのー、もしもし? イザベラ?」
「はっ……!」
だいぶ遠いところに飛んでいっている女性に、私が呼びかけると、夢見がちな眼差しを遠くに向けていたイザベラが戻ってくる。
「イザベラ……あなた、もしかして……」
みなまで言わずに相手の顔を覗き込むと、イザベラが顔を赤くした。
「と、とにかく! イザベラはまだ結婚など考えていません。陛下にお気にかけて頂けることは幸せですが、私より年上の方々のことを先にお考え頂いて結構ですわ」
プイッとそっぽむいて誤魔化したイザベラに、私の周りに侍っていた別のグレート・レディーズたちが反応した。
「まぁイザベラったら」
「わたくしたちに早く嫁げと?」
「あっ……」
彼女の失言にわざと突っ込んだ先輩たちに、イザベラが青ざめて口を抑えた。
冗談っぽい雰囲気だが、あまり傷が広がらないうちにフォローしてやる。
「それが他の子達も、まだ結婚はいいなんて言い出すのよねー。ねぇ?」
4人のグレートレディーズのうち2人の顔を見ると、彼女たちはわざとらしくそっぽ向いた。
私が即位当初にいたメンバーのうち、結婚したのは1人だけだ。
グレート・レディーズは、未婚の身分の高い女性の名誉職になる。即位から4年経った今も、結婚した1人と入れ替わりで入った十代の子以外は、面子は変わっていない。
「私が悪い影響を与えてるのかしら」
「そんなこと!」
結婚しないことが悪いことだとは思わないが、やはりこの時代の価値観からしたら異質だ。
周囲のプレッシャーも考えると、決して楽な道ではないだろうに、あえて選ぶ彼女たちに、親心から心配すると、イザベラが咄嗟に否定した。
が、思い直したように言い直す。
「いいえ、でも、陛下を見ていると、叶わないと分かっていても、その力強い生き様に憧れてしまいます。私ではとても、陛下のように殿方達と同じ……いえ、それ以上の聡明さで、政を司ることなど出来ませんが……」
「うーん……それほどのものでも、ないけど……」
過剰な羨望を向けられ、こそばゆい気持ちで頬を掻く。
どの時代でも、言われることは一緒だ。
強い、とか、生き方がカッコイイ、とか、自由で羨ましいとか。そんなことは、日本で生きている間もたくさん言われた。
自分で選んだ人生だから、後悔もしてなければ、卑屈になることも特にないけれど、そんな風に羨ましがられると、そんなにいいもんかな、と疑問に思う。
1人で生きていくということは、辛いことも1人で飲み込まなければいけないわけで、私はそれに慣れているけれど、1人で生きるというのは、とても向き不向きがあると思う。
結婚して、家庭を持つことに幸せを感じられる人間は、そうした方が良いに決まっている。
そういうのに向かない人間が、自分に合う人生を模索して、結果的に自由な生き方をしているだけだ。
だが、そうは言っても私とて、人恋しくなる時はある。
結婚したいとか子どもが欲しいとかいう願望がそこまであるわけではないけど、寒い時に、気兼ねなくぎゅっと抱きつけるような相手がいたらいいのになーというのは、たまに思う。
……猫でいいか。
あっさり代替が見つかってしまう。
「猫……じゃ字数が合わないし……」
ハットンは、まだ悩んでいた。
結局、私やグレート・レディーズにも助けを求めたハットンが見つけた6文字の答えは、『Mutton』。
ヒツジさん、だった。
~その頃、秘密枢密院は……
国中が春のまどろみを享受していたその日、リッチモンド宮殿の小会議室では、サー・ウィリアム・セシルとフランシス・ウォルシンガムが、不穏な情勢に警戒を見せていた。
「デ・スペが?」
「ウェストモーランド伯爵、ノーサンバランド伯爵に接近しているとのこと」
挙がった2名の高位貴族の名にセシルが顔をしかめたのは当然で、彼らは古いカトリック貴族であると同時に、反セシル派の大物だった。
先日のロバート・ダドリーを焚きつけた件で名の挙がったデ・スペについては、結局、貴族間に出回っていた同意書を取りまとめていた証拠も、セシルの毒殺未遂事件の首謀者と目されるオックスフォード伯と繋がっていた事実も掴めなかった。
誰と誰が繋がっている、などという噂は、噂の域を出ない限りは何のあてにもならない。だが、レスター伯にセシルの筆跡を見せたタイミングといい、宮廷内で起こる不穏な出来事に、かの男が全く関係していないとは断定し難かった。
