第136話 女王と精霊の協奏曲
麗らかな春の日差しを受けた川辺は、予想していたよりもずっと暖かかった。
眼鏡を外したセシルが、向かいでハープをつま弾くのを、私は小舟に揺られながら眺めていた。
淡い栗色の髪が、穏やかな春風になびく。
同じく風に吹かれてさざめく川面の波も、寝息のように穏やかで、まるで彼が奏でるハープの音色が、この場に息づく全ての生きとし生けるものに、安らかな眠りを与えているようだ。
影が映るほど長いまつげに縁取られた目を伏せ、その指先から生み出す音に聞き入るセシルの表情には、いつもとは違う魅力があった。
いかん、にやける。
さすがに向かいでニヤニヤしていたら怪しいので、口元が緩みそうになるのを戒める。
舟の漕ぎ手がいるため、2人きりというわけではなかったが、せっかくなので眼鏡は奪った。
眼鏡を外すと余計に若く見える宰相は、相変わらず年齢不詳の美人さんだ。
ここまでハープが似合う男というのも、そうそういないだろう。
フルートとハープのための協奏曲を聞いて、見た目の優美さに憧れてフルートを始めたというきっかけを持つ私としては、こんな素敵なセッションが出来るとは、まさに夢が叶った気分だ。
写真も動画も撮れないのが惜しい。
などとすっかりミーハー気分で、絵になる湖上のハープ奏者に見とれながら、ソロ部分に聞き入る。
彼が抱える小ぶりのハープは、私が現代で見ていたものとは違う、弦が二重になったダブル・ハープだ。
私も21世紀では、古楽器の演奏会で1度聞いたことがあるくらいだった。
切り替え用のペダルもレバーも付いていないため、全ての音階が2列の弦に張られている。
ものすごく複雑な奏法が要求される上、弦の間隔が狭いため、男性だとセシルのように指の細い人でないと奏でるのは難しいのではなかろうか。
たくさんある弦の間を行き来する繊細な指の動きは芸術的で、思わずうっとりと見入ってしまう。
基本、セシルは寝るとき以外は常に仕事をしているため、なかなか時間を取ることが出来ないのだが、私の1番好きなこの曲を協奏するために、たまに2人で練習していた。
楽器の構造はその時代の音楽性によって変化していくので、18世紀に作られた曲を16世紀の楽器で弾くには色々と限界があり、曲の方を改良することになったが、おかげでとても異時代的な、何とも不思議な魅力のある曲になった。
21世紀のフルートと、16世紀のハープで18世紀の協奏曲を演奏する――そこに生まれる不思議な調和が、時代を超えても共有できる人の心を表しているようで、私たちにピッタリな気がした。
ダブル・ハープのゆらゆらと揺れる音は、どこか水の中にいるような、穏やかで非現実的な気分にさせられる。
そんなところも、優しい風貌を持つセシルに似合っている。
美しいわぁぁぁ。
「陛下?」
ふと、セシルが指を止め、音が止んだ。
気付けば私のパートだ。
「うわ、ごめん! 今思いっきり見とれてた!」
セシルを励ますつもりが、完全に自分が癒されていた。
正直に謝ると、なぜかセシルが破顔した。
「陛下、それは男が女性を口説く時の台詞です」
「……あ、確かに」
思い当たる節があり、私は閃いた。
「そういえば、何度か言われたことがある気がするわ。なるほど、こういう心理か!」
ものすごく納得してしまい、1つ賢くなった気になる。
「……ぷっ……はははっ」
だが、セシルは変にツボにはまってしまったらしく、大笑いされた。
「セシル? 笑い過ぎじゃない?」
「いえ、ははっ……すみません……貴女が面白すぎるので……っ」
ちょっと失礼なことを言ってるぞセシル!
けど、大笑いするセシルとか珍しいものが見れたので、まあいいか。
「すみません、途中で演奏を止めてしまいました」
「いや、止めたの私だし!」
一通り笑い終えたセシルに謝られる。
「でも、今日は本当にびっくりしちゃった。セシルが無事で良かった」
とてもついさっき毒殺されかけたとは思えない落ち着きっぷりのせいで、あまり実感が湧かないが、本当にあったことだ。
「ウォルシンガムに助けられましたね」
「アイツが犬担いで走っていくの見た時は、何が起こってるのかと思ったわ……」
あんなに慌てているウォルシンガムは初めて見たかもしれない。
「ねぇセシル、前々から気になってたんだけど……アイツって何者なの? 今日も業務の1つとか言ってたけど、下院議員の仕事が宰相の暗殺阻止とか聞いたことないんだけど。それともこの時代は、秘書の業務にそういうのも含まれてるわけ?」
「含まれている、といえば、含まれているかもしれませんが……」
ウォルシンガムは現在下院の若手議員で、セシルの私設秘書として、国王第一秘書代理という形で私の業務をサポートしているが、公職に付いているわけではない。
有能宰相の片腕、というだけで、実はぺーぺーだ。妙に貫録があるので忘れかける。
秘密枢密院メンバー繋がりで、守馬頭のロバートとも微妙に仲がいいし、きっと宮廷でもコイツ何者、と思われているだろうが、私もたまにコイツ何者、と思うことがある。
海外で生活していた期間が長いため、その時に培った人脈を利用して情報を集めているとは、以前もセシルから聞いたが、宮廷内での宰相の暗殺計画を事前に察知するなどは、もはや情報通の域を超えている。
本人はその辺は黙秘を貫くので、詳細は謎だ。
「ふむ……」
ハープを抱えたまま、セシルが考えるように視線を落とした。
「本人から口を割ることはないでしょうし、了承なく話すのも気は引けるのですが……女王命令とあらば、お答えしないわけにはいかないですね」
「女王命令」
「御意」
苦笑し、セシルは少しもったいぶった言い回しで切り出した。
「……ウォルシンガムが、エリザベス様の即位以前は大陸に亡命していたことは、陛下もご承知の通りですが」
「うんうん。ブラッディ・メアリーのプロテスタント迫害から逃れるためよね」
身を乗り出して相槌を打つ私。
ついに、ウォルシンガムの謎が明かされる……!?
