第142話 主の御心にかなう行い
スペイン大使と教皇特使、そしてイングランドの公爵――3国の代表者が集まった『会合』は、ノーフォーク公爵のロンドンの私邸で、密やかに行われた。
「メアリー・スチュアートが、ダーンリー殺害に共謀したとなどいう嫌疑をかけられているのは不当です。また、それを理由に、彼女が女王を廃されることなどあり得ない。これは全て、異端に支配されたスコットランド政府の陰謀です」
先日、レスター伯と飲み明かしたテーブルに、今は3人の男が向かい合う形で座り、トマスは、今日初めて紹介された男――ロベルト・リドルフィの言葉に耳を傾けていた。
それぞれの手元にはワイングラスが置かれ、赤い液体が注がれていたが、今はまだ、誰も手をつけようとはしていない。
「神によって聖別され、教皇の祝福を受けた君主を、一体この俗世界の誰が廃することが出来るでしょう。イザヤ書はこう述べています――『誠に、主は私たちを裁く方、主は私たちの立法者、主は私たちの王、この方が私たちを救われる』と。哀れな子羊が主を裁くことが許されるなどとは、聖書のどこにも書かれてはいない」
熱っぽく語るリドルフィは、敬虔なカトリック教徒らしく、度々聖句を交えスコットランド女王の正当性と、スコットランド政府の不正を力説した。
「ご覧なさい、あの哀れな幼少の王を。無知蒙昧のままに、異端の徒の操り人形として玉座に座らされる小さき者を。母親から引き離され、母親は父殺しの堕落者であると吹きこまれて育つ不幸な少年を。誰が、あれが正しい国の在り方であると信じますか? 真の王は、このイングランドにいる。異端の思惑によって、ままならぬ身に置かれた哀れな女王、神聖なるスコットランド女王――例え彼女を玉座から追い落とそうとも、何者も、あの方の血から、王の誇りを奪うことなど出来ません」
彼の言葉は、実に正しく聞こえた。
王が神の代理人である以上、神の下僕である民が、王を裁くことなど出来ない。
王の資格は、その血統と聖別によってのみ与えられる。それは、俗世から乖離された、聖化された存在であるということだ。
神の手足である王の下に、王の手足となる貴族がいて、その貴族の下に、支配されるべき人々がいる。
子は親に従い、女は男に従う。
身分とは秩序だ。それは自然界の秩序であり、すなわち神が定めた配置だ。
これを怠れば、たちまち国家は崩壊し、全ては混沌に帰す。
「メアリー女王は、この結婚に賭けておられます。運命の悪戯で囚われた哀れな女王を救い出せるのは、もはや閣下しかいない。その望みが叶うのならば、女王は従順なる妻として、閣下に己の持ちうるもの全てを捧げたいと、熱望しておられます」
メアリーとトマスの懸け橋となっているデ・スペが、リドルフィの言論を後押しする。
この男から送られてきた、メアリー女王直筆の手紙には、美しいフランス語の文体で、情熱的な文句と不幸な現状を嘆く文が綴られており、いかにも憐憫と情動を誘った。
女王たる身上の女性が、己の足元に縋りつき、助けを請う様は、男として庇護欲をそそられ、また自尊心を満たすものでもあった。
デ・スペとノーフォーク公、2人の顔を見回し、教皇特使が鷹揚に頷いた。
「スコットランド女王の夫には、プランタジネット王朝の血を引き、イングランド随一の大貴族である閣下が、身分からいっても相応しいと、猊下も言っておられます」
「教皇猊下が、そう望まれていると?」
去年の秋に死去した前教皇の後を受け、選出された新教皇ピウス5世は、教皇選出前はローマの異端審問長官として活躍し、戴冠後は、次々に抜本的なカトリック改革を実行している革新派だ。
「勿論です。私は先日、お2人のご結婚を祝福する旨を口頭で頂いております。猊下は、現在のブリテン島が異端の島となっている現状を憂い、ひどく御心を痛めておられます。お2人の聖なる婚姻が、再び両国を神の御心に適う道へと引き戻すことを、大いに期待しておられます」
特使が伝える教皇の言葉は、トマスの心の深い部分に響いた。
それは、一種本能的とも言える、かの存在に対する崇拝と畏敬の念が、国家の変遷により国教徒となることを余儀なくされてもなお、彼の根底に根づいているからだった。
彫りの深い顔に爛々と輝く眼が、食い入るようにトマスを見据え、リドルフィは力強く言葉を重ねた。
「猊下は、もう1つ、今回の計画にも祝福を与えられています」
「計画?」
