第133話 親と子、先輩と後輩
「で、すっごく勉強熱心なのよ、アンったら」
朝の謁見を終わり、次の会議のために廊下を移動している間、セシルと子育ての話題で話が弾んだ。
「本を読むのが大好きみたいだし、今はラテン語の勉強を始めてるんだけど、とても覚えがいいんですって。この前なんて、私にラテン語で書いたお手紙をくれたの。先生が考えた文章を聞き取って書いたみたいで、綴りは間違えてるところもあるんだけど、字はすごく綺麗! この歳であそこまで書ける子は、なかなかいないんじゃないかしら」
ウォルシンガムに話したら、また親バカとか何とか言われそうだが、セシルは笑顔で聞いてくれる。
「エリザベス様もとてもお勉強が好きな方で、10歳の頃には、すでにラテン語とフランス語とイタリア語を習得されていました。エリザベス様と同様、勉学を好むアンは、素晴らしい才女になるでしょう」
「でも、お勉強ばかりじゃなく、ちゃんと遊んで欲しいっていうのもあるのね。宮廷に仕えてると、お友達もできないから、なかなかそうもいかないのかもしれないけど……暖かくなったら、ちょっと足を延ばして、一緒にピクニックに行こうって話してるの。セシルも、子どもたちを連れて一緒に行きましょうよ」
「そうですね」
セシルが優しい表情で頷く。我らが宰相は男やもめだが、後見人裁判所長官という役職柄、模範となって里子を受け入れていた。
「私も3人の子を預かっている身ですが、子供の成長というのは実に興味深いですね。柔軟な発想にはよくよく感心しますが、たまにあまりに予想外の行動を起こすので、驚かされます」
予想外の行動、でふと思い出し、私は話を変えた。
「あ、そうだ、覗きの子は元気?」
「元気ですが、その呼び方をすると、急に具合が悪くなると思いますよ」
セシルが苦笑する。クリスマス・イブの朝に、セシルからの急報を携えて、浴室に突撃をかけてきた少年は、彼の被後見人の1人だ。
後から聞いたところ、セシルの実の兄の一人の、忘れ形見なのだという。セシルには他にも兄弟がいるが、両親を事故で亡くしてしまった彼を、出世頭のセシルが手を挙げ、引き取ったのだ。
あれから、ふざけて『覗きの子』と呼んでいるのだが、本人と顔を合わせるたびに顔を真っ赤にするので、ついからかいたくなる。
「例の件に限らず、やる気と責任感が強すぎて、勢いよく空回ってしまうことがありますが、3人の中では1番元気が良く、忠義に篤い素直な子です。いずれは、陛下をお守りする頼もしい騎士のひとりとなるでしょう」
「その褒め言葉、本人に言ったらすごく喜ぶと思う」
「調子に乗るので言いません」
「ははは」
いかにも親っぽい溜息をつくセシルに笑ってしまう。彼は、少しだけ困ったような顔で付け足した。
「なかなか、そう素直な子ばかりではありませんが」
「あー……」
察し、相槌が微妙になる。
3年前に父を亡くし、オックスフォード伯爵を継いだエドワード・ド・ヴィアは、父親の遺言で、生前懇意にしていたセシルに遺贈された。
以来、彼が後見職としてついているものの、当の若きオックスフォード伯は、庶民出のセシルの被保護者となるのが不満らしく、何かと反抗的な態度を取っている。
「その辺も、色々大変よねぇ」
「人は思い通りにはならないものですから、それも含めて里親の責任の範疇でしょう」
悟りを開いたセシルの台詞に、新米里親としてはしみじみ聞き入る。
……と、その時、広い廊下を横切っていく人物が目に入った。
「あ、クマさん……」
せかせかと歩く黒い影を見つけ、声をかけようとしたが、取り込み中のようだったので、つい機会を逃した。
「なんだこの調書は、こんなもの1ページでまとめろ」
「ハ、ハイッ、すみません!」
後ろを同じスピードでついて歩く栗毛の青年に、振り向きもせずに読んでいた書類を突き返すが、すでに青年は両手に本の山を積み上げている状態なので、受け取るのに苦労していた。
「今日中に、過去にイングランドがスコットランドで統治権を行使した記録、実例、先例を集めろ。無知な馬鹿女に枢密院が査問を要求する権利があることを証明するに足るだけの資料をだ」
「ハイッ! わっ……とっと!」
あ、こけた。
突き返された書類を受け取ることに必死になり、積み重ねた分厚い書籍群に注意が回らず、バランスを崩してつまずく青年――ディヴィソン君。
そして、あろうことか、ぶちまけた本が、前を歩いていたウォルシンガムの後頭部を直撃した。
あーあ。
「ディヴィソン!!」
「ヒィッすみません~!!」
案の定、雷が落ちた。
ただでさえ迫力のあるウォルシンガムの怒鳴り声に、後輩に対する容赦のなさが加わり、私の後ろに控えていたグレート・レディーズがすくみ上がる。
そうでなくとも、最近のウォルシンガムは目に見えてイライラしているのに、何とも間の悪い子だ。
この間の悪いディヴィソン君。これまでウォルシンガムの私邸の方で、業務を補佐していたらしいが、去年の暮れ頃から宮廷に出仕し、秘書としてよくウォルシンガムの後をついて回っていた。
こんな子がウォルシンガムの下でやっていけるのかと心配するくらい、人の良さそうな爽やか好青年だ。
見た感じ対照的なので、あまり気が合いそうには見えないのだが、ウォルシンガムを尊敬して心酔しているらしく、わんこのような忠実さで職務についている。
見ててかわいそうなくらい扱き使われているが、本人は嬉しそうなので、きっと幸せなのだろう。
「大分機嫌が悪いようですね」