「それもありますが、実は……国外へ亡命中も、彼には情報提供者として動いてもらっていたのです」
「セシルのスパイってこと?」
「ええ。主にはイタリアとフランスで機密情報を探らせ、報告を受けていました」
「イタリアとフランス……」
イタリアといえば、小さな半島に自由都市国家がひしめき合い、権謀術策の限りを尽くして水面下で覇を争っている、陰謀の本場だ。
目的の為には手段を選ばない――権謀術数主義の代名詞とも言えるマキャヴェリを生んだのも、この16世紀のイタリアである。
そして、もはや伝統的にイングランドと仲の悪い、宿敵フランス。
どちらも実に諜報活動のし甲斐がありそうな国だ。
「彼の情報収集能力は天才的です。こちらに呼び戻してからも、国内外のパイプを利用して諜報活動に携わる傍ら、その高い能力を買って、宮廷内の情報収集も個人的にお願いしているのですよ。私はどうにも、そこまで手が回らないことが多いもので……つまり彼の業務とは、私の『目』です」
「セシルの目……」
宮廷にも敵が多いセシルが、個人的に雇っているスパイというところだろうか。
なるほど納得、という感じだが、期待していたほど衝撃的な事実! というわけでもなかった。ちょっと残念。
いや、何を期待してたんだって話なんですけどね。
きっとセシルの『目』であるウォルシンガムの業務には、私を見張るというのも含まれているのだろう。
「……ふーん……」
「陛下? 何かお気に召さないことでも」
「ううん。別に」
首をかしげるセシルに、目が据わっていたらしい私は首を振って否定した。
……つまり――もうすっかり慣れてしまったが――あいつが穴が空くほど私を見てくるのも、あの男の言葉を借りれば、「日常の業務の1つ」というわけだ。
いやまぁ、分かってましたけどね。
分かってましたとも。
~その頃、秘密枢密院は……
「どおゆうことだウォルシンガム! 俺でも陛下から腕を組んで頂くなど、舞踏会の場以外にはあり得なかったぞ!」
「……なぜ私に聞くのですか」
1度楽器を取りに戻ったらしい女王が宰相と腕を組んでる歩いているところを目撃してしまった守馬頭が噛みついてくるのに、ウォルシンガムは溜息混じりに問い返した。
「貴殿はセシル殿のブラザーだろう」
「…………」
ならば、この男との関係は何なのだろう。
今はと言えば、嫉妬に駆られたレスター伯が、コソコソと2人の後をつけ、物陰から様子を覗いているのに、なぜか付き合わされている。
少なくとも、友人ではないはずなのだが。
疑問を抱くウォルシンガムをよそに、ロバートは城の胸壁にかじりつきながら、そこから望める河畔を睨みつけていた。
昼下がりの陽光を反射し、黄金色に輝く河面に、一艘の小舟が浮かんでいる。
新緑の芽吹き出した木立を背景に、ゆったりと流れに身を任せる舟の上には、舟頭が1人立ち、若い男女が1組、向かい合って座っているのが見えた。
遠目にも、優雅な仕草でフルートを構えた女性が、陽光の下で機嫌良く微笑んでいるのが分かる。
この時期はまだ日によって寒暖の差が激しいが、今日は彼女の笑顔のように眩い太陽が、晴れ渡った空に輝き、ひと足早い春の恵みをテムズ河に注ぎ込んでいた。
「どうだ見ろ、まるで恋人同士のようだ! 俺は嫉妬で気が狂いそうだ」
「私には仲の良い兄妹のようにしか見えませんが」
「……意外に都合の良い目をしてるな、貴殿は」
そう呟いたレスター伯に、妙に感心したような目で見られる。
どこまでも都合の良い思考回路で生きている男に、それを言われるのは、いささか不本意だ。
「これは善し悪しですが、あの方には弱っている者や、苦境に立たされた者の保護者となりたがる性質がある」
「うむ、それはある。我らの女王は正義の女神であらせられる。さすればセシルへの優しさも同情と言うことだな」
「そうとも限りませんが」
やはり都合の良い方に持っていくロバートに、一応釘を刺す。
同情も義憤も慈愛もあるだろうが、女王が大いなる信頼と好意を彼女の精霊に寄せているのは明らかだ。
「サー・ウィリアム・セシルを迫害しようとすればするほど、陛下の精霊への愛は深まるばかりでしょう。早く気付いて、愚かな魂胆をやめればいいのですが」
これは、まだ見ぬ陰謀家たちへの忠告ではあったが――
ウォルシンガムは、横目で伯爵を伺った。
「貴方は、そのような嫉妬の炎を燃やしている場合なのですか?」
「何だ? 何の話だウォルシンガム。む、日差しが邪魔をして見えんっ」
手で陰を作りながら目を懲らす男に、ウォルシンガムは無感動に呟いた。
「……まぁ、私には関係ありませんが」




