第138話 目指すは繁栄と平和の地
「またデ・スペですか……」
女王の雷が宮廷に轟いたその日、ウォルシンガムから報告を受けたセシルは、細い顎に手を置き、眉間の皺を深めた。
主席国務大臣の執務室で、机越しに立つ黒衣の男が、事務的に報告を続ける。
「陛下の証言では、あの書類を紛失したのは半年以上前の話です。どのようなルートを辿ってデ・スペの手に渡ったかは定かではありませんが、レスター伯がデ・スペから書類を手渡されたのは今年の2月初旬で、アントワープ港との交易再開を妨害する企てへの同意書が、高位貴族たちの間で出回った時期と重なります」
今回、ウォルシンガムがセシル失脚を目論む人間を一網打尽にリストアップ出来たのは、何者か――恐らくはデ・スペと、英国貴族達の間で取り交わされたと思しき同意書を入手したからだ。
「時機を狙い、秘匿していたと?」
「そう考えるのが自然でしょう。デ・スペは、あの書類が貴方の書いたものだと知っていて、レスター伯を煽るのに格好の材料と考え、機会をうかがっていた。今回は恐らく、単純なレスター伯を刺激して、陰謀に加担させた形跡を残すのが狙いだったのかと」
「形跡を残す?」
「これは私の推測ですが、デ・スペの狙いはスペインの経済制裁解除の妨害ともう1つ、イングランド宮廷内部の分裂ではないかと」
「…………」
ウォルシンガムの推測に、セシルは考え込んだ。
政府の中核である主席国務大臣と守馬頭の仲違いを狙ったり、貴族派と庶民派の軋轢に付け入ったりと、女王を中心に強固に結束を固めつつあるイングランド宮廷内で、煽動的な動きを見せるスペイン大使の行動からは、2年前のある事件が想起される。
「かの男が今回の陰謀を首謀していたとすれば、2年前の宝物船漂着事件での、スペインへの先走った誤報も、意図的に両国の関係を悪化させるために仕組んだものだと、考えるべきでしょうね」
「スペインが、我が国と戦争する理由を探している――と、貴方はそう考えますか、サー・ウィリアム・セシル」
「いいえ。現時点では、これがフィリペ王の意向か、デ・スペの独断かまでは断定しかねます」
無意識か意図的か、鷹のような鋭い眼差しで言質を取ろうとするウォルシンガムの言葉を、慎重に否定する。
この男は、慎重な疑り深さを持ってはいるが、その実、冷静な表情の内側に、理想高く好戦的な資質を燻らせている。
メアリー・スチュアートにしてもスペインにしても、彼は、自らが敵と見定めた者には容赦を持たない。
だが、ことスペインに関して、セシルは積極的にかの国を敵に回すつもりはなかった。
「フィリペ王は長年イングランド王位への野心を持ち続けてはいますが、戦争自体は避け続ける慎重さは持ち合わせていました。ネーデルラント紛争に大規模な軍勢を投入している今、戦費の調達の問題もある」
今、女王とセシルは、極力スペインとの戦争を回避する方向で全力を尽くしている。
かのカトリックの大国を相手取るには、イングランドはあまりにも小さかった。
仮にフィリペ王がスペイン大使を通して挑発を重ねているとしても、今、それに乗るわけにはいかない。それが大使個人の偏向した思想によるものであるならば、尚更だ。
いずれにせよ、現時点では、デ・スペに圧力をかけることはできなかった。
「外国大使には外交官特権がある。原則、我が国の法律で裁けない以上、下手に手を出すことは出来ない。少し泳がせましょう」
そう結論づけ、セシルは、表に出ない情熱を燃やしているであろう後輩に微笑みかけた。
「苦労をかけますね、ウォルシンガム」
「いいえ、むしろ行動目的がはっきりして助かります」
その微笑の意味を知ってか知らずか、男は相変わらず固い口調で答えた。
「トップ2人が、自身の身の安全を顧みない方々ですので、我が国の安全保障はお二方をお守りすることにかかっていると思っていますから」
「ははは」
一緒にされてしまった。
国王と己では、その価値は比べるべくもないが、そういって自身を軽視するから、この男の皮肉が飛んでくるのだろう。
「女王は、貴方を裏切ることは、自身を裏切ることだとおっしゃっています」
「おやおや」
買いかぶられたものだ。
だが、そうまで買いかぶられては、もはや裏切ることなど不可能だった。
「確かに貴方は女王の精霊だ。精霊を傷つけられた女王の怒りは、とどまることを知らない」
「あまり追い詰めないでください。肩身が狭い」
苦笑し、それ以上の言及を押し留める。
「ですが、私1人で陛下をお守りできるわけではありません。枢密院は王の諮問機関。君主を支える最も強固な柱でなければいけない。上に立つ者として、いかにして彼らを統率するか――危機に瀕した今こそ、王としての彼女の真価が試される時なのかもしれません」