外国大使が他国の代表である以上、下手に疑いをかけ、関係を悪化させるわけにもいかず、ウォルシンガムに協力を頼み、スパイを放って慎重に行動を監視していたのだが――
「どうも、ここしばらく動きが大胆になっています。ロンドンを離れることも多く、最近活発になっている市外の教皇派の集会に、顔を出している可能性もある」
「ウェストモーランド伯爵、ノーサンバランド伯爵……教皇派……嫌な符号ですね」
不穏な報告に溜息をつき、セシルは、デ・スペという男を中心に伸びる蜘蛛の糸を仮想した。
ウォルシンガムが、鷹の目で指摘する。
「ここに来て教皇派の動きが活発化している背景には、やはり、メアリー・スチュアートの入国が影響しているかと」
「ええ、恐らくは……今はロンドンから離れたタトベリー城に軟禁しているとはいえ、あの女は、イングランドのローマ・カトリック回帰を望む者にとっては、絶好の象徴となる」
メアリー・スチュアートの罪が証明されず、イングランドに囚われている状況は、彼女に味方する者たちの口からは、こう伝えられるだろう。
冷酷なプロスタント女王に囚われた悲劇のカトリック女王――と。
必要なのは真実ではなく、信仰心や義憤を煽るための物語だ。
このように国内の教皇派――カトリック教徒が活発化している流れは、国外の恐るべき野望と結びつく可能性があった。
その可能性を、ウォルシンガムが臆さずに口にする。
「スペインが、メアリーをトロイの木馬として、このイングランドを内部から崩壊させようとしているとも考えられます」
「ですが、国内の教皇派勢力を煽り立てただけでは、そう簡単に国家転覆は望めない。メアリーはカトリックにとって切り札ですが、最後の切り札です。勝ち目の薄い小競り合いで失うには惜しいと、スペイン王も考えるでしょう。宝物船漂着事件の時の経済制裁の応酬で、結果的にスペイン側の損害の方が大きかったことからも、一連の扇動的な動きが、デ・スペの独断である可能性も高い……」
「――失礼します」
ウォルシンガムの予想に、セシルが慎重な分析を加えていると、会議室の扉が開き、1人の青年が入ってきた。
「ディヴィソン、何があった?」
「今、ドーヴァー港から連絡がありました」
ウォルシンガムの鋭い眼差しが向き、若い秘書が背筋を伸ばして報告する。
「不審な旅行者を逮捕しました。名は、チャールズ・ベイリー。ロベルト・リドルフィなる人物の手紙を運ぶ途中でした」
「その、ロベルト・リドルフィについて調べは?」
「ついています。ロンドン在住のイタリア人。元はフィレンツェの銀行家で、あるビジネスの代理人としてロンドンに来ていると自称している、カトリック教徒です。去年の暮れあたりから、頻繁に海外へと渡っており、この手紙も、スペインから運ばれてきた物のようです」
「スペインから?」
ウォルシンガムの声が険を増す。ディヴィソンは緊張感を帯びた動作で、素早く机の上に数枚の紙を並べた。
「これが、その手紙です」
それは、暗号で書かれた手紙だった。
セシルには全く畑違いのその暗号文にも、ウォルシンガムには一目見てピンと来るものがあったらしい。
「良くやった。すぐに解読に回せ、私もすぐに戻る」
常に冷静な態度を崩さない男の内側に、わずかに逸る気が生まれたことを見て取る。
ウォルシンガムの私邸には、彼が個人的に雇っている暗号解読者が常駐していた。
部下に指示を出した後、ウォルシンガムはセシルに向き直った。
「サー・ウィリアム・セシル、指示を」
「――すぐにベイリーをロンドン塔に。知りうる限り全てのことを自白させなさい」
彼が求める指示を明確にくみ取り、セシルは即座に命じた。
「やり方は任せます。フランシス・ウォルシンガム」
「御意」
ディヴィソンを引き連れて退室した黒い背中を見送り、セシルは1人、会議室の椅子に背を沈めた。
何かが大きく動き出している。
浪が徐々にうねりを増し、近づいてくる音を、聞く思いがした。
だが、その波の全ては、このイングランドの中核に届く前に、うず高く積み上げられた防波堤によって、霧散させられなければいけない。
彼らの守るべきものに、その飛沫が飛ぶことはない――あってはならない。
この時点ではまだ、イングランド女王は蚊帳の外に置かれたままだった。