第129話 聖母《the Virgin》
「いずれにせよ、このままには出来ません。我が国に身柄を留め置くのならば、かの女が引き起こした諸々の事態について、査問に服させなければならないでしょう」
当然、枢密院会議の俎上に載った、メアリーの今後の扱いについては、様々な意見が飛び交ったが、ノーサンプトン侯爵が口にしたその内容については、満場一致で決定した。
次に査問内容が検討されたが、1つの焦点としては、ボスウェル伯のものとされる犯罪に、メアリーが荷担したかどうかという疑惑に対する真偽も、勿論含まれていた。
「陛下、時間です」
「分かったわ」
枢密院会議に参加していた守馬頭のロバートが席を立つ。
「本日中に査問のための委員会を設置し、代表者は結果を私に報告して下さい」
私が席を立つと、委員達が一斉に立ち上がり、礼で見送る。
彼らに後を任せ、私は守馬頭を伴い、次の宮内長官、王室家政長官らとの会議の部屋に移動した。
この時期は国事が立て込むので、何かと話し合わなければならないことが多いのだ。
その次は、王室会計局長官とセシルらと、この1年の王室財政の収支報告だ。
「……待って。伝え忘れてることがあったわ」
移動の途中、ふと思い出し、私は衣装部屋に向かい、王室衣装係の侍女たちに声をかけた。
「メアリーから衣装を頼まれているの。そうね……2、3着、見繕って、サー・フランシス・ノリスに送っておいてちょうだい。色は、黒と、赤と……まぁ何でも良いわ。適当に似合いそうなものを選んでおいて。靴も忘れずに」
「かしこまりました」
さっきまでおしゃべりをしていた3人の侍女が姿勢を正して向き直り、従順に答える。
私が持っている衣装の中には、諸外国の王侯からの頂き物で、人の手に渡してはまずいものもあるが、その辺りは彼女たちも十分心得ているだろう。
「あ、『アレ』はダメだから」
「ウォルシンガム様から頂いた白のドレスでしょう。心得ております」
付け加えると、侍女達が含み笑いで答えた。
よく心得ている侍女達に安心し、踵を返して部屋を出る。
「お待たせ」
「もうよろしいのですか?」
「うん、忙しいから任せちゃった」
部屋の前で待っていたロバートを連れ、私は今度こそ会議室に向かった。
~その頃、秘密枢密院は……
「卿らにこちらを見て頂きたいのですが」
女王と守馬頭が退室した後、枢密院会議の場でセシルが差し出した数枚のパンフレットに、その場にいた委員たちが目を瞠った。
『これ以上、女の王はいらない』
1枚目のパンフレットに大きく書かれた批判的な見出しに、委員の1人が気色ばむ。
「これは……!?」
「今日届いた、ノリッジで押収されたスコットランド女王の批判パンフレットです」
『女は1歩先も見えずに感情で動く』
『自らの行動に責任を負う能力がない』
『淫らな女が権力を握ると国を滅ぼす』
『もううんざりだ!』
いくつかのパンフレットには、娼婦を意味する人魚が描かれ、頭上に王冠が載せられていた。
メアリーを侮辱する類のものではあるが、この国でこのパンフレットだけを見れば、別の風にも読める。
「イングランドにまで流れてきてるのか」
「あの女の愚行で、我らの女王の品位までが貶められている……」
それらは動乱に振り回されたスコットランド国民の切実な叫びだったが、ウォルシンガムから手渡されたこのパンフレットを見た瞬間、セシルが覚えた不快感と不安と同種のものを、委員達が感じているのは明らかだった。
『これだから女の王は』
『いずれはあの女王も』
そういった風潮は、確実に世論を浸食していくだろう。
男の王の失政は個人の能力の欠如と見なされるが、女の王の愚行の誹りは、女性全体に向けられる。
「これでは、メアリーの悪評と共に、同じ女王である陛下の名誉まで汚されかねない……」
新女王によるバランスのとれた執政と、枢密院たちの賢明な宣伝活動により、即位1年目のエイミー・ロブサートの怪死事件で受けた逆風を乗り越え、国内でのエリザベス女王の支持は盤石のものになろうかとしていた。
国外の大国やローマ・カトリック教会の脅威に晒され続ける今、国内での政権の安定は何を置いても維持すべき命題であり、こんなところで、余所から来たはた迷惑な女に足を引っ張られるのは、新女王と共に国政を牽引してきた枢密院委員達にとっても、我慢のならないことだった。