※※※
「別に、何のために働いていようが良いのよ。給料のためだろうが自己成長のためだろうが、余暇のためだろうが。愛社精神なんてなくったって、自分の利益と会社の利益が一致する限りは」
翌日、大半の枢密院委員が出廷を禁じられたため会議が延期となり、私は予定より早い時間から執務室にいた。
「でも、個人の欲のために会社に損害を与える社員は最悪よ」
1つ先にやっておきたいことがあったので、まだ案件の仕分けが済んでいないらしいウォルシンガムが応接用のテーブルに書類を積み上げていくのを横目に、机に向かう。
「舟に穴を開ける船員はいりません」
「先ほどから何を熱心に書いていらっしゃるのですか」
私の大きな独り言に、作業に集中していたウォルシンガムは相槌すら打たなかったが、一段落したところで、顔を上げて問いかけてきた。
私が、声に出して考えをまとめつつ、真剣に文面を練りながら書いていたのは、1通の手紙だ。
「手紙」
「そうですか」
「ウォルシンガム読む?」
「私に読ませられるものなのですか」
「うん」
説明するよりも見てもらった方が早いので、私が手紙を突き出すと、席を立ったウォルシンガムが受け取った。
『愛する皆さんへ
このイングランドは大きな一隻の船です。
目指す場所は「繁栄と平和の地」です。
目的地を同じにする限り、どのような信念を持ち乗り合っても構いませんが、船に穴を開ける船員はいりません。
船長であるわたくしは、あなたがたが未来永劫、優秀にして誠実な船員であることを信じ、願っています。
女王エリザベス
追伸
あなた方が私を愛するように、私もあなた方を愛しています。然るに、あなた方は私の愛する者たちも同様に愛して下さい。そして、私が最も愛する国家と国民の為に働いて下さい。それこそが最も私への愛と忠誠の証となるのですから』
本文では女王として決然と、追伸では友人としての親しみも込めて書いた。
「これを複写して、処分したメンバー全員に送って」
「これを?」
「ただ蟄居させただけだと、『またセシルを贔屓した』ってむくれるだけでしょう。私が何に対して怒ってるのか、きっちり言葉で伝えないと、あいつらには伝わらないわ」
自分のやったことを棚上げして、不満たらたらで屋敷にこもっている奴らの顔が目に浮かぶ。
手紙を読んでいたウォルシンガムが口元に手を当て、珍しく笑いを滲ませた。
別に、そんな面白いことは書いていないはずだが。
「あなたは実に良い教育者になりそうだ」
そんな妙な褒め言葉を頂いた。
「未熟な人間の叱り方をよく分かっている」
自分よりはるかに年下の若造に未熟呼ばわりされてしまう政府の重鎮たちも情けないが、今回の件に関しては、そう言われても仕方がないだろう。
子どもを育てたことはないが、学生時代、社会人を通して、後輩の面倒はよく見てきた方だ。
なんだかんだいって私は、目下の者が可愛くて仕方がない。彼らが悩みながら努力している姿は、過去の自分が通ってきた道と同じだからだ。
「本当に子どもだったら可愛いもんなんだけどねー。まあ、あのオッサン共も、可愛くないわけじゃないけど」
彼らに忠誠心がないわけではない。
むしろ、認めて欲しい気持ちが行き過ぎた上での行動だ。
名誉や出世、利権が絡むこの宮廷という競争社会で、全員仲良く一致団結しろと呼びかけるのは難しい。
規範の枠内であれば、個々の対立や競争は受け入れなければならないだろう。それが切磋琢磨やバランサーという形で機能すれば、組織としては非常に望ましい。
求めるのは国家と君主への忠誠。
これを冒さない限りは、彼らは仲間だ、と私は割り切ることにしていた。
どちらか一方ではダメなのだ。
このイングランドでは、それは表裏一体のものだ。
なぜなら私は、国家と結婚しているのだから。
「なんだかんだ言っても、彼らはイングランドの国民で、私の臣下だもの。目先の事に囚われてやり方を間違える者はいても、誰もこの国を破滅させたいと思っている人間はいないでしょう。そういう意味では、根っこの部分では分かり合えると思ってるの。けど……別の大目的を持っている人間と、付き合っていくのは、なかなか骨が折れるわね」
この船には、別の目的で乗り込んでいる人間も、実は大勢いる。
そして、彼らを強制的に下ろすことが出来ないのも、現実だ。
外国大使などというのはその最たるもので、彼らは表向きは両国の友好の架け橋となるために来ているが、当然、根底には自国の利益を確保することが目的としてある。
彼らは、国家に認められた公式のスパイなのだ。
とはいえ、外国との公的なパイプや情報提供者は必要不可欠なもので、彼らを排除することは出来ない。