「神の御心のままに、閣下が北部貴族の旗頭となり、メアリー・スチュアートを救出し、同時にスペイン軍がブリテン島に上陸すれば、容易にロンドンを押さえられるでしょう。エリザベスを逮捕し、スペイン軍と北部貴族の連合軍がロンドンを陥落した暁には、スペインの支持、そして教皇猊下の祝福の下、メアリー・スチュアートを正当なるイングランド女王として迎える――」
「ちょっと待て、それは――」
動揺するトマスを、リドルフィの揺るぎない目が捕らえ続ける。
確かに、イングランド北部はカトリック色が強く、また封建領主が幅を利かせているため、中央集権化を推し進める絶対君主に対抗する火種は、何世代も前から燻っていた。
「何か?」
「そんな話は聞いていない。だいたい、スペインの支持を得られる保証は――」
「それにつきましてはご心配なく、閣下」
自信たっぷりに言い切り、リドルフィは胸を張って答えた。
「私めがスペインとネーデルランドに赴き、アルバ公爵とフィリペ王直々に、今回の計画の概要について賛同を得ています。後は、この計画の肝である北部貴族の蜂起との連携について、信頼性を示すことが出来れば、確実に協力を得ることが出来るでしょう。そのためには、彼らに強い影響力を持つ閣下の名が必要になる」
「…………」
教皇特使の説得は巧みだったが、あまりにも大それた計画に、トマスは臓腑が冷えていくような感覚を覚えた。
いつの間に、こんな話になっていたのか。
初めは、デ・スペから、メアリー・スチュアートとの結婚を打診されただけだったはずだ。
――否、そこに付随する大きな可能性に対して、野心や期待がなかったわけではない。
「この計画を成功裏に収めるためには、閣下の存在が重要になる。この国の気難しい国民達が、スコットランドから来た女王を受け入れるには、由緒正しいイングランドの血を持つ男の王の存在が必要です。閣下が王に立てば、全ての国民が喜び、諸手を上げてお2人を迎えることでしょう。度重なる女の治世に苦しめられている国民は、今、力強い男の王と、正しき継承者を、切実に求めているのですから」
トマスの内心を読み取ったかのようなタイミングで、スペイン大使が追従する。
心地よい音楽を奏でるように、リドルフィが重ねた。
「そう、つまり猊下はこう言っておられるのです。閣下は、スコットランドの王に――そして、いずれイングランドの王になるべきお方であると」
「…………」
王に。
迷い、揺れていた心に、その言葉がもう1度鐘を打つ。
彼女の姿を前に、王位への渇望が酷く卑しいものに思えた己の、萎れた自尊心に、教皇の――神の代弁者の言葉が、聖なる水のように注がれる。
だが、目の前のリドルフィなる男ほど、一途に――あるいは狂信的に、教皇の言葉を信奉することも出来ないトマスは、1度かぶりを振り、自らに立場を思い起こさせた。
手元のワイングラスを掴んで酒を煽った後、目を伏せて、必死に理性の言葉を紡ぐ。
「いや……だが……彼女が……あの方が、エリザベス女王が、この国の王だ。俺は神の僕だが、同時に、このイングランドの王の僕でもある」
「残念ながら閣下。今、王を名乗る女が座っているのは、偽りの玉座です」
「何……?」
リドルフィの台詞は、過激なローマ・カトリック教徒の常套句に近かったが、やけに自信に満ちた物言いに、トマスは顔を上げて男を見返した。
「教皇猊下は、エリザベスの破門を心にお決めになりました」
「破門……?」
その単語に、空のグラスを掴んだ指先が震えた。
破門は、ローマ教皇が、その者のカトリック教徒としての資格を剥奪し、教会から除名、追放することを意味する。
ローマ・カトリックが支配するヨーロッパでは、それは致命的な、社会的生命の喪失だった。
ローマ教皇の権威を否定するプロテスタントが勢力を伸ばしつつある今の時代では、破門が持つ意味もまた、大きく変わってきてはいるが、少なくともローマ・カトリックの信仰を守る者達の中では、エリザベスは完全なる異端の烙印を押されたことになる。
「あの悪運の女は、遂に天にも見放されたのです」
これはデ・スペの言葉だが、彼は満足そうに微笑んだ。
スペイン大使に頷いたリドルフィが、壇上で説教を説く聖職者のような確信に満ちた声で、恐るべき事実を口にする。
「猊下は、かの過ちの女に臣下が従う義務はないと――また、異端を信奉し、人心を惑わすエリザベスを……悪しき蛇を抹殺する者は、主の御心に叶うと言っておられます」
「一国の女王を殺して、天は罪に問わないというのか……?! そのようなこと……」
「それが主の御心であるということは、教皇猊下がご存じであらせられます」
「……そんな……」
愕然とし、トマスは言葉を失った。
「すでに、世界中の敬虔なる信徒たちが動き出しています。異端の女を殺すことによって、最後の審判が約束されるのですから、何を恐れることがあるのでしょう」