2人のやりとりを遠目に眺め、隣に並んでいたセシルが苦笑する。
「メアリーがいつまでも査問に応じないからね、きっと。ディヴィソン君かわいそー」
「あの男は信頼した者しか傍に置きませんから、あれでも可愛がっているのでしょう」
セシルらしいフォローが入る。
ディヴィソン君もケンブリッジ大学出身だと言っていたから、セシルが後輩のウォルシンガムに目をかけて宮廷に引き上げたように、いずれ彼も頭角を現してくるのかもしれない。
年が明け、ボルトン城に移された元スコットランド女王メアリーの査問は、入国後1カ月を経過しても開始されなかった。
メアリーが査問要求を拒否し続け、相変わらず代理人を通して、メアリーを女王に復位させよとの要求を繰り返しているからだ。
最近は、「それが叶わないなら、私はフランスに行きシャルル9世の援助を請います。今すぐフレミング卿に旅券を発行してパリへ向かわせ、受け入れの準備をさせなさい」という要求が付け加わった。
フレミング卿とは、メアリーを監視しているボルトン城の城主で、私の「メアリーには王族として接するように」という命令を守って丁重に扱っているため、調子に乗って家臣扱いをしていると思われる。
最近のウォルシンガムのイライラの原因は、主にこのあたりだ。
外国の城主を顎で使おうとするのも非常識な話だが、メアリーの元の立場を思えば荒唐無稽とも言い切れないから困る。何とも扱いにくい。
ウォルシンガムの心情にも共感しつつ、ガミガミ怒られているディヴィソン君に同情しながら、遠目に眺めていると、
「……怒鳴られてみたい……」
!?
何、今の!
誰!?
背後から聞こえた呟きに、思わず振り返るが、後ろには4人のグレート・レディーズが澄まし顔で控えているだけだ。
全く集中していなかった上、ものすごい小声だったので、誰が発したかまでは判別できなかった。
「どうしました? 陛下」
「あ、いや。別に」
セシルは聞いていなかったのか、私の挙動不審を気にしてくる。気のせいではなかったように思うが、まぁいいか。
怒鳴られてみたいとか、なんとも物好きな願望だが、私は怒鳴られるのは嫌いだ。
というか耳が良いので、急に大きな声を出されるとびっくりしてしまうのだ。心臓に悪い。
そして、無意味に喚き散らしているのでもない限り、怒鳴り声は対象への方向性、距離感が明確で、ものすごくエネルギーが乗っているものなので、嫌でも心に届きやすい。攻撃力が高いのだ。
普通に生活していたら、怒鳴られることなどあまりなさそうなものだが、私の上司は元高校球児の体育会系で、声の大きさで相手を威圧しようとするところがあり、仕事中、度々怒鳴られることがあった。
ものすごく仕事が出来る人で尊敬してたが、そこが玉に瑕だった。
実際、萎縮してしまうので、人を扱う手段としては有効なのだろうが、やられる方はたまったもんではない。
あ、思い出したらむかついてきた。
理不尽に怒鳴られた記憶が蘇るが、思い出し怒りとか不毛なので、忘れることにする。
まぁ、もともと変に正義感の強かった私が、理不尽を飲み込むという忍耐を覚えたのも、現代日本社会での訓練の賜物だ。
ストレス耐性は強い方だと思う。都合の悪いことを忘れるのは得意だし。
きっとストレス性胃炎とかとは無縁な人間だろう。
さて、このウォルシンガムとディヴィソン君の『無知な馬鹿女に要求が正当なものであることを証明する』ための努力は一応実を結び、最初は査問を拒否していたメアリーも、自分に有利な答申が出れば王位に復位させることと、彼女が自分の国の国民に裁かれることが絶対にない、という条件のもとに応じた。
だが、1月下旬からようやく開始された査問にも、遅々として進展は見られなかった。
スコットランド政府の調査で、メアリーとボスウェル伯が以前から恋人関係にあった証拠は色々と挙がっているのだが、メアリーはその全てを政府の捏造であると否定し、最終的には「王の言葉だから正しいのだ認めろ」の一点張りで、敵の告発は不正だと述べた。
彼女はそれだけで、自分に有利な答申を出せというのだ。
まったく埒が明かない。
結局、スコットランド政府代表として審議に参加したモレー伯も、幼いジェームズ王の摂政としての義務があり、長引く査問にいつまでもかかずらってもいられずに帰国した。
状況証拠からは、メアリーがボスウェル伯のダーンリー卿殺害を事前に知っていた、もしくは協力したと考えられるが、結局それを「十分に証明」することはできず、夫殺しの容疑は宙に浮いたまま、グレーゾーンを漂う元女王は、スターフォードシャー州のタトベリー城へと移された。
相変わらずスコットランド政府はメアリーの受け入れを渋っており、実際問題、プロテスタントの支配下でようやく国情が安定したスコットランドに、イングランドの王位継承権を主張するカトリックの女王を送り返し、復位させても両国のためにならないのは確かだった。
かといって彼女を自由の身にすれば、フランスやスペインに支援を求め、カトリック国家はそれを受け入れるだろう。
罪が立証されなかった以上、事態を傍観していたカトリックの国々は、彼女に再び同情を示し始めている。
大陸のカトリック国家の後ろ盾を得たメアリーは、自分を追い出した祖国とイングランドに復讐を考えるだろう。
そして、大陸のカトリック国家にとって、メアリーの存在は、彼らがブリテン島を侵略する絶好の旗印になる。
右も左も塞がれた結果、イングランドは、このやっかいな元女王を、目の届く場所に捕えておく他なかった。