互いに腹を探り合い、利用し合う関係であるという前提で、一定の信頼関係を築いていくというのは、困難だが不可能なことではなかった。
だが――
「ウォルシンガム。昨日の、デ・スペのことなんだけど……」
「その件については、陛下にはかの男からの提言を警戒して頂くだけで十分かと」
「へ?」
皆まで言うより先に答えられ、私は間の抜けた声を出した。
「デ・スペの不審な動きについては、先日サー・ウィリアム・セシルと話し合い、当面は監視をつけて泳がせ、真意を探ることになりました。しっぽを掴むまでは、貴女が何も気付いていないと思わせておいた方が、迂闊な行動を誘えるでしょう」
「……了解」
ものすごく言外に『余計なことをするな』と言われているような気がしたが、彼らが動いているというなら、別に私が口を挟むこともない。
ここは大人しく了解しておく。
「あ、そうだクマさん」
「何ですか」
どうやらお互い作業が一段落ついたようだが、今日はまだ時間に余裕があったので、私はそのうちつついてやろうと思っていたネタを振った。
「クマさんってセシルのスパイなんでしょう? 本場イタリア仕込みの」
「…………サー・ウィリアム・セシルから聞いたのですか」
「うん。女王命令って言ったら教えてくれた」
「教えてくれた、ではなく、白状させたのです、それは」
どっちでもいいもん。
微妙に嫌そうな顔をされている気もするが、多分気のせい。もともとこんな顔。
「ねぇクマさん、なんかスパイっぽいこと教えてよ」
「は?」
「なんかあるんでしょ、盗聴とか、読唇術とか、変装とか……」
「知ってどうするのです」
「え? なんかカッコいいかなーって。いざという時に役立つかもしれないし」
「貴女に余計な事を教えると、余計な危険に突っ込んでいく未来しか想像できないのですが」
「そんなことありませんー」
「…………」
不景気な顔で黙られたが、わざと期待の眼差しで見つめ続けていると、ウォルシンガムは不景気な顔のまま、応接テーブルの方に戻り、白紙の紙に何かを書きつけて持ってきた。
「では、こちらを」
「何これ」
紙面には、アルファベットの文字列が一列に並んでいたが、ぱっと見全く意味をなさない文字の羅列だった。
「初歩の暗号です」
「暗号!」
おおっ! スパイっぽい!
目を輝かせた私に、呆れたような溜息をつき、ウォルシンガムが平坦な声で言った。
「そちらを解読できれば、より実用的な技術をお伝えしましょう」
「よーし、任せろ。で、どうやって解けばいいの?」
「それを考えて下さい」
「ええっ!?」
いきなり素人に無茶ぶりだ。ひどい。
「教える気ないんじゃないのー? ん……?」
ぶつぶつ言いながら、紙に書かれた意味不明な文字列を眺めていると、ふと引っかかることがあった。
文字列に、と言うよりは、さっきのウォルシンガムの台詞にだが。
「初歩の暗号って言ったわよね?」
「ハイ」
「……あ、じゃあやったことあるかも!」
昔、レイと出会った頃、彼がちょうど暗号にハマっていて、簡単な暗号文の作り方や読み方を教えてもらったことがある。
「暗号解読の経験が?」
「昔ね、友達でこういうのが好きな子がいて、簡単なのなら教えてもらったことがあるのよねー。わざわざ暗号でメッセージのやりとりしてみたりして。懐かしいなー」
忘れかけていた思い出が蘇る。
「渡したCD聞いた?」とか「6曲目と14曲目が好き」とか、普通に話した方が早いような、どうでもいい内容を短い暗号で交換していた。
そんな暗号を書いたメモすら、もらった煙草の缶ケースに大事に入れて宝物にしていた。
懐かしいなー。あのケースどこにいったんだろ。捨ててないはずだけど、いつの間にかなくしてしまった。
そんな切ない思い出まで、一緒に引っ張り出され、自然と頬が緩んだ。
「……男ですか」
「へっ!? な、なんで!?」
予想外の台詞をポツリと呟かれ、私は思わず、持っていた紙を握り潰した。
「そのような顔をされていましたから」
してませんけど!?
「ま、まあ確かに。男か女かと言われたら男ですけど。だからって別にどうということも……」
って、何をしどろもどろ言い訳を始めてるんだ私!
というか、今のいらない墓穴だった気がする!
「…………」
ウォルシンガムの視線が刺さる。頼む、さっきの私のピンク色の回想を透視しないでくれ。
「さ、暗号暗号。えーっと、どうするんだっけ? とりあず、アルファベットを順番に書き出して……」
急いで脳みそから思い出を弾き出し、皺が寄った紙を机の上で伸ばしながら暗号解読に取りかかる。
最初のウォルシンガムの暗号は本当に簡単で、ものの10分ほどで解けたが、「経験者ならこちらを」と出し直された2問目は、やたらと格段に難しく、結局その日のうちには解けなかった。
いじわるか!




