第135話 ウィリアム・セシル暗殺未遂事件
サー・ウィリアム・セシルに仕える召使いの1人はこう言った。
「サー・ウィリアム・セシルは必要とあれば、お仕事が終わるまで睡眠も取られず、お食事もされず、休まれることもありません。時間を無駄にされることはなく、常に書物を持ち歩き、休息の時も読書をされています。1日に100通の嘆願書が来る日も、夜の内に全てに目を通し、翌朝には全ての返書がされています。私が、あまり無理をなされますなと気遣うと、『仕事が上手くいき、陛下が喜ばれ、国家のためになることが私の喜びなのですから、私の辛苦は私の喜びのためにあるのです』とお優しく微笑んでお答えになられるのです。あの方の、陛下と国家への愛はそれはとても大きなもので、私はそれを目の当たりにする度に、このような徳高い方にお仕えできた幸運を神に感謝しております……ただ、出来ればご健康のためにも、お食事は決まった時間に適量を取って頂きたいものなのですが」
このような召使いの心配もよそに、ウィリアム・セシルは睡眠こそ極力寝室で取るようにしているものの、食事に関しては、御膳の儀式に出席しなければいけない時以外は、執務室で席を変えてとるのが常だった。
座る場所を変えるのは、セシルの執務机は常に書類で埋もれているため、食事を取るスペースがないからだ。
そしてウィリアム・セシルは、金持ちに多い美食の趣味は持ち合わせておらず、手軽に空腹を満たせればよいという考えの人間だった。
そのため、耐え難い空腹を覚えた時になってようやく、召使いに命じて、その時早く提供できる食事を用意させるのだ。
この主席国務大臣の一風変わった生活習慣は、宮廷人であれば大半の者が知っていた。
その日も、セシルは食事を取らずに仕事に没頭し、昼下がりの中途半端な時間に空腹を覚え、召使いに命じて厨房から食事を持ってこさせた。
簡単な肉料理に野菜を添えたものがテーブルに用意され、セシルは仕事に一段落をつけて席を変えた。
――事が起こったのは、食事に手をつける直前のことだった。
「サー・ウィリアム・セシル。お食事時に失礼します」
そう言って入って来たのは、特徴的な黒衣に身を包み、髭を蓄えた長身の男――フランシス・ウォルシンガムだ。
「どうしました、ウォルシンガム。というか、その犬は一体……」
いつもならばノックをしてから入ってくるウォルシンガムが、何の前触れもなく扉を開けて大股に入室してきたことに、ただならぬ様子を感じるが、それ以上に、セシルは彼が抱えている生き物が気になった。
どう見てもその辺で拾ってきたとしか思えない、小汚い野良犬だった。
「まだお食事には手をつけておられませんね?」
「はい、ちょうど今から食べようとしていたところです」
「ならば良かった」
言うなり、ウォルシンガムは犬を床に放り出し、セシルの目の前の皿に載った肉を手掴みで投げ捨てた。
当然、目の前に落ちてきたごちそうに、みすぼらしい犬は尻尾を振って食いつく。
だが、肉を食べた途端、犬は奇妙なうめき声を上げ、不自然な痙攣を始めたかと思うと、急にけたたましい鳴き声を上げてのたうち回り始めた。
「これは……!」
「即効性の毒物です。宮廷内に放っていたスパイが、厨房で不自然な動きを目撃し、すぐに私の元に報せが入りました」
目を見開いたセシルに、ウォルシンガムが知らせてくる。その声はいつもと同様に落ち着いているように聞こえたが、やはり僅かに強ばった緊張があった。
「一体誰が……」
「いくつか気になる情報は入っています。ですが、宮廷内でのことですので、真相の究明は難しいかもしれません。下手人はスパイが監視しているため、すぐに捕らえられますが、どこまで知っているか」
「貴方がそう言うということは、私の失脚を狙う貴族派閥の誰かと言うことですか。それでは、闇の中ですね……」
命が狙われていながら、ウォルシンガムの言葉を吟味するセシルは落ち着いていた。彼らの目の前で、ついに野良犬が息絶える。
「ウォルシンガム、このことは陛下の耳に入らないように出来ますか? ご心労をおかけしたくないので……」
「残念ですが、先ほど私が野良犬を抱えて急ぎこちらに向かっているところを、目撃されてしまいました。問い質されましたが事情を話している余裕はなかったので、後ほど報告すると言ってしまったところです」
「ああ……それは仕方がありませんね。貴方が犬を抱えて走っていたら、誰でも気になります」
苦笑し、セシルは状況を受け入れた。
そんなセシルを見下ろし、ウォルシンガムが冷静に忠告する。
「貴方はご自身の防衛には無防備だ。もう少し慎重になられた方が良いでしょう。敵は日増しに増え続けています」
「心得ておきましょう。ウォルシンガム、今回は助かりました」
「この程度は、私の日課です。それより、これから陛下にこの件を報告しなければいけないことの方が気が重い。サー・ウィリアム・セシルを狙う者が内部にいるなど知ったら、あの方が黙っているわけがない」
「ははは。まあ大事には至らなかったわけですから、出来るだけ内々で処理するように丸め込みましょう」
ウォルシンガムの前では、笑いながら女王を丸め込む、などと言ってしまうあたりも、実にセシルらしかった。
※※※
「セシルが毒殺ですって~?!」
「未遂です」
「分かってるわよ! 完遂されてたまるもんですか!」
昼下がり、ウォルシンガムが小動物を抱えて足早にどこかへ行こうとしているという奇妙な光景を目撃してしまった私は、珍しく焦っているらしい男にほとんど無視され機嫌を損ねていたのだが、報告を聞いて別方向に怒りが向いた。
「セシルはどこ? セシル! 私の精霊!」
私室まで報告に来たウォルシンガムを引き連れ、スカートをたくし上げて、急ぎ足でセシルの執務室まで向かう。
「あっ!」
するとちょうど、セシルが扉を開け、部屋から出てくるところに出くわした。
「セシルー! 無事で良かったー!!」
ひしっと抱きつくと、セシルは私の肩に手を置き、困ったように笑った。
「陛下、ご心配をおかけしました。私は何ともありません……と言っても全然気付かなかったので、ウォルシンガムがいなければ危なかったですが」
「よくやったわウォルシンガム! 素晴らしいわ最高だわ。褒美をあげます。何でも欲しいものを言いなさい」
「結構です。私の日常の業務のひとつです」
ウォルシンガムの功績を立てるセシルの言葉に、私はありったけの賛辞を送ったが、相手の反応は素っ気なかった。
「ですが、1つお聞き入れ下さるなら陛下、サー・ウィリアム・セシルから離れて下さい」
真面目な顔で頼まれ、意図を伺って相手を見上げる。
「いくらサー・ウィリアム・セシルがあまり男性の匂いがせず、かつ包容力があり危険を感じないからといって、そのように抱きつかれますと、紳士であるサー・ウィリアム・セシルは対応に苦慮してしまいます」
「あらそう? ごめんなさい」
納得の解説に、私はパッとセシルから離れた。
それにしても、相変わらず怖いくらいの分析力である。だいたい合ってる。
だが当のセシルが、珍しく不満そうな顔をウォルシンガムに向けた。
「……ウォルシンガム、今の意見について少し物申したいことがあるのですが」
「私の意見ではなく、陛下の行動心理を代弁したまでのことです」
「うん、だいたい合ってるわ。すごいわねウォルシンガム」
「…………」
しれっと答えるウォルシンガムに、私も素直に褒める。セシルは微妙な顔で黙った。
「で? 私の可愛い精霊に手を出した不届き者はどこのどいつかしら?」
「分かりません」
息を巻く私に対して、ウォルシンガムの回答は素っ気ない。
仕方なく、私は自分で探偵になって推理した。
「セシルの料理に毒が入れられたのだから、内部の人間の犯行よね?」
「断定はできませんが、おそらくは」
「じゃあ、宮廷で、セシルを妬む人間……その動機……」
腕を組んで考え込む。
思い当たる節は、あるにはあった。
去年からセシルに任せている被後見人裁判所長官というポストは、前任のトマス・パーリー卿の死去によって空席が出来たものだ。