恐れていない――この男は恐れていないのだろうと、リドルフィを見てトマスは確信できた。
黒く爛々と輝く強い瞳は、己の信ずるものの正しさを疑ってはいない。
それは、信じるものの為に魂を賭すことを惜しまぬ者のみが持ちうる――そう、殉教者の目だった。
「ですから閣下、何も恐れることはありません。この計画が実行される頃には、エリザベスは異端の女として全世界に知らしめられ、メアリー・スチュアートが正当なるイングランド女王であると、全てのカトリック教徒が認めていることでしょう」
「だが……俺は、彼女を……女王陛下を……」
彼女を陥れるということに、本能的な忌避感を感じたトマスは、人を絡め取るような男の熱情にも、辛うじて抗った。
「閣下は非情になり切れぬ方だ」
そんなトマスを見て、スペイン大使が全く別の角度から、迷える魂に手を伸ばす。
「ならばなおさら、異端の女にせめてもの救いのチャンスを与えるためにも、この男の話に耳を傾けて頂いた方が良いでしょう」
「どういう意味だ……?」
恐る恐る聞き返すトマスに、デ・スペは底の見えぬ微笑で答えた。
「今回の計画が成功し、エリザベスが逮捕され、メアリーがカトリックの女王として君臨した暁には、エリザベスにも改心の機会が与えられるでしょう。ですが、間もなく教皇猊下の破門勅書がこのイングランドに届き、宮殿の門に打ちつけられる。そうなれば、あの女は遅かれ早かれ、信徒の手によって王位も、生命も失うことになる。そう、異端の徒の手にかかったギーズ公のように――」
「……!」
2年前に暗殺されたフランスの権力者の名に、トマスは息を飲んだ。
リドルフィが、更に追い打ちをかけてくる。
「実はスペインでは、すでにエリザベス暗殺計画が浮上していました。ですが、私がフィリペ王とアルバ公爵に謁見し、今回の計画をお伝えしたところ、非常に興味を示され、この侵略計画に取って代わったのです。この計画が実行されなければ、そちらの計画が実行されるだけのこと」
「…………」
「王位と命を諸共に失うか、王位を失う代わりに、正しき道へと戻るか――あの女に残された道は、2つに1つです」
無言のまま、両手で顔を覆ったトマスの耳に、リドルフィの声がねっとりと纏わりつく。
死か失脚か。
「閣下、こちらを――」
究極の選択を突きつけられ、苦悩するトマスの前に、デ・スペが数枚の書類を滑らせた。
暗号で書かれているらしく、一見読解が不可能な文字列が並んでいる。
「これは……?」
「フィリペ王とアルバ公に宛てた、北部の蜂起に合わせた、イングランド侵略のための派兵を請う文面です」
デ・スペはいとも簡単に、その内容を教えてくれた。
末尾には、ウェストモーランド伯爵チャールズ・ネヴィル、ノーサンバランド伯爵トマス・パーシーの署名があった。
いずれも伝統的にカトリックを守っている北部で、強い支配力を持つ領主だ。
「彼らが実際に指揮を取って蜂起し、北部、中部のカトリック教徒を取り込みながら、南部へと攻め込む手はずになっています。後は閣下の同意を得れば、我が君とアルバ公の信頼を得るに足る条件が揃う」
差し出された書類の隣に、羽ペンとインクを用意され、トマスは食い入るように、書類の一番下の空白を見つめた。
(ここに、俺が署名をするのか?)
もしこの暗号文を誰かに盗まれれば?
そして、解読できるような高度な技術を持った者の手に渡れば?
身動きが取れなかった。
葛藤するトマスの心情を探るように、2対の静かな眼差しが注がれる。
彼らに、臆病風に吹かれたと取られるのも嫌だったが、なぜか一瞬、サー・ウィリアム・セシルの顔が頭に浮かんだ。
女王の寵を独占するあの男。
全てを見透かすような、あの男の静かな眼差しに、この企みすら見通されるのではないかと――
恐れを抱くと同時に、怖れを感じた己への怒りも湧いた。
「……サインは出来ない。だが、内容には同意していると口頭で伝えることは、この場で了承しよう」
2つの相反する感情の間で、トマスが選んだ妥協の選択に、2人は一応、納得はしたようだった。
「……かしこまりました。そのように計らいましょう」
目を細め、デ・スペが媚びるような笑みを浮かべた。
「大変主の御心にかなう行いです、閣下」
その隣で、リドルフィが十字を切り、祈りを口にした。
「未来の国王に、主の祝福の給わらんことを」
――蜂起は2ヶ月後。
2人が部屋を出た後、残されたトマス・ハワードは、いっそ時が止まり、その日が永遠に来なければいいのにと、願わずにはいられなかった。