「なんと忌々しいことだ……!」
「対策を講じる必要があるのではないか?」
「――逆に利用しましょう」
予想通りの委員達の反応に、セシルは1つ用意していた提案を持ち出した。
「同じ島の2つの国に君臨する2人の女王――彼女たちが比較、あるいは同一視されることを避けるのは不可能です。だからこそ、今、地の底まで落ちたスコットランド女王と真逆のイメージを打ち立てるのです」
「真逆の……?」
「貞節なる処女王、純潔の乙女、聖母マリアの再臨――国家を破滅に導く淫売の女王への民衆の憎悪を、国家の安定のために貞淑を貫く、自らの女王への賞賛と敬愛に転化する」
セシルの提案に顔を上げた委員たちの表情に、驚きが浮かぶ。
「このイングランドで、スコットランド女王の不貞に嫌悪感を抱かぬ者はいませんが、今なら、それは跳ね返って、自国の貞淑な女王への賞賛へと繋げられる――これはチャンスです」
彼ら枢密院が、女王即位時から行っていたイメージ戦略に、この危機を利用するのだ。
「おお……」
「なるほど……」
「名案だ!」
このセシルの発案に、その場で異議を唱える者は誰もいなかった。
だが、もしその中に、より長期的な視野を持つ人間がいたなら、そのプロパガンダによる将来的な弊害に気付き、異論を挟んだかもしれない。
セシルは、あえてそのリスクに目を瞑り、この手段を選んだことで、ついに自身の迷いと明確に決別した思いがした。
4代に渡り、チューダー王家に仕えた己が、王家の僕ではなく、女王の僕であるという確信。
『聖母』としての女王の神性を高める試みは、成功すれば、生涯、国家の唯1人の主人であろうとする彼女の望みを実現する、大きな後押しとなるかもしれなかった。
※
「調べれば調べるほど不愉快な女だ」
報告書に目を通したウォルシンガムの不機嫌な第一声に、その書類を手渡したディヴィソンが怯えて背筋を伸した。
21歳のディヴィソンは、ウォルシンガムの私設秘書だ。これまでは私邸で別の仕事を任せていたのだが、最近は、宮廷での業務も手伝わせるようになった。
メアリー・スチュアートについて非公式に収集した情報をまとめたその報告書は、およそ王としての品性や理性を望めるような内容ではなく、中には、到底彼らの女王には伝えられないような内情までが含まれていた。
この期に及んで、メアリー側は『イングランド軍をスコットランドに派遣して、メアリーを復位させよ』との要求を繰り返していたが、スコットランド政府は、彼女の『個人の生活ばかりか、国を治めるにおいても見られた不品行』を厳しく糾弾し、これ以上『その支離滅裂な行動により国を危機に陥れるのを許容することは有り得ない』と主張していた。
この相容れない両者の板挟みにされるのは、予期せぬ形で巻き込まれたイングランド政府であり、彼らの主人だ。
「そ、それにしても……メアリー女王は、何を考えてこのイングランドに?」
「女の考えることなど分からん!」
間の悪い疑問を口にしたディヴィソンに、八つ当たり気味に答えると、若い秘書はヒイッと息を飲んで身をすくめた。
少し頭を働かせれば、イングランドに助けを求めることが愚策なことなど、すぐに分かるはずだ。
その先にどういう未来を思い描いて、このイングランドに乗り込んでくるのか、まったく理解が出来ない。
そして、理解出来ないからこそ、苛立つ。
男ならば、「まさかそんな馬鹿なことはしないだろう」と排除出来る可能性を、時には女は平気で踏み込んでくる。
愚かであることに対する恥じらいがない。
これだから、馬鹿な女は嫌いなのだ。
「だが、あの女がどれほど節度を弁えていなかろうと、どうでもいい。ただの女であればな」
敵側から見ても腹立たしい愚昧な行動に、悪態ならいくらでもついて出るが、問題はそこではない。
ただ色恋に溺れやすい、判断能力の欠如した女というだけであれば、同情の余地もあっただろう。
「問題は、あの女に明らかにイングランド王位への野心があるということだ」
新旧教の対立で揺れるヨーロッパ大陸の荒波に巻き込まれぬよう、必死に中庸を保とうとする新教国家イングランドに飛び込んできた、旧教の元女王。
しかもその女は、イングランドの王位継承権を持っている。
「あの女は、例え世界中のどこに置いたところで、我らの王を亡き者にしようとする勢力の旗頭と成り得る――恐ろしい宿命を背負った不和の娘だ」