この役職は実入りが良く、多くの貴族廷臣たちにとって垂涎の的のポストだったようだが、里子制度を運用して、子どもを受け取り与える役割を持つ被後見人裁判所は、節度を誤れば人身売買組織になりかねない危うさを孕む組織だ。
この里子制度を理想的な形で運営するため、私は信頼できるセシルに被後見人裁判所長官の椅子を与えた。
実際セシルは、そのあたりの私の思惑をよく理解して、この制度に市場的価値が高まらないよう、意識的に後見権の譲渡価格を低く保ち、彼自身が模範となって被後見人を受け入れ、注意深く教育を与えて庇護し、見返りを求めない精神を強調していた。
だが、枢密院委員や、その他の高位貴族の中にも数名、次期長官に任じられることを望んでいる人間がいることを知っていながら、私がセシルにこのポストを与えたことに、彼らが不満を持ったとしてもおかしくない。
私としては、子どもの人生を預かる大切な組織の長に、私腹を肥やす目的で就任したいような輩は、初めからアウトオブ眼中だったのだが……
「私の人事に、不満を持っている貴族の誰かっていう可能性は?」
「十分に考えられることかと」
「ウォルシンガム」
私の疑問を肯定したウォルシンガムを、セシルが軽く睨むが、睨まれた側は涼しい顔だ。
「ウォルシンガム、セシルを殺そうとした犯人を調査してくれる?」
本来ならセシルかロバートに頼むところだが、今回セシルは被害者だし、ロバートは貴族なので、ウォルシンガムに依頼する。
「御意……というか、すでに調査中です」
「さすが……っていうかなんていうか、仕事早いわね」
感心しながら呟くと、セシルが申し訳なさそうな顔をした。
「あまり私のことで、手間を取らせるのは本意ではないのですが……仕方がないですね」
「でも、セシルのせいじゃないでしょう」
もし私の人事が他の人間の反感を買って、セシルに危害が及んだなら、それはむしろ私の責任だ。
そう思ったが、ウォルシンガムはセシルの方に苦言を呈した。
「サー・ウィリアム・セシル、貴方もご自身の身の安全に対して、危機感がなさ過ぎます。ご自身の現在の立場を理解し、最低限、毒味をつけるなどはなさるべきかと」
「はぁ、そうですね。つい面倒臭くて……」
セシルが苦笑いで相槌を打つ。あまり響いている様子はないが、一応反省はしているらしい。
なるほど……そういうところまで自己責任になるのか。怖い世界だ。
でも、どう考えても1番悪いのは、私怨でセシルを殺そうとする輩だろう。誰か分からないけど!
「今回の事件の真相はまだ分かりませんが、貴族廷臣の中には、自分たちが身分相応な待遇を受けず、庶民出の貴方が国政の中心を担っていることに、不満を抱いている者が多いのも事実です」
「ウォルシンガム、あまり陛下の前でその話は……」
「…………」
暴露するウォルシンガムを、セシルがたしなめるが、私はその話に、顔をしかめて押し黙った。
気に入らない。
生まれた時から持ってる身分だけで、おいしいポストがもらえると思ってんじゃねーぞ!
と資本主義国家育ちの私は思うのだが、本音をぐっと押し殺す。
階級制を敷いている限り、身分の尊重というのも必要な配慮ではある。
だが、身分にあぐらをかくだけの無能な人間を国家の中枢に置いても国益を損ねるだけなので、内閣の実力主義は徹底したい。そこを譲る気はない。
「セシル! 河行こう!」
やりきれない苛々を払拭するために、唐突に思い立った私の提案に、2人が目を丸くするが、私は強引にセシルの腕を取った。
今、私が滞在しているリッチモンド宮殿は、テムズ河沿いに建つ立派な宮殿で、私の特にお気に入りの城の1つだった。宮殿の城壁からも見下ろせるテムズ河は、これからの季節、舟を浮かせて遊ぶのに丁度良い。
まだ3月だが、晴れてるし、今日は結構あったかいから、厚着していけば大丈夫!
「え? あ、あの、陛下……!」
腕を組んで引っ張ると、セシルが戸惑いながらもついてくる。
「クマさん、今日のお仕事終わり! 調査よろしく」
「かしこまりました」
去り際命じた私に、慇懃に礼をして見送るウォルシンガム。
今日は、セシルを舟遊びに付き合わせることにした。