ここまで死なずに辿り着いたこと自体、恐ろしいほどのツキと魔力を持った女性だ。
まるで、何かが――目に見えぬ時代のうねりのような何かが、あの女に人知を超えた力を与えているような。
その女が、やみくもに振り回す穂先が狙う最終地点に、己の守るべき王の姿があることに戦慄する。
ウォルシンガムは恐れていた。
それは女という小さな存在が、まったく男の理解の及ばぬ苛烈さでこの世界を掻き回していることへの、得体の知れない恐ろしさであったかもしれない。
「――ウォルシンガム様」
ノックをして、ウォルシンガムの執務室に姿を見せたのは、グレート・レディーズの1人、イザベラだ。
女王身辺の情報を度々提供してくれる協力者だったが、身分の高い公女が、一介の庶民議員を頻繁に訪れることは彼女の名誉を損ないかねないので、極力避けるよう言い含めていたはずだ。
だが、立場上追い返すわけにもいかず、席を立って礼を取ると、イザベラがチラリと傍らのディヴィソンに視線をやった。
彼女が提供する情報が、ディヴィソンに聞かれて困ると言うことはなかったが、視線の意味を悟った青年が気を利かせて一礼し、その場を立ち去る。
「先程、陛下の衣装部屋を通りかかった時、王室衣装係の侍女達が話しているのを聞いてしまったのですが」
ディヴィソンが立ち去ってから、ウォルシンガムの傍にいそいそと寄ったイザベラが、2人きりだというのに声を潜めて話を切り出した。
必然的に低い位置にある顔に向けて身をかがめる形になると、目を輝かせて耳打ちしてくる。
「彼女たちは、陛下からメアリーに贈る衣装を荷造りするように命じられ、ドレスを見繕っていたようです」
そういえば、メアリーがそんな厚かましい頼みを女王にしていたことを思い出す。
「そこで、侍女達が、陛下は『何でもいい』とおっしゃっていたのだから、メアリーへの嫌がらせで着古した安物の衣装を送ろう、などと話をしているのを聞いてしまって……」
何だそれは。
いまいち理解のしかねる思考に、ウォルシンガムは眉をしかめた。
「これは、陛下にお伝えした方が良いのでしょうか」
小首をかしげ、媚びるような上目遣いで見上げてくるこの女性は、どうやら、このことを女王に報告して、告げ口になる可能性を恐れたらしい。
情報提供と言うよりは、相談に近い。
「……いえ、必要ないでしょう」
だがそれは、ウォルシンガムにとっては些末すぎてどうでもいいことだった。
せいぜい、女とはくだらない嫌がらせや、益にもならない憂さ晴らしが好きだな、という通り一遍の感想を抱くくらいだ。
それを告げ口するかどうかを悩んで男に相談する女というのも、よく分からない。
「陛下は彼女たちに衣装の選定を一任されたのでしょう。『何でもいい』と。ならば、彼女たちの行動は命令違反にはなりません」
「でも……」
意見を求められたから率直に答えたウォルシンガムに対し、イザベラは悩ましげに俯いてしまった。
自分で結論が出せないのも、典型的な女の優柔不断だ。
必要あるかないかと言われればないが、『すれば良いかどうか』の判断は、状況と行動目的によって変化する。
実際のところ、これで、彼女が女王に報告しようがしまいが、それはウォルシンガムにとってはどうでもいいことだった。
その後の展開も予想はできたが、それもウォルシンガムにとっては取るに足りない、些末なことでしかない。
「そのお話だけでしたら、秘書を外す必要はないので、呼び戻したいのですが、よろしいでしょうか?」
「あ、はい……」
暗に、話が終わったなら帰ってくれと含意した台詞に、イザベラは頷きつつも、しばらくその場に留まっていたが、話すネタも見つからなかったのか、ディヴィソンと入れ違いに退室した。
「相変わらず可憐な方ですね、イザベラ様は」
お手本のような優雅な所作で去っていた美しい公女を見送り、ディヴィソンが顔を綻ばせる。
そんな部下に目を向けると、睨まれたと思ったのか、青年は気まずそうに身をすくめた。
「光の強すぎる女性には近づき過ぎない方がいい。特に、私達のような日陰者は」
この宮廷には、若いディヴィソンにとって誘惑も多いだろうが、身分の卑しい者が生き残りたいのなら、浮ついた行動は起こさずに、堅実に実績を積むことだ。
宮廷に上がり出したばかりの若い秘書への訓戒は、そのまま、自身への警告のようにも響いた